これから住む家を目指して
研究センター内を進む
秋露の案内で研究センター、そして病院のおおよその設備説明を受けた。
ここは、外来もある本当に大きな、国内で指折りの大病院だった。
その中でも大きな特徴は、通常の医療施設以外にバース性医療に特化された特別医療病棟が併設されていることだ。
秋露は医者としても籍は置いているが、今は研究者としての立場が大きく、なおかつ研究センターの所長という立場も兼任しているために、院内で腕を振るうことはほとんどないという。
それでも、Dr.水実秋露の名を頼りに、この場所を頼って来るαやその家族もいるそうだ。
……Ωならば、その関係者なら、きっともっと。
「なにかしら用があって病院の方に行くこともあるだろう。院内薬局に抑制剤を取りに行ったりとかね。αとしても人としても、しっかりと常識を持った君たちのことだ。病院の方に迷惑をかけるようなことはないと信じているよ。それでもトラブルは起こるときには起こる。なにか起こったり、ふっかけられたり、巻き込まれたりしたら、即座に連絡を寄こしてくれ。はい、まずはヴァルティくん。生体認証の登録をして」
案内をはじめてから、秋露がずっと手に持っていたタブレットを無造作に渡してくる。
指紋認証と網膜認証を求められている画面が映っていた。
秋露に言われるままに、意味も理解していないままに従うのはやめておこう、とさっき心に誓ったから、登録をする前に尋ねた。
「これはなんのための認証だ?」
「研究センター内の行動可能エリア、その使用許可のための生体認証だよ。一般訪問客はエレベーターですら、ある一定階数以上、表示させることはできない。あらゆる研究室のドアは、その研究室に関連するスタッフ以外開けられない。生体認証の登録がされていない人物が許可されていない階層に、そもそも入ることができない」
意外にも、秋露はしっかりと説明をくれた。
そこで気づく。
聞かないから、秋露は答えないのか。
聞かれないから、わざわざ言わないのか。
その隙を、このセンセイ様は手玉に取ってくるのか。
……いや、隙があってもなくても、その手腕は発揮されているようではあるが。
「すっごいセキュリティ」
「それくらいしないとね」
カミユが感心の声を上げると、秋露は眼鏡を指先で持ち上げながら得意げに見える笑みを浮かべた。
「この建物には、みつきが住む上階と同じような居住階がある。研究センターのスタッフが住める社宅に当たるものとは全く別のものだ」
タブレットで指紋認証と網膜認証を通し、表示される手順を終えてから、秋露に差し出す。
「……保護が必要なΩのための居住階ってことだろう?」
「そのとおり。でも、今はこの場所には保護まで必要な子はいない。別の地方の研究センターにはいるよ」
秋露がタブレットを受け取って、俺の登録と認証が正しく行われたかを確認している。
「今は誰もいないにせよ、たとえ誰かが住んでいたとしても、君たちにその階への侵入許可は出ない。必要ないからだ。無駄にトラブルを発生させないために、要らぬ疑いを掛け合わないために、分かってくれるだろう?」
うなずいて見せると、秋露は次にカミユへとタブレットを渡した。
「みつきもまた、この研究センター内すべての部屋へ行けるわけではない。私でさえ制限のかかる場所はある。薬剤所の、調薬室とかね。常識の範囲で、使える施設、行ってもいい場所なんかの許可は与えてある。それ以外にどうしても行きたい部屋などがあるなら、まず相談してほしい」
カミユもまた、二つの生体認証を登録して、タブレットを秋露に渡し返した。
「案外不便はないと思うよ? ああ、研究センター三階フロアのスポーツジムは完全会員制及びスタッフのための健康維持施設なんだけど、『住人』の区分許可を持っている者は二十四時間使いたい放題だから、ご自由に。同じ三階のスパもどきは二十四時間とはいかないけれど、なかなかに早い時間から用意されている。存分に活用してくれたまえ」
カミユの登録が正しく行われていることを確認して、秋露はタブレットを小脇に抱えた。
「ジム? 正直助かる。毎日動かないと鈍るから、どこで身体を動かそうか考えていたんだ。外出まで制限はかからないんだろう? いつ外に走りに出ても、文句はねぇよな?」
「そこまで厳しく制限なんかはないよ。でも、君がこの国でも十分有名人だっていうことは最低限頭の片隅に入れておいてくれ。ファンを引き連れてここに帰ってきても、我々はそのあたりの面倒は見ないからね? それに、みつきとの住居に部外者を入れることは厳禁だ。これはカミユくんに対しても言える」
廊下を歩いて、突き当たりの重厚なエレベーターの前で足を止めた。
「オレも? この国に知り合いなんて一人もいないよ」
「これからできるだろう? 学校に通うんだから。友達を家に呼びたい、なんて青春の一ページとしてよくあるイベントだ。でも、そこだけは最初から諦めておいてくれ」
カミユは納得の反応を見せて、軽く何度もうなずいた。
「さあ、まずここが上階居住フロアに繋がるエレベーターの一つだ。ボタンの横にアクセスリーダーがある」
そこで指紋認証をしろ、と秋露が手で示す。
リーダーに指を置くと、ピピッと軽快な音が鳴って、エレベーターのドアがゆっくりと開いた。
中に入り、階層を押すボタンを見る。
階を示すはずのボタンに、階数が表示されていない。
「このエレベーターは上階へ向かうためのものだから、一般使用階へのボタンはそもそもない。この時点で挙動が止まるような者は」
ヒョイと天井を指差す。
そこにはもちろん、高性能そうな監視カメラがついていた。
秋露は陽気に監視カメラに向かって手を振る。
今頃、「センター長は何をしているんだ」と、この様子を見ている警備担当の者たちが笑っていることだろう。
「今はこのエレベーターを選んだけど、別の場所から上階へ行くこともできる。詳しい地図なんかは後で携帯に送るよ。カミユくんは後日だね」
そして、階層を示すボタンの横にあるアクセスリーダーに指を置き、眼鏡をずらして網膜認証スキャナーに目を読み込ませた。
ピピッと、受理された音が鳴る。
それなのに、この研究センターの最高権威である秋露の生体認証を読み込んで、点るかと思ったエレベーターの表示がまるで反応しない。
「二人もどうぞ」
眼鏡を直しながら、秋露は大きく一歩後ろへ下がった。
尋ねようとする前に、秋露の方から説明が始まる。珍しい。
「エレベーター内の人数を生体センサーが感知している。生体認証を行った人数が一致しないと、エレベーターは動かない。そして、スキャンをした者たちの中で、一番許可ランクが低い者のデータが適応される」
カミユと俺のスキャンが終わると、エレベーターの階表示がようやく光った。
屋上を示す「R」と、最上階のボタンは光っていない。もちろん、他にも表示されない階層があった。
最上階より一階下を示すボタンを、秋露がゆっくりと押す。
「みつきの居住階は、君たちが思っている以上に厳重に守られた、安全であるべき場所だ。くれぐれも軽んじた行動は控えてくれ」
秋露の忠告を黙って聞く。
エレベーターは滑るように、上階へと上がり出す。
「ね、秋露センセイ。火事なんかが起こったらどうなるの?」
「そのあたりのこともちゃんと考えられているよ。大丈夫だ、心配ない。都市レベルでの停電なんかが起こってもきちんと機能するし、エレベーターだけが上階に行く手段でもない。ただそれを、今ここで聞かせてあげるわけにはいかない」
それもそうか、とカミユは黙って納得した。
エレベーター内の人数を勝手に正確に数え、生体認証と一致させるようなスマートな機能を搭載しているエレベーターと監視カメラが、日常会話程度の音声を拾っていないとは思えない。
ただその真偽を確かめるすべはないが、研究センター内での行動のほとんどは監視されていると同等だと思って間違いないだろう。
エレベーターは静かに目的の階に到着した。
秋露
ヴァルティ
カミユ




