昔、ある日、空に近い場所で
よく晴れた青空の下
彼との出会いは偶然で、そして明らかに一つの、人生の分岐点とやらだったに違いない。
手に持ったペットボトルの水をあおり飲む。
ちゃぽん、という水音が、自分しかいない空間に響く。
ここは大きな建物の中の展望フロアとでもいうのだろうか。
眼前に広がる綺麗に磨かれたガラス窓からは、パノラマビューでこの街の風景を見下ろすことができる。
屋外はよく晴れていて、空も青い。
うららかな陽射しとは裏腹に、人が全くいないこの展望フロア全体を、落ち着いた青暗い影が包んでいた。
今は撮影の合間の休憩時間。
役者たちはそれぞれ思い思いに過ごしているし、スタッフたちはこのあとの流れなんかのことで大わらわ。
ほとんどの者が、地上付近の階にいるはずだ。
俺みたいにわざわざ短い休憩時間の間に、エレベーターも動いていない高層階に上がってきて休憩しようなんて無駄な労力を使う思考は持ち合わせていない常識人たちばかり。
なんでわざわざそんなことをするのか、とかに意味があるわけがない。
数日前にこのフロアでの撮影が終わって、その時に見たここからの景色がなんとなく気に入って、時間があるならここにまた来たいと思っただけ。
撮影に入ると、一人でいられる時間はぐっと減る。
こういう場所を見つけて過ごせるのも、いいリフレッシュ、てやつだ。
まあ、リフレッシュできているかどうかは怪しいが。
座ったベンチに、ペットボトルを置いた。
その手が小刻みに震えている。
勝手に。
自分の意思とはまったく関係なく。
忌々しく、でもどこか諦めさえ内包した気持ちで、震える手をしばらく見つめた。
コレは、抑制剤の副作用だ。
強すぎる薬の効果で、服用したあとしばらくはこんな症状が出る。
今の抑制剤が自分の身体に合っていないのだろう、といろいろ試してもみた。
心配してくれた仕事の関係者や、同じくαの仲間内コミュニティが熱心に、有能なバース性医者や薬剤師たちを紹介してくれたりもした。
そのうえでの、今のこの副作用。
これでも、コレが一番症状が少なく、軽く、楽なほうだった。
俺はαとして第二の性が発現してから、裏社会の薬にお世話になってきた。
だからなのかもしれない。
それも考えて、古馴染みの医者をあたってみたが、結果も効果もたいして変わらなかった。
いよいよか、と思う。
今の世の中で、そう歳も取らないうちから衰えが始まるαは珍しくない。
奇跡的に抑制剤と相性が良く、Ωではなくても番が見つかって順風満帆なαももちろんいるけれど、同じ数だけ社会からドロップアウトしていくαがいる。
抑制剤の凄まじい副作用に身体が耐えられなくなって精神を蝕む前に、世界に点在するαの管理地なんかに引っ込んで、ほそぼそと、だがその能力は遺憾無く世の中のために発揮して、平和に心穏やかに暮らしていく。
まあそれは半分理想で、現実は。
抑制剤をやめて、副作用がなくなって、煩わしいことからは解放されるだろう。
だが、抑制のなくなったαの本能は、生き物として正しい渇望に耐えられなくなる。
愛を求め、飢え、己が番を持たなかった、持てなかったことに苦悩する。
肉体の欲望を満たすことはそう難しいことじゃない。
だけど、心が、魂が飢えている。
その渇望を満たせることは、なかなかに、……無い。
Ωの少なくなった世界で、いるはずもないと諦めさえする番を空想して、己の胸の内側の空虚な穴を見つめて、見つめて、αは早くに死んでしまう。
それが今の社会の当たり前。
βと同じくらいの寿命を生きる、番を持たないαの数は、今はどれくらいなんだろうか。
そんなことを考える。
俺の胸にも、同じような、未だ満たされたことのない空虚さと渇望は、在り続けている。
これが満たされるなんて想像もつかない。
それなのに、求めてやまない気持ちを捨て去れない。
どんなαも同じく口にする言葉がある。
「どれだけの名声を得ても、どれだけの称賛を得ても、どれだけ素晴らしい功績を上げ、讃えられても、決して埋まらないもの」
それを埋めてくれる、唯一番の存在は。
……過去の社会が、αが、愚かにも殺し手放した、Ωを蔑ろにした、現在への罰。
過去の負の遺産を引き継いだ現代人たちにはたまったものじゃないだろうけれど、どうしようもないものはどうしようもない。
「いないものはいないんだから、現実を受け入れるしかねぇじゃねえか」
そう、俺も現実を受け止める時が来ただけだ。
「……おや? 先客が居る?」
自分も使った階段の方から、明るい男性の声音が聞こえてそちらへ視線を投げた。
黒髪に黒い目。
眼鏡をかけた細身の東洋系の男性は、上等なスーツをしっかり着ている。
その格好で地上三十階だか四十階だかの展望フロアに登ってくるにしては、いい身体の鍛え方しているな、と内心感心した。
「あちゃー、お邪魔かな? またにするよ。いい日を過ごして」
こちらに気を遣って去っていこうとする。
「Have a good day.」としっかり挨拶まで残してだ。
「待った。あんたが残ればいい。俺のほうがそろそろ行こうかと思ってたくらいだ」
ポケットから取り出してみた携帯で時間を確認してみたが、実はまだ休憩時間はあって、呼び出しの連絡も来ていない。
ゆっくり現場に戻ったとしても、出番まで肩身の狭い気分をたっぷり味わえるかもしれない。
立ち上がろうかどうしようか考えて、とりあえずペットボトルの水を手に持った。
ちゃぷんという水音が、男性のほうからも聞こえた。
彼も何かしらの休憩のためにこの場所を選んだのだろうか?
一口、手に持っていたペットボトルの水を飲み込んだ男性は少し考えてからこちらに足を進めてきた。
「もし君が気にしないのであれば、居てくれていいよ。私もそれほど長く居るつもりはないし」
「俺ももう長くは居ない。ちょっとした休憩時間なんだ」
「私もだよ」
お互いに休憩時間。
そう聞いて、彼もまたこの映画のスタッフや関係者かと考えた。
撮影現場で働いている人の人数は多すぎて、細かく把握はしきれていない。
その中にこんな立派な身なりの東洋人がいたとしてもおかしくはないだろう、とは思う。
彼は窓の向こうに広がるパノラマビューの景色を見ながら、その眼鏡に青空を反射させたまま、こちらにやってきた。
「こんな中年男が年甲斐もなく頑張って展望フロアまで階段登ってやってきた努力を汲んでくれるなら、良ければほんのひととき話し相手にでも……」
そこで言葉が切れた。
ベンチに座ったままの俺を見た男の顔が驚きに変わる。
「あ、なんか見たことのある顔?!」
そんなふうに言われるのはもう慣れっこなので、苦笑いを浮かべる。
両手を広げて肩を落としながら、自己紹介でもするかと口を開いた。
「しがない俳優をやってるよ。ヴァルティ・ノーススターだ」
名乗ったことで、彼はなにか納得したかのように一人で何度もうなずいた。
「映画撮影の関係者たちはみんな下にいると思っていた。失礼した。驚いてしまって」
「その言い方だとやっぱり関係者か?」
「いや、ゲストに近い。現場付きの医療スタッフがいるだろう? その中の医者の一人が友人でね。研究の相談ついでに撮影現場に呼ばれたんだ」
そう言って、彼は手を差し出してきた。
「シュロ・ミズサネ。こことは違う国で医者と研究者をやっている。α仲間同士、お見知りおきを。大人気αアクションスターさん」
にやりと、皮肉めいた、いたずらめいた笑みを眼鏡の向こうに浮かべるシュロと名乗った男がαであることは言われなくても気配で分かっていた。
α同士が感じ合う感覚とか、そんなものでだ。
「シュロが名前? ミズサネが名前?」
彼の手を取って握手を交わしながら、確かめる。
「ああ、私の名前はややこしいだろう?」
彼はポケットを探りながら、俺が座るベンチの隣に腰掛けた。
そして渡される、彼の名刺。
「水実秋露、シュロが名前だ。好きに呼んでくれ」
目を通した秋露の名刺の、名前ではなく肩書にこそ驚いた。
ドクター(医者)。
そして。
国際バース性科学研究機構・特殊特級研究員。
ーー国、バース性医療総合研究センター・最高顧問。
仰々しくもある肩書きがズラリと名前の上に載っていた。
彼の見た目は、自分とはそれほど変わらない程度に見える。
思わず、ヒュウ、と口笛を鳴らした。
「立派なセンセイ様が、なんの気まぐれでこんな誰もいない展望フロアまで上がってきたんだ? 撮影のせいでこの建物は今は貸し切り。今日はエレベーターは動いてない」
秋露はもう一度、ペットボトルの水を飲む。
それから、窓の外の景色を見つめた。
「高いところが好きなんだ。少しでも空に近い場所に行きたいと思ってしまう」
他人の好みや趣味を、わざわざ否定しない。
俺も高いところや空は嫌いじゃないし。
だけど、その秋露の言葉は、なにか別の重みがあるように感じられた。
……それをわざわざ、追求するつもりはないけれど。
「運動になっていいんじゃないか? 医者や研究者ってのは、部屋にこもりがちなのが多いしな。ご立派な肩書き背負って、椅子に座ってふんぞり返っているよりずっといい」
先ほどわざわざ、大人気αアクションスターさん、と揶揄してくれたお返しに、彼の肩書きを弄る。
その皮肉を理解してくれたんだろう。
「まさしくね」
秋露は喉を鳴らして笑った。
「それにこの展望フロア、盛大に爆発するんだろう? ある意味屋上に行くより空に近い」
うきうきと語る秋露の口から出てきた、外部に漏らしてはいけないはずの撮影の内容にギョッとする。
「誰に聞いたの? それ」
「監督」
「ゲストに盛大にネタバレしていいのかよ? まったくあの人はいつもいつも突拍子のない……」
「安心してくれ。私が今晩ここを発って飛行機で空を飛んでいる間に、第一弾ティザーが全世界に流される予定だそうだ。そこに、ボカーン!!」
ああ、時間的には情報を開示していいギリギリのところを伝えた、ということか。
自分も軽く笑い、もう一度ペットボトルの水を飲もうと手を伸ばしかけて、やめた。
だいぶ治まったとはいえ、震えはまだ止まっていない。
それを隠すように拳を握る。
秋露がまた、水を飲んだ音が静かなフロアに響いた。
そして、薄く青い静寂が短く落ちる。
「……君の貴重な休憩時間を共有させてもらう、なんてファン垂涎のイベントを許してもらったのだから、私もささやかなお返しをしようかな?」
おかしな提案をしてくるな、と秋露を見る。
「……俺は別に礼をされるようなことはしてないぞ?」
「君は思っているよりも私の国で人気が高いんだよ。この現状を姪っ子に話したら、『うわぁ、おじさんすごいね』なんて言ってくれるわけさ。それは礼に値する」
「へぇ。……なんならサインでも書こうか?」
「是非頼みたいね」
笑いながら、秋露は手を差し出してきた。
パタパタとポケットを叩いてみたけれど、あいにくペンは持ち合わせていなかった。
「書くもの、あんたが持ってないか?」
聞いてみると、秋露は目を見開いて、それから歯を見せて笑った。
「違う違う、サインは今じゃなくていい。君の抑制剤を見せてくれ。持ってるだろう?」
確かに、抑制剤数回分が入ったピルケースはいつだって持ち歩いている。
今叩いて探ったポケットの中に、確実に。
「見て楽しいもんでもないだろ? あんたの仕事じゃ毎日見てるだろうに」
「まあ、見るだけでどんなものか分かる程度にはね」
手をもう一度差し出して、秋露は見せろと催促してきた。
少しだけ考えて、ピルケースを彼に渡す。
ケースを開けて中を見た秋露の眼鏡の向こうの表情が、一瞬だけ険しくなった気がして、そしてただただ真剣なものになった。
「なるほど、なるほど」
そして、秋露もポケットから携帯を取り出す。
「この錠剤、分かるかな? この二つ」
「ん? ああ」
ピルケースの中にある、一回分ずつに分けてある錠剤たちの中の二つを指し示す。
「これをこっちの薬に変えてみるといい」
そして携帯の画面に写る薬を見せられた。
「……それ、ずっと昔に飲んでいた薬だと思うが? 効果は弱いはずじゃ?」
「お? いい記憶力と知識だ。自分がどんなものを飲んでいるかちゃんと分かっていて素晴らしい」
秋露の口調は、すっかりお偉いセンセイ様だった。
「昨今の強い抑制剤が及ぼす影響っていうのも、たくさん見直されてね。これもその一つだ。この比較的初期バース性発現時に処方される薬は、他の薬の効能を上げる性能も確認された。万能というわけでは決してないけどね」
パチリとピルケースの蓋を閉じ、渡し返してくれる。
「今飲んでいるこの処方が悪いと言っているわけじゃない。またいずれ、同じ処方に戻ることもあるだろう。だけど、今はまだ君なら、君の体力なら、さっき教えた二つ分の錠剤を減らして余裕が持てる」
秋露から受け取ったピルケースに、自然と視線が落ちた。
微かに震えている自分の手を。
ひとときでも、これがなくなる。
余裕さえ持てると光明を示された。
希望というものを感じたというなら、この時だったに違いない。
「下にいる私の友人の医者に、すぐ処方箋を書くように連絡しておいていいかい? 申し訳ないんだけど、私自身にはそこまで時間がなくて」
「……助かる、……いや、礼を言う。ありがとう」
眼鏡の奥で、秋露は片目を瞑って見せた。
「役に立てたなら嬉しいよ。それに、空きっ腹に抑制剤を飲むのは一番いただけないぞ? 飲む前に何でもいいから少し腹に入れること」
そして、秋露は反対のポケットからきっちりと小さな袋に入ったクッキーを取り出して俺の手の上に乗せた。
「副作用の震えは、さっき抑制剤を飲んだばかりだから、だろう? 食べるといい」
あまりにも簡単に見抜かれている。
苦笑いを浮かべて、ありがたくクッキーの封を切った。
ふわりと香る、甘くて香ばしい匂い。
「いい匂いだ」
心の底からそう思った。
その気持ちが自然と口から出ていた。
食べるのがもったいない。
確かにそう思ったのに、我慢なんてできずに口に含んでいた。
「美味い……!!」
また心の底からそう思って、言葉がこぼれていた。
噛みしめる。噛むのも惜しい。
飲み込む。飲み込むのも惜しい。
できることなら一生口に含んでいたい。
そんな狂気じみた思いと、飲み込まずにはいられなかったそれが胃に落ちたと感じたときに、一瞬だけ、一瞬だけ確かに、身も心もすべてが満たされたような満足感があった。
不思議な感覚だった。
自分でもよく分からなくて、何が起こったのかと疑問に思いながら、己の身体を見た。
「……センセイ、俺は今なにを食っ……」
聞こうとしたところで、携帯がけたたましく着信音を鳴り響かせた。
静かだった展望フロアに電子音が響く響く。
画面には、見慣れた医者の名前。
秋露が処方箋を書いてもらうために連絡すると言った友達である医者は彼だったのか、と理解する。
「どうぞ、出て。薬も早めに受け取るほうがいい。私はもう少しここで休憩してから行くよ。撮影頑張って」
「分かった、行くよ。ありがとう。よい一日を」
「君もね」
お互い別れを告げあって、立ち上がる。
ペットボトルを持つと、秋露を残してフロアを出て、携帯の着信に答えた。
「Hello?」
電話口の向こうから、驚きと興奮で叫ぶ医者の声が聞こえて思わず顔をしかめる。
「分かった、分かった。今そっちに向かってるから」
それだけ伝えて通話を切ると、地上へ向かって確かな足取りで階段を降りていく。
自分の足音と一緒に、ちゃぽんと水が揺れる音が聞こえて、ハッとなった。
……あれだけままならなかった震えは、止まっていた。
ヴァルティ・ノーススター
水実秋露




