三階完全会員制ジムにて
匂いを気にするお年頃
外周ランニングを終えて、研究センターの中へ戻ってくる。
秋露に説明を受けていた、三階の完全会員制のジムへと行ってみることにした。
入室の手続きや登録なんかは、初めての利用だったのにも関わらず、すんなりと無人受付機で受け付けられた。
前日に秋露が行ってくれた生体認証がここでも大いに役立ってくれた。
総合的には、感謝しかない。
騙し討ちのように運命の番を紹介してきたことは、良いとも悪いとも言い難いが。
早朝過ぎて、ジムには俺以外に誰もいない。
スタッフの常駐時間外だということも分かる。よくあることだ。
ジムの設備の見事さや、清潔さ、綺麗さなんかに感動しつつ、ワークアウトに取り掛かった。
ある程度時間をかけて、身体を動かした。
シャツに汗が染み込んで滲むほどになったころ、コンコンコン、とジム内の機器のエリアを区切る透明な壁を叩いて、存在を知らせてくる者がいた。
どうやらいつも白衣を着ているという意識が定着していたために、それを着ていない姿に一瞬、誰だ? と疑問に思った。
改めて、それが秋露だと理解する。
動きやすそうなシャツとスエット姿という、今の俺と大差ない、ラフな格好をしている姿は珍しかった。
「や、早いね。ヴァルティくん」
「あんたもな、秋露センセイ」
秋露が差し出してくれたペットボトルのミネラルウォーターをありがたく受け取り、ベンチへ移動する。
「歳を取ると朝早く目覚めるようになるうえに、立場上、思うような自由時間ってやつがこんな早朝にしか取りにくくなってしまってね」
蓋を開けて水を煽り飲む俺を目を細めて眺めたあと、秋露は乾ききっていない黒髪を手で梳いた。ほんの少しだけ、白髪が混じっていることに今さら気づいた。
「スパに行ってたのか」
「うん。さすがに風呂には入っておかないとね。もしもみつきに『おじさん、臭い』って言われでもしたら、その場で泣き崩れる自信があるよ」
くっくっく、と喉を鳴らして笑う秋露の愉快な表情に、俺はそっと自分の腕を鼻に当てて嗅いでみた。
昨日、ちゃんと風呂に入ったんだから、臭くはないはず。
ただし今は絶対に、たいそう汗臭いだろうけれど。
漠然とした強迫観念を抱いた。
俺も間違いなく、みつきに「……臭い」とか言ってドン引きされたら、泣き崩れそうだ。
カミユには今までに「汗臭い!!」「おっさん臭い!!」「シャワー浴びてこい!!」などと怒鳴られたことはある。あれも地味に辛かったけれど、多分比じゃない。
「俺もスパに寄って行こ……、……しまった、着替えのシャツを持ってきてない……」
「おやおや」
秋露がまた笑う。
「そういや、本国から送っただろう君たちの荷物は?」
汗の染み込んだシャツの襟元を摘んで、その濡れ具合に絶望していた横から、尋ねてくる。
「ん? 必要そうなものは持ってきた。送ったものなんかはないぜ? 全部処分してきたから」
そう、バックパックに詰められるもの程度しか、今の俺とカミユには荷物らしいものはなにもない。
「……潔いね」
「屋根があって寝るところがあって食べ物にも困らなさそうなら、なんとでもなるだろ? あとは必要なものはその都度買い揃えるよ」
秋露は顎に手を当てて、軽く考え込んだ。
「そうか、……そうだね。買いたいものができたらみつきに言うといい。お店を教えてくれるだろうから、一緒に行って揃えればいいね。ああ、そうそう」
秋露はポケットから携帯を取り出して、俺の携帯にメッセージをポイポイと送りつけてきた。
さっきまで使っていたトレーニングマシンの横に置きっぱなしにしてきた携帯がポコポコと受信音を響かせた。
のろりと立ち上がって取ってきて、戻る。
「頼まれていた君の髪の散髪は十三時に。カミユくんの携帯購入の予約はお店のオープンと同時に取れたよ。十時だ。余裕は十分あるはずだよ」
送られてきたメッセージには、丁寧に名前、場所と地図、アクセス方法、時間、担当者の名前までしっかり書かれていた。
「……十三時…、……P.M.1:00のことか。ああ、分かった」
秋露はなんでそんな言い方をしたんだろう? と若干の疑問を覚えながら、メッセージに書き込まれた時間と照らし合わせて理解した。
「携帯の手続きを終えたら、カミユと外で飯を食うか。俺はそこから髪を切りに行って……、あいつはどうするかな? 話し合わないと」
「そこにみつきも忘れずに混ぜておくれよ?」
「ん? 当たり前だろう?」
当然だと返事をすると、秋露はゆっくりと目を細めて微笑んだ。
「秋露センセイは、みつきを大事にしてるな」
「そうだね」
皮肉のつもりだったり、嫌味のつもりだったり、意味を含ませたものだったり、そういう気持ちで言ってみたのに、秋露は迷いなく、しっかりと肯定しただけだった。
「多少、いき過ぎに見える」
そう見えたのは、俺がみつきの運命の番だからだろうか?
それとも、そんな関係でなかったとしても、秋露はみつきに対して過保護だと感じただろうか?
「ふむ? 君にまでそう言われるとは」
心外だ、と言わんばかりだったけれど、秋露は大して気分を害された様子もなく、飄々と言葉を続けた。
「娘同様の姪っ子がΩで、研究協力してくれている。研究者であり、医者である分、被験者の状態から感情から境遇まで密接に関わる。養親として、みつきの面倒を見て十五年だ。そんな私の行動を、言葉一つで片付けたいかい?」
ひらっと、秋露は手のひらを上に向けて振った。
「すまん。心から詫びる」
謝罪はすぐに、ためらうことなく出てきた。
「謝罪をくれてありがとう。今までに同じ質問をしてきた者たちは、詫びなんて一言もくれなかったよ」
「そうなのか。……カミユはαだけれど、多分、あんたと俺の心境は、そこまで変わらないだろう」
「そうかもね」
秋露はまた、喉を鳴らして笑う。
「……なあ、秋露センセイ、あんたが職業柄秘密主義なのは分かるけど、できればもう少し込み入った話がしたい」
「構わないよ? 君が落ち着いてきたら、夜に酒でも飲みながら話そうじゃないか」
断られることも視野に入れていたのに、秋露は変わらない声音ですんなりと了承をくれた。
拍子抜けしてしまうほどの気楽さでだ。
「いいのか?」
「いいとも。オススメの酒でも用意しておくよ」
改めて聞いてみたけれど、やはり同じ。
その一見気楽そうな態度を、本気と取っていいのか、ただの社交辞令と取ったほうがいいのか、悩んでしまうほどには軽かった。
「約束だからな」
「ああ」
だから念を押しておいた。
今の自分にはそれくらいしかできそうになかったからだ。
秋露がベンチから立ち上がる。
そろそろ行こうかと行動をはじめたことがすぐに分かった。
微かに振り返り、彼がなにか言おうと口を開きかける。
だけど、その口から言葉が出る前に、俺の手の中で携帯がけたたましく着信音を響かせた。
思わず携帯の画面を見る。
全然知らない番号だ。
かろうじて、この国の携帯電話からかけられた番号だと理解できる。
秋露はそっと手で、電話を優先しろ、と優しく促してくれた。
相手が誰なのかと訝しみながら、通話ボタンを押した。
「Hello?」
「ルティーッ!! どこいるんだよ?! 帰ってくるの遅すぎなんだけど?!」
電話の向こうの相手が誰かなんてすぐに分かった。
聞き慣れた、カミユの憤った声。
「今、三階のジムで……、カミユ、お前、誰の携帯使ってるんだ?」
「みつきサンのに決まってるだろ?! 身体動かすの大事だけど、さっさと帰ってきて!! みつきサンが朝食作ってくれてるけど、ルティがもうすぐ帰ってくるはずだって俺が言っちゃったから、待ってるんだよ!! 食べずに!!」
カミユの声は、スピーカーにしていないのに秋露にまで十分聞こえたようだった。
声を殺して笑っている秋露を見ながら、電話の向こうのカミユに返す。
「分かった分かった。すぐ戻る」
「はやく!! 走って!! 速攻で!! 待ってるから!!」
ブチィッ、と電子音さえ響かせて、通話は切れた。
「ふふっ、これは早く行ったほうがいいね」
「そうするよ」
立ち上がり、ポケットに携帯をしまう。
「用事が終わったら、抑制剤の見直しもするからね。帰ってきたら必ず声をかけに来てくれ」
「ああ、分かった。良い一日を」
「君もね、良い一日を」
二人でジムを出て、すぐに廊下の先で、手を振り合って別れた。
カミユの機嫌を損ねないように、比較的足速に廊下を進んで、エレベーターに乗り込む。
生体認証を素早く済ませ、目的階のボタンを押し、エレベーターは滑るように上昇をはじめた。
「……、……、……みつきの携帯番号、ゲット……」
取り出し直した携帯にきっちりと登録を済ませると、ポケットにしまい直す。
ふと、エレベーターの鏡に映った自分の表情が、なんでもないもののはずなのに宝物になるものを見つけてポケットにしまった少年のような喜びで緩んでいた。
その締まりのない表情に自分で驚いて、無駄にきりりと気を引き締める。
エレベーターはポーンと音を立てて到着し、ゆっくりとドアが開いた。
ヴァルティ
秋露




