ヴァルティへの提案
それは本当に必要なこと?
「さて」
秋露はぎしりと音が立つほど、椅子の背に背中を預けた。
完全に閉じきった廊下へのドア。
みつきの気配が急激に遠ざかっていくのを感じて、肌で感じる寂しさのようなものを振り切り、秋露へと向き直る。
いよいよ自分への説得が始まるのかと身構える。
隣でカミユも、若干緊張したように息を潜めた。
「みつきの準備が整うまでの約一時間、何をして待とうかなあ?」
穏やかに、のんびりと、そんなことを口にする。
……呆気にとられた。
「秋露センセイ? 説明は? 説得は? 俺を説き伏せるんだろう?」
「ん? そんなもの必要かい?」
首を傾げて、秋露はゆっくりと眼鏡の向こうの目を細めた。
「必要か…、……って…」
あまりの奔放さに動揺して、無造作に前髪を掻き上げた。
サラサラと流れ戻ってくる長い髪がやけに鬱陶しい。
それでも、秋露から目を逸らさない。
正直、なにも分かっていないまま、このセンセイ様の思惑にハマって、手のひらで踊らされている現状を甘んじて受け入れられるほど、俺は楽観的な性格はしていない。
そんな考えを見透かしているかのように、秋露は少しだけ肩を落として口角を引き、仕方ないなと言わんばかりに口を開いた。
「ヴァルティくん、君はもう知ってしまった」
「……なにを」
ぎしり、と秋露が椅子の背から身を起こす。
「みつきという君の『運命の番』が、生きて、存在していることを」
改めて知らしめられた。
それだけで心臓が凍ったような、身体が氷漬けにされたような、そんな衝撃を味わった。
「社会的な常識と理性を守って距離を置く? どれだけの距離を取るつもりだったんだい?」
「それは……っ」
答えに迷った。
その隙を、秋露は容赦なく突いてくる。
「君が思う、自由に振る舞える以前の生活に戻りたいかい? 常識と理性を抑制剤で保って、ギリギリまで頑張って、映画俳優の仕事に戻りたいかい? 私の協力を得て抑制剤を服用し、みつきが十八を迎えるまで離れて暮らしたいかい?」
自分が思う自由とはどんなものだろうか?
映画俳優の仕事に大した未練はない。
そんなものとは別に、カミユをちゃんと学校に通わせる普通の生活は必要だ。
秋露の処方する抑制剤なら、きっと以前のように、またこの限界ギリギリな身体に余裕を生んでくれるだろう。
そして、みつきと、離れて……。
ーーーー胸が軋んだ。
吐き気さえ覚えるような拒否感が全身を襲う。
思わず、片手で口を押さえ込んだ。
そんな俺に降り注ぐ。
「……もう手遅れだよ、ヴァルティくん」
あまりにも優しい声の、覆らない残酷な、幸せな事実。
そう、今の時代、αが番となるΩに出会える確率は。
それも『運命の番』だなんて。
「君が理性と常識を持って、大人としては正しい行動で、今からみつきと離れるとする。……三日と持たないだろうね。君は確実に発狂する」
秋露が淡々と語る内容に、俺だけでなくカミユまでもが、事態の緊急性と重大さに驚愕の表情を浮かべた。
「Ωのほうがαへの依存度が高い。有名な話だ。そして」
αのほうがΩへの庇護欲が、という話が続くかと思いきや、秋露の口から出た言葉は違っていた。
「αのほうがΩへの執着度は高い。桁違いだ。番ならさらに。『運命の番』であるならば、それはもうただの執着と呼ぶには甘い」
「執着……」
あまりにも狂気じみたその内容に、思わず血の気が引く。
「幸か不幸か、今はギリギリいっぱいたっぷり飲んでいる抑制剤のおかげで、行動や明確な感情に表れるまでには至っていない。それでも、なにかの弾みでタガが外れて感情に任せて行動するようになったとしても、……、……一週間かな? 目安として余裕はありそうだ」
一体なにを根拠にそんな試算が出てくるのか聞かせて欲しいけれど、相変わらず秋露は自分だけが分かっていればいいとでも言うように、説明を寄こさない。
それに苛立ちを感じてしまうのは、正しい感情だろう。
「君は出会ってしまった。もうその目に見て、映してしまった。同じ空間で、同じ空気の中で、運命の番の存在を感じ取ってしまった。手遅れだよ、ヴァルティくん。御託を並べて足掻くより、諦めを抱いて、その中で理性を保ちなさい」
それは果たして助言だったのか、最後通告だったのか。
軽い頭痛を感じて頭を押さえるしかない俺の横から、カミユが秋露に話しかけた。
「ね、秋露センセイ。それこそオレって邪魔じゃないか? 『運命の番』が二人で暮らすんでしょ? αであるオレが、αじゃなかったとしてもだけど、一緒に暮らすなんて、ただただおじゃま虫じゃないか?」
「いやいや、君こそが救いだよ、カミユくん」
「救い?」
首を傾げるカミユに、俺も視線を向ける。
「カミユくんが一緒に暮らしている、居てくれるからこそ、ヴァルティくんは、……みつきもかな、は、理性をギリギリで保っていられるんだよ」
「うーん…?」
今の秋露の説明だけではいまいち理解できないと、カミユは曖昧な唸り声を上げる。
「子供の前でみっともない姿は見せられないっていう最低限の意地かな。捨てたものじゃないんだよ、そういう意地も」
「あ、αとしての、大人としての、年上としてのプライドや威厳を保つためのってやつか」
「そう。さすがカミユくん、理解がはやい」
率直に褒められて、カミユは得意げにニンマリと口元を緩めた。
「いくらヴァルティくんが頑張っても、運命の番である二人を四六時中二人きりにしておくなんて、どんなことになるか火を見るより明らか。過去の文献でも引っ張り出してこようか?」
「あー、うん……。それにしょうがないって言っちゃダメなんだと思うけど、しょうがないって言う以外なんて言えばいいか分かんないよね……」
それこそしょうがないと言うような、可哀想なものを見るような、心配そうな眼差しでカミユが俺を見るから、もう両手で顔を覆うしかない。
「みつきの影響がカミユくんに及ばないよう、抑制剤は細心の注意を払って調整させてもらうから心配しないでくれ。そのうえで、聞くよ」
今までの流れの中で、ひときわ真剣に、ひときわ真面目に、秋露はカミユをまっすぐに見つめた。
「カミユくんから見て、みつきはどう見えた? どう感じた?」
その秋露の真剣さに、カミユは多少驚きはしたが、身を正し、同じく真剣に考え込んで、それから口を開いた。
「魅力的な人だなと思えた。きっとそれって、みつきさんをΩとして感じているから出てきた感情だと思う。それから」
まだ続くカミユの言葉を、秋露は優しく促す。
「ルティの『運命の番』って聞いて、ルティの『運命の番』なんだなって思った。……んん? なんか言い方おかしい?」
「いや、分かるよ。的確だ」
「んー、じゃあ続けるね。だから、二人が喋っているところとか見てて、二人が一緒に暮らすとか、離れちゃダメだって秋露センセイが言っていることを聞いて、良かったなって思う感情が今は一番多い、……と思う」
的確に自分の感情を言葉にしたカミユ。
秋露は眼鏡を指でゆっくりと押し上げながら、なにかとても満足気に、感慨深そうにうつむいた。
「良かった……。思っていたとおり、カミユくんほどの適任者はいないだろう。君こそが救いだ。遠慮なく二人と共同生活を送ってくれ。私個人からも、君には特別手当を出すつもりだよ」
一体どんな特別手当が出るのかはまだ分からないが、秋露がニンマリと笑った笑顔に、カミユは目を輝かせて喜びを表した。
どんな理由でカミユが適任なのか、もちろん秋露は語らない。
それでも、確かにカミユが一緒にいてくれることが救いなのは間違いがない。
『じゃないと、本当に……』
自分がどんな行動を起こすか何一つ想像できないと思うと同時に、ただ一つの答えに行き着くだけだった。
「さて、まだ少し時間はあるから、この建物の中の説明なんかをしながら向かおうか」
秋露は相変わらずの陽気さで立ち上がる。
カミユもそれに続いて、手早く荷物を持った。
俺は一人、ノロノロと、どんなことになるかも分からない、でも波乱だけは約束されているんじゃないだろうかと思える生活を前に、立ち上がるしかなかった。
ヴァルティ
秋露
カミユ




