この国の散髪屋さん
理容室と美容室は全然違う
秋露に紹介された店は、こぢんまりした理髪店だった。
もっときらびやかな整髪店や美容室を想像していた分、拍子抜けしてしまう。
別にそうじゃなくてがっかりだったとか思ったわけじゃない。
むしろ逆だ。肩の力が抜けた感じ。
今まで自分が関わってきた美容師なんかが、自分の店だから来てくれと俺を呼んだ店が、そういったものが多かった。
だから、そういうもんだと思ってしまっていた。
俺は裏の世界から表の世界の煌びやかな場所へ住む場所を急に変えたから、いうなれば極端から極端へ、一般的な当たり前というやつをよく知らない。
あとは人との繋がりやコネクションから来る善意ってやつを薄く信用して、紹介してくれるオススメを頼りに色々試している。
でも結局、今までに味わった「オススメ」たちに満足したことはなかった。
いや、みつきが教えてくれたさっきのラーメン店には大満足だったなと考えを改めながら、店のドアを押し開いた。
「いらっしゃいませ」
元気のいい店主の声が飛んできた。
清々しい笑顔の若い店主が一人。
店内は、美容室、とは少し違った雰囲気。
俺はここでも驚きの体験をして、そもそもこの国に対しての認識を改める必要があるんじゃないかと、深く考えることになるのだった。
店主は、気のいいβの男性だった。
長年、秋露の髪も切っている友人で、シンと名乗った。
彼は俺を見て「お会いできて光栄です」と握手を求めてくれたが、すぐに俺をシャンプー台のほうへ導いて、仕事に取り掛かった。
天井を向いて寝かされ、顔にガーゼの布をかけられる。
すぐに洗髪が始まる。
人に髪を洗ってもらうことなど記憶にある中では指折り数えるほどもない。
「熱くないですか?」
お湯を少しずつかけて確かめ、洗髪が終わる前には「かゆいところはないですか?」と丁寧に彼は静かな声で聞いてきた。
俺は髪を切りに来たはずなのだが?
そんな疑問が頭をよぎる。
シン店主が散髪台へ移動を促してきたことで、ほっとしたくらいだ。
彼は俺を散髪台に座らせ、クロスを着せ、よく濡れた長い髪をコームで丁重に梳きながら真剣な眼差しで髪を見ていた。
そして柔らかい笑顔で、鏡越しの俺と目を合わせた。
「今日はどんなふうにしましょうか?」
「ああ、短くしてほしいんだ。バッサリとな。役作りのために伸ばしていたが、もう終わったんでね」
シン店主は笑顔で黙ってうなずく。
「細かい指定はない。任せるよ」
彼が考えた時間は短かった。
ハサミを握ったシン店主の目が真剣になる。
しゃきん、と髪にハサミが入る音が心地良く、静かな店内に響いた。
出来上がりは、それはもう素晴らしかった。
散髪後、もう一度丁寧なシャンプーでさっぱりした、鏡に映った短い髪の自分に思わず声を上げる。
ドライヤーで乾かし終えたあと、シン店主は大きめの鏡を手に、俺の後ろへ回った。
合わせ鏡になって、後頭部までどうなっているかがよく見える。
サイドを刈り上げて耳周りがスッキリさせてある。前髪は少しだけ長めのアシンメトリー。後ろは短いウルフカット。
それから見本とばかりに、シン店主がワックスをほんの少しつけた手でササッと髪を整えてくれた。
普段の自分でも簡単にやっていけそうな整髪だ。
そして、髪を切り終わって終了ではなかった。
シン店主は散髪台をリクライニングさせて、俺の顔に熱い蒸しタオルをそっと置いた。
なにをされるのか分かっていないまま待って、シン店主がなにやら用意するカチャカチャという音を聞いていた。
そしてタオルが優しく取り払われ、ひげ剃り、眉剃り(全体を指して顔剃りと言うらしい)が静かに丁寧に行われていった。
そしてそれらが終わったあとも、シン店主はゆるやかに俺の首や頭などをマッサージして、特殊な組み方をした手で肩や背を心地良く叩き、ようやく、すべての工程が終わったと、彼は笑顔で言った。
「お疲れ様でした」
疲れなんて、どこに?
あまりにも手厚いケアを受けた。
髪を切りに来ただけだったのに?
疑問を隠せないまま、代金を払うときになって、また驚いた。
自分が知っている世界の相場の半分以下どころじゃない。
「値段を間違ってないか?!」
思わず聞いてしまうほどに。
シン店主は笑顔で、間違っていないと笑った。
「じゃあ、せめてチップを」
「この国にチップ文化はありませんよ」
そう言って笑って、やんわり断られた。
唖然とするしかない。
どうなってるんだ、この国は。
シン店主がβであっても、唸るほどの腕を持っていることはよく分かった。
そういうβがいることは、もちろん知っている。
役者の世界にはそんな人物はごまんといたから。
その技術に対してなにか報うことができないかと思案を続ける俺を見て、シン店主はやっぱり笑顔で、もしよろしければ、と改めて態度を丁寧なものにして、尋ねてきた。
「店の名前や自分の顔など必要ありませんので、この国で髪を切って、良い体験をしたとSNSなどで呟いてくれませんか?」
「確かにいい宣伝にはなると思うが……、ん? この店の名前は出さないのか?」
「はい、いりません。細々とやっていけるだけの稼ぎはありますし、なんなら水実先生から巻き上げますので」
そこで秋露の名前が出てきて、思わず笑ってしまった。
「じゃあなんで、宣伝を?」
「この店のような理髪店はもう多くが消えてしまいました。それでもやっぱり腕には自信があるんです。ちょっとした誇示ですね。大人気のスターにも褒めてもらえる技術者が、小さな国のこんな街にもいるんだぞっていう」
それはきっとシン店主だけじゃない、この国のいろんな技術者たちの誇れる、誇りたい声だ。
声高らかに威勢良く誇示するのではない。確かな技術を持って静かに積み重ねている者たちを褒める呟きになってほしいという、ささやかな願いだった。
俺はシン店主にも協力してもらって、髪の仕上がりのベストショットを何枚か携帯で撮影し、即座にそれを呟Xに投稿した。
一緒に書き込んだ言葉は「素晴らしい理髪店で髪切った」。
それだけ。
普段からほとんど使わず、俳優引退を発表してからまったく使ってなかった呟Xのアカウントだが、フォロワーはあまり減っていない様子だ。
シン店主が「俺もフォローしてるんですよ」と、その時初めて素の表情で照れながら言った。
彼と握手を交わして、笑顔で店を出た。
頭が軽くなったのは、物理的に髪がなくなったからだけじゃないだろう。
足取りも軽く、帰路を行く。
秋露のオススメにも大満足だ、と心軽く、空を見上げた。
……ちなみに、俺はいつだって呟Xの通知はオフにしているので、フォロワーのリアクションがどれほど付いたのか知るのは、携帯の設定を終えたカミユに知らされてからになる。
それまで気にも留めないのだった。
ヴァルティ
シン店主




