あなたの呼び方
お風呂上がり
電話が終わって、リビングに戻ってくる。
みつきはまだ風呂のようだ。
結構な長電話だったと思っていたのに、みつきが風呂に入っている時間のほうが長いとは。
まさか倒れてたりしないよな? と心配になる。
ぐっと感覚を集中させると、みつきの気配が脱衣所にあることが分かった。
安堵とともに、すぐに感覚を遮断した。
αとしての鋭敏な感覚と、生まれ育った環境のせいで鍛え続けた感覚で、集中すれば簡単に生きている人なんかの気配がある程度知れる。
よっぽどの状況じゃないとやらない。
プライバシーだとか、緊急性がとか、そんな危険が迫ってないだとか、純粋に疲れるからやりたくないだとか、やるやらないの理由はその時それぞれ。
常にそうして他人の気配を探っていなければいけない裏社会の世界にはもう暮らしていないのだから、というのが一番の理由だけど、まあ、役に立つときは役に立つ特技だ。
そして、みつきを探ったのと同時に知った、もう一人。
どうしても笑顔をこぼしながら、カミユの部屋へやってきた。
バックパックの中の荷物を広げかけた状態で、ベッドに寄りかかる姿で、カミユはすっかり寝落ちていた。
よく考えれば時差もあった。
大人の話に付き合って、思いがけないトラブルにも巻き込まれ、意図しない長い拘束を受けて。
憧れの国で、憧れの家庭料理を振る舞ってもらって、湯船にも浸かって、ずっと大興奮で。
ベッドに入る最後の力も振るえないで寝てしまうのも納得だ。
息子を抱き上げて、ベッドに寝かせた。
昔と比べてずいぶん重くなったな、と感慨深く思うけれど、これをカミユに直接聞かせたら、最近はすぐに「ルティグランパ? Old-timer」と容赦なく言い返してくるから、今回も黙っていることにする。
息子の穏やかな寝顔に目を細めて、部屋の電気を消すと、そっとドアを閉めた。
廊下に出てすぐ、みつきがリビングに戻っている姿が見えた。
彼女もこちらに気づく。
洗って乾かされた長い黒髪は今は結われてはおらず、リビングの明かりを吸って、しっとりとした光沢を見せている。
俺やカミユが使っているパジャマ代わりのシャツとイージーパンツとは違って、しっかりパジャマ姿だ。
そして、風呂上がりでまだ暑そうに見えるのに、……その首をしっかりと覆う、柔らかな布地のつけ襟。
「お風呂、空きました。どうぞ」
そう勧めてくれる、みつきの笑顔にはまだ、俺に対する緊張が見え隠れしていた。
「……ありがと」
答えながら、申し訳ない気持ちになる。
俺もまた、まだ彼女に対して緊張を感じてしまう。
俺たちが一緒に住まなければ、彼女はこの家の中で、それももう眠りにつくだけという時間で、うなじを守る余分な衣服を着ける必要なんてなかったはずだ。
絶対防御とも言える、番を持たないΩが着用しなければいけないチョーカーを着けていないところは、気を許している、許されていると思っていいのかも知れないけれど。
……それにしても、髪をくくって結っているのもよく似合っていたが、なにもせずに下ろしている髪型もとてもいい。
腰まである、つやがあって、柔らかそうで、手触りの良さそうな長い黒髪。あの髪の中に指を通して小さな頭に触れたら、どんなに心地良いだろう…か……。
そっと、片手で自分の目を塞いだ。
これ以上見ていてはいけない、と必死の自制をきかせるために。
ちょっと気を抜いたら、すぐに触れたいだの、可愛いだの、思考がみつきのことに引っ張られる。
その程度で済んでいるのは、やはり抑制剤のおかげなんだろう。
そういえば、秋露は「目安として一週間の余裕がある」と推察していた。
なにが、どうして一週間なんだ?
あのときは尋ねなかったから秋露は教えてくれなかったけれど、聞いたらきちんと答えてくれるはずだ。
明日に会った時にでも聞いてみよう、と心に決めて、みつきの横を通り過ぎた。
「……あの、あのっ」
慌てた様子で、みつきは俺を引き止めるために声をかけてきた。
足を止めて、ゆっくりと振り返る。
「……なに?」
不意の行動に驚いて、気を引き締め直したからか、思っていたよりも冷淡な対応になってしまった。
微かにみつきが肩を震わせたのを、確かに見た。
ああ、しまった。怯えさせたいわけなんかないのに。
「あの、……私、……あなたを、なんて呼べばいいですか……?」
おずおずとそう聞かれて、改めて思う。
そういえば、彼女にまだ一度も名を呼ばれていなかったっけか?
カミユのことは、早々に「カミユくん」と呼んで定着しているようだ。うらやま……、ごほんごほん。
「別になんでもいいよ。あんたの好きに呼べば」
「え…、でも……」
「別に呼ばれることにこだわりなんてないから。カミユみたいにルティって愛称で呼んでくれてもいいし、普通にヴァルティって呼んでもいいし」
そう投げやりに提案してみたけれど、みつきは少し考えて、それから首を傾げた。
音もなく、黒髪がさらりと流れ動いた。
その美しさに一瞬、目を奪われる。
「『ヴァルティ』が愛称じゃないの?」
おかしなことを聞かれた、と確かに思った。
思ったんだ。
だけど、それ以上に。
『し、心臓が、心臓がやべえ?!』
たった一言。
彼女が俺を認識して、俺の名前としている音をその口で紡いだ。
その事実が、その認識が、全部「嬉しさ」に変換されて、容赦なく身体を、脳髄を揺さぶった。
結果、激しく心臓が痛むほどの鼓動の高鳴りを味わうハメになっている。
なんだコレ?
彼女のせいなのか? それとも俺のせい?
答えを導き出せないまま、情けなくふらりと後ろへ下がる。
そんな俺の挙動に、みつきは心配そうな眼差しで近づいてこようとしてくれる。
俺がふらついたから、手を貸そうとでも思ってくれたのだと理解できた。
だからこそ、……だからこそ、手をかざして彼女が近づくのを制した。
「……大丈夫だ。……名前は、ホント、好きにしてくれ。風呂、入ってくる」
あまりにもたどたどしい言葉を告げて、逃げるように風呂場へ向かった。
残されたみつきが俺を見送っている。
『ちくしょう…、情けねえ……』
リビングを出る前に見えたみつきの不安そうな表情に込み上げた自己嫌悪。
でも、どうすることもできずに仕方なく、俺は風呂場へ入っていった。
ヴァルティ
みつき




