名前を書いたオムライス
もえもえきゅん
リビングから続くスライド式のドアの向こうにある水回り。みつきが教えてくれた手洗い洗面所や立派なランドリー、浴室なんかの広さに感心した。
研究センターの上層階にある被験者のための住居、と簡単に言ってしまうには語弊がありそうな、ハイクラスのマンションの一室だ。
まだ全部の部屋を見たわけではないけれど、それでも十分想像できる、豪華な広さ。
……ここに、一人で暮らしている?
秋露が頻繁に訪れはするだろうが、それでも時間は限られるだろう。
カミユに「友人を連れてくるな」と厳しく禁止したのなら、みつきもまた同じ境遇だと考えておかしくない。
そこに沈んでいる彼女の感情を考えはしたが、今はそれをあえて明確に名前にしなかった。
カミユとリビングに戻ったとき、夜を見渡せる掃き出し窓の向こうに、立派なルーフバルコニーが広がっているのが見えた。
バルコニーの端までいけばもっとよく分かるだろうが、部屋の中から見るだけでも、この建物よりも高い建物がない。
『監視、狙撃、……無理だな。病院があるからドローンは安易に飛ばせない。侵入はこの建物自体から直接で、……屋上にヘリを着けて、上から……。秋露の部屋があるから、ここに下りてくるには一階分の時間が割かれる。このバルコニーに下りるには……?』
ふらふらっと窓際に向かってしまう。
「ルティー!! 見て、見て!!」
後ろから大興奮したカミユの声が飛んできて、足を止めた。
早々に食卓に着いているカミユの前に皿を置いたみつきが、嬉しそうな笑顔でまたキッチンのほうへと戻っていく。
そんな二人の微笑ましい雰囲気に、物騒なことを考えていた思考が頭の隅に追いやられて、吸い寄せられるように食卓へと歩み寄っていた。
カミユの前には、ラグビーボール型に整えられた卵料理。どう見てもオムレツに見えるが、それにしてはボリューミーでパンパンに膨らんでいる。
つるりとした黄色の表面には「カミユくん」とこの国の文字で名前が書いてあった。
「ケチャップで名前? 器用。面白いことするなぁ」
「ね!! これは読めるよ、オレの名前と『くん』だ。みつきサン、凄い!! これ、アレだろ?! オム、レツ、ライス? だっけ?!」
キッチンにもう一つオムライスの乗った皿を取りに行っていたみつきが、隠しようもなく照れながら戻ってくる。
「オムライスです。部屋の片付けをしに戻って、慌てて作り出したから、冷蔵庫の中の食材もそう多くなくて……、あり合わせだけど」
そう言って、食卓にまだケチャップの装飾のないオムライスが乗った皿を置いた。
「名前、書きますか?」
みつきが両手でケチャップの容器を持って提案してくれる。
カミユの名前が見事に書かれているのと同じように、俺の名前も書くつもりなのか?
「みつきサン、あれは? オイシクナーレ、モエモエキュンとか言うんでしょ?」
「言わないから!! ちょっと待って?! カミユくんの知識はどこから来てるの?」
頬を染めて困惑と恥ずかしさで叫ぶみつきを、カミユは飄々と見つめ返す。
「だいたい動画。この国への旅行動画で、飯食ってるのをよく観てる」
その中に、今さっきの不思議な呪文を放つ動画があるのか?
みつきがガバッと俺を見る。
「見せる動画の精査をして下さい!!」
そんな無理難題に近いことを言ってくるから。
「必要あるか? カミユの自由だ。違法なものやポルノを見ているわけでもない。どこに精査する要素が?」
そう問い返すと、みつきは小さくワナワナと震えた。
「でも、変な言葉を覚えちゃうっ!!」
「別にこいつは赤ん坊じゃないんだから、あんまりにもおかしなこと言ってたらその時に注意してやってくれよ。きちんと説明してくれたら、聞き届けるだけの頭は持ってるぜ? なんでも親のせいにしてくれるな」
当たり前すぎる正論に、みつきはきゅっと目を閉じて口を引き結んだ。
「ダイジョーブ。オレ、気をつけるよ? みつきサン?」
カミユが心配そうにみつきを見る。
その眼差しに気づいて、みつきはこっくりとうなずくと、カミユにケチャップをぐいと押しつけるように渡した。
「あ、オレがルティのに名前書いていいの?」
みつきはもう一度こっくりとうなずくと、またキッチンのほうへと戻っていった。
なんとなく心配になってその後ろ姿を見つめた。
彼女は鍋から、温かな湯気の立つものをスープボウルによそっている。
カミユはみつきに託されたケチャップで、俺用のオムライスに、意気揚々と向かい合った。
「ルティって書く? 普通に書く?」
「好きにしろ」
カミユに粗雑に答えた。
スープボウルを持ったみつきが、こちらへ振り返る。
その表情がやはり少し落ち込んでいるように見えたから、なにか声をかけようと思った。
「じゃあ、V、a、l、t……」
カミユが俺の名前を一つずつ書き上げていく声で、思考が巡らない。
「みつき」
それでも声をかけた。
顔を上げたみつきが俺を見る瞬間に。
「h、i、e……」
ーーーーぶしゃあっ!!
カミユの楽しげな声も、なにか言葉にしようと思った俺の声も、……ケチャップが大量に噴出した音で止まった。
「……、……」
漂う、どうしようもない沈黙。
俺のオムライスに書かれた名前はかろうじてVaが見える以外は、まるで惨劇が起こったかのようなケチャップの赤にまみれている。
半ば呆然としているカミユ。
なんてことはない。楽しくて頑張りすぎた少年の握力が、ケチャップの容器に圧力をかけすぎただけだ。
言葉も発しないまま、目を泳がせたカミユが俺を見上げる。
コトリ、と、スープボウルが食卓に置かれた音で、二人してそちらを見やった。
みつきが両手で顔を覆って、小刻みに震えている。
これは、あれだ。
明らかに大笑いしたいのを耐えているってやつだ。
また、カミユと視線を交える。
なんとも言えない表情で、とりあえず彼女が笑ってくれていることにホッとした。
口元に跳ねかかっていたケチャップを、カミユはほんの少し照れたまま、ぺろりと舐めた。
「あ、ケチャップうまー……」
少年の呟きに、みつきはもっと肩を震わせて笑いを耐えていた。
ヴァルティ
カミユ
みつき




