その眠りの安らかさ
抗う術のないもの
あれ? 風呂ってこんなに気持ち良かったっけ?
思ったことは、そんなこと。
浴室に入る前からなんとなく心地良さを感じて、浴室に入ったときにはもう居心地の良さやいい匂いを感じて、湯船に浸かったら思考が溶けていた。
もともと風呂は嫌いじゃないけれど、シャワーが多い生活習慣。湯船に入ることは毎日じゃない。
でも、お風呂どうぞと言われて、湯船にたっぷりのお湯が張ってあったら、入るだろ?
肩まで湯に浸かっていたはずが、気がついたらぶくぶくと口まで入り込んでしまっていてハッとした。
いかんいかん。
このままじゃ湯船の中で寝てしまいそうだ。それって確か、色々危険なはず。
もう十分長くお湯に浸かっていた。
かなり癒された。リラックスした。筋肉も解れただろう。身もきれいになったし、心の余裕も取り戻した。
さっさと上がって、髪を乾かして俺も眠らなきゃ。
カミユと一緒で時差も食らっているし、思いがけないトラブルも、秋露との長話も、仕事の長話も。
そしてなにより、……運命の番に出会った衝撃たるや。
もう一度、手のひらで湯をすくって、ばしゃりと顔を洗う。
なぜだろう、それだけで凄まじい多幸感に襲われる。
風呂ってこんなもんだったか?
……いや、それでも、上がらなきゃいけないことには変わりない。
風呂から出ることを惜しむなんて、今までに体験したことのない現象だった。
それほどまでに疲れているのか、と自分の状態を顧みながら、もう一度、惜しみながら浴室を出た。
みつきが教えてくれたバスタオルの位置から一枚拝借して、身体を拭く。
持ってきたパジャマ代わりの着替えを着て、置いてあったドライヤーで長くて鬱陶しい髪を乾かし、歯を磨く。
薄っすらと眠気でまぶたが重い気がする。
乾いた髪を掻き上げつつ、すっかり眠る準備を整え終わった自分を鏡に映した。
一目で、疲れているな、と分かる。
過去の栄光を追うつもりはないが、全盛期とは比べものにならない。
いつもの自分。
やれることをやって、やれるように生きた、当たり前に日々を重ねた自分。
……これから、なにかが変わるんだろうか?
本当に、なにか変わるとでも言うのだろうか?
番を得るという、ただそれだけで。
浅くため息を吐いた。
分かりもしないことを深く考えても、ただただ時間の無駄だ。
脱衣所を出て、リビングからキッチンに向かう。
風呂上がりだ。水が欲しい。
冷蔵庫を開けて、中を覗き込む。
カミユも飲んでいたよく冷えた水が入った浄水一体型のピッチャーはすぐに見つかった。
取り出して、適当にコップを借りて水を注ぐ。
冷たい水を喉に流し込み、渇きを癒しながら。
……たまたま振り返って見たリビングのソファーに、すっかり寝入ったみつきが座っていた。
「……、……な…」
言葉にしかけて、飲み込めなかった水が口からこぼれかけて、慌てて手で押さえたり、口を閉ざしたり。
ほとんど飲み終わっていたコップの中の水が、それでも跳ねる。
俺が風呂に入ったから、みつきはもう寝に行ったはずだと勝手に思い込んでいた。
そういえば、リビングの明かりはまだ煌々とついている。
彼女はなにか俺に話があって、もしくは伝えることでもあって、俺が風呂から上がってくるのを待っていたのか?
その可能性はとても高い。
一緒に生活をはじめた一日目だ。
言いたいこと、伝えたいことなんて山ほどあるはず。
だけど、Ωであるみつきの体力は、俺たちαと比べたら桁違いに低い。
検査のために採血されただけでも、ひどく消耗するだろう。
そして、今日のトラブル。浅ましくもみつきの血を奪い続けた盗人のこと。
……なにより、俺という運命の番に出会ったこと。
俺だって疲れているのに、みつきが疲れていないわけがない。
俺を待って、そのまま寝落ち。
部屋で寝落ちていたカミユのことも同時に思い出した。
今日はどうしようもなく、皆、疲れているに違いない。
コップを置いて、水で濡れてしまった手を拭いて、ある意味覚悟を決めて、みつきへと歩み寄った。
「……みつき、ここで眠ったら風邪を引く」
声をかけてみたが、反応は全くない。
すうすうと穏やかな寝息が聞こえているだけだ。
渋い顔をして、ぎゅうっと目を閉じて眉を寄せる。口も引き結ぶ以外できることはない。
もっと声をかけて、揺さぶってでも起こせばいい。
そして自分の足で、自分の部屋に行ってくれたらいい。
話なんて明日だ、明日。
それでいいだろ?!
「みつ……」
揺さぶるために肩を掴んだ。
そして言葉を失った。
彼女に触れるのは二度目だ。
まだ、たった二度目だ。
だからこそなのか、そんなもの関係ないのか。
掴んだ肩の細さ、頼りなさ、……柔らかさ。
手のひらに染み込むみつきの体温を明確に感じる。
ひゅっと吸った息が細く音を立て、水を飲んで潤したばかりの喉が急激に乾いた気がした。
俺が掴んだことで、座った状態だったみつきのバランスが崩れて、倒れていく。
思わず両手で支えた。
かくん、とみつきの首が揺れる。
長い髪が柔らかく、みつきを掴んでいる俺の手に触れた。
冷たい水を持ったり、こぼしてかかってしまったりして少し冷えた手に、あまりにも優しい温かさ。
感情が限界突破すると、なにも感じなくなるとか、逆に冷静になるとかはよくあることだ。
……まさか、こんなことで、こんなときにその現象が起こるとは思わなかったけれど。
決めた覚悟は諦めに近かった。
ため息を一つ吐き出して、行動に移すこと自体は早かった。
うだうだ、もだもだしているよりも、さっさとみつきをベッドへ運んでしまったほうが、何倍も時間効率がいい。
あとは俺が耐えればいいだけ。
よく眠っているみつきを抱き上げる。
ブライダルキャリーというよりも、クレイドルキャリーだな、と、密着することに色気を持たせないために必死に考えた。
それにしても、軽い。
ついさっきカミユのことも同じように抱き上げたものだから、明確なまでの差をありありと感じ取った。
男女の差もあるだろう。
だけど、それにしても。
腕の中のみつきを見下ろし……、かけて、やめた。
柔らかくて、温かくて、儚く頼りなく小さな存在が腕の中で眠っている。
それは分かっている。
その上で、無防備な寝顔をまじまじと至近距離で見つめようものなら、俺の忍耐とかそういうものはきっと簡単にささくれ立つ。
そうしたら本末転倒だ。
俺が今やらなくちゃいけないことは、俺も含め、穏やかに就寝を迎えることである。
「おっと、ライトを消さなきゃ」
そうだ、俺はまだリビングのライトのスイッチの場所さえまともに知らない。
ぐるりとリビングを見渡す。
玄関へ向かう廊下とのドアのそばに大きなスイッチがあるのを見つけたが、こういった部屋の明かりにはリモコンがあったりするんじゃなかろうか?
今はそれを見つけることはできないから、みつきをしっかりと抱いたまま歩いて、スイッチで直接リビングの明かりを消した。
リビングの明かりが落ちた途端、既に電気が消してあったキッチンの小さな小さな間接照明がポッと灯った。
そのおかげで部屋に向かうのに、暗闇を進むなんていう危なっかしいことをしないで済みそうだ。
もしかしたらみつきは、こういった些細なことを知らせるために俺を待っていたのかもしれない。
彼女よりもどうしても年上な自分。
これから先、就寝時間なども自然と差が出るだろう。
だから、細かくてささやかな話を今のうちに、だとか。
「ま、寝ちまったらしょうがないよな。明日、明日……」
歩いて、部屋へ向かった。
もちろん、みつきの部屋に。
しかし、部屋のドアはしっかりと閉じられていた。
「……、……、……」
みつきの部屋のドアを前にして、しばらく考え込む。
え?
なんでドア、開けてないの?
普通、寝るとき以外は開けっ放しだろ?
入って欲しくない意思表示?
いや、まあ、確かに今日初めて会ったαの男二人が突然一人で暮らしていた居住空間に来たんだから、戸惑うのも分かるけど。
年頃の女性なんだから、プライバシーを守るのは絶対だって分かるけど、一応未成年なのに?
きっちりと締められたドアを、部屋の主の承諾も得ずに開けることはできない。
半ば呆然と、腕の中のみつきに視線を落とした。
……寝顔がかわいい。
あ、しまった。
迂闊な行動だったと悔いて、ギュッと目を閉じてそっぽ向く。
「……しかたねぇ」
向かったのは俺の部屋だ。
開けっ放しのドアから部屋の中に入る。
カミユにだけ、オープンドアポリシーを守らせておいて俺はしない、なんて不公平は許されない。
自分のために用意された部屋の、自分のためのベッドはまだ一度も使っていない新品だ。
今夜一晩みつきにはここで眠ってもらって、俺はリビングのソファーで寝る。なんて苦でもなんでもない。
むしろ一番の安全策だ。これ以上なんてない。
一人納得して、うんうんうなずきながらそっとみつきをベッドに横たえさせた。
長い髪を身体の下敷きにしてしまわないように、そっと手で梳いて、流してやる。
なんて手触りだろう。
もっともっと、遠慮なんてないほど触れてしまいたい。
この柔らかな髪に顔を埋めることができたら、どれだけ……、……また、俺はなんてことを考えてんだ。
みつきの身体に被せるためのブランケットを、ベッドの足元から乱暴に引き寄せた。
それを彼女に掛けようとして。
……眠たげに、眠たげに、薄っすらとみつきは目を開いた。
起こしてしまったか、と思ったのと、起きてくれたのか、と思ったこと。
別にこのままこのベッドで寝てくれたっていい。
俺は大して困らない。
それを伝えようと口を開きかけて、……止まった。
みつきの眠たげな瞳に、確かに涙が滲んだのを見たからだった。
そして、俺に向かって伸ばされる、彼女の両手。
思わず身を引いた。
触れてしまえばどうなるか、分からないほど初心な若者じゃない。
だけどその瞬間、みつきが見せた、あまりにも寂しげな表情。
そして。
「ーーーー……ヴァルティエル」
俺を求めて、この名を呼んだ。
それは、確かに俺の名前だ。
裏の世界で生きてきたときの名前。
なにも持たず、裏の世界で生きなければいけなかった俺が最初から持っていた、ただ一つの名前。
仰々しく、天使を示す「el」を戴いた名前。
だから、表の世界で生きなければいけなくなったときに、いい機会だからと隠して伏せた。
こちらの世界で、俺のその名を知っていて、呼ぶのはご機嫌なときのカミユくらいしかいない。
みつきには俺の名なんて好きに呼べばいいと確かに言ったけれど。
なぜ知っている?!
ただの当てずっぽうだなんて思えない。
それに彼女は「ヴァルティ」こそが愛称じゃないのかと、聞いてさえいたじゃないか。
彼女には確信がある。
問い詰めなければと思った。
聞き流してしまうなんてできないことだった。
……それなのに。
本当の名前を呼ばれた感動は、なににも勝っていた。
俺を求めてくれたみつきの手に手を絡めて、次の瞬間にはベッドの上で、二人、距離などないほどに抱きしめ合っていた。
みつきの黒髪に顔を埋めて、柔らかくて小さな肢体をただただ抱きしめた。
溶け合うようなお互いの体温。
いつだって空虚だった腕の中に、胸の中に、満たされるような温かさ。
「みつき……」
その名を呼ぶと、みつきの身体は微かにだけ震えて、彼女の涙がパタリとシーツの上に落ちた音だけが聞こえた。
……その後の、記憶はない。
ああ、俺とみつきの名誉のために言っておくけど、俺の手に手錠がかかるようなことはなにもしていないからな?
俺は、俺たちは、……ぐっすり眠っていただけだ。
そう、なんてことはない。眠っていただけ。
ブラインドの隙間から射し込んでいる光が早い朝の明かりだと気づいて、俺はよくよく眠れすぎてまともに働いていない頭を押さえながら、自分の状況をまるで確認もせずにベッドから出た。
朝は目を覚ましたら、身体を動かしに行くのが日課。
その身体に染み込みすぎたルーティンを守るために、適当に着替えて、ふらふらと準備をして、家を出て、外へと走りに行った。
そうして身体を動かしているうちに、あまりにも衝撃的すぎた昨晩の出来事のほとんどを、俺は夢と勘違いして忘れてしまったのだった。
ヴァルティ
みつき




