第10話 名前のない居場所
雨が降っていた。
フロントガラスを流れる水滴が、
都市のネオンを滲ませている。
シオンは震える手でハンドルを握っていた。
速度なんて分からない。
ただ止まったら終わる気がして、
アクセルを踏み続ける。
隣。
ローズは目を閉じたまま動かない。
白いシャツは、
もうほとんど赤黒く染まっていた。
「……ローズ」
返事がない。
シオンの呼吸が浅くなる。
「ねぇ」
ローズの肩を軽く叩く。
数秒遅れて、
ローズが小さく目を開けた。
「……運転、下手」
シオンは涙目のまま睨む。
「そんな喋れるなら、大丈夫じゃん……」
ローズが微かに口元を動かす。
笑ったのかもしれなかった。
車は高架下へ入る。
暗い。
雨音が強くなる。
ローズが小さく言う。
「次、左」
「どこ行くの」
「修復」
「病院?」
「違う」
ローズの声が少し途切れる。
「人間用じゃない」
シオンは黙る。
そうだ。
ローズは人間じゃない。
でも。
今のローズは、
どんな人間より苦しそうに見えた。
車は古い工業区域へ入る。
使われなくなった工場群。
錆びた配管。
蒸気。
灰色の空。
ローズが前方を指差す。
「……あそこ」
薄暗い整備工場。
看板もない。
シオンは車を滑り込ませる。
急停止。
エンジン音が消える。
静寂。
シオンはすぐローズ側へ回った。
扉を開ける。
ローズは動かない。
「ローズ」
声が震える。
ローズの瞳がゆっくり開く。
焦点が合うまで少し時間がかかった。
「停止はしてない」
「その言い方、やめて……」
シオンはローズの腕を肩へ回す。
重い。
ローズが小さく言う。
「君、心拍数上がりすぎ」
「……誰のせいだと思ってるの」
工場の奥。
シャッターがゆっくり開いた。
中から老人が現れる。
白髪。
義眼。
片腕が機械化されている。
老人はローズを見るなり眉をひそめた。
「……派手にやられたな」
ローズが小さく言う。
「久しぶり、グレン」
グレンはシオンへ視線を向ける。
「そっちは」
「……シオン」
老人は少し意外そうな顔をした。
「お前が人間連れてくるとはな」
ローズは答えない。
代わりに膝が崩れた。
シオンが慌てて支える。
「ちょ、待って……!」
グレンがため息を吐く。
「立ち話してる場合じゃねぇな」
工場の奥へ運び込まれる。
機械音。
古いモニター。
工具。
油の匂い。
シオンは落ち着かなかった。
ローズが金属製ベッドへ横になる。
グレンが脇腹を見る。
「弾が内部フレームに食い込んでる」
シオンの顔が青くなる。
「……治るの」
グレンは肩をすくめた。
「治すんだよ」
ローズが静かに言う。
「左腕の制御遅延、四十七パーセント」
「黙ってろ。分かってる」
グレンは慣れた手つきで工具を準備する。
シオンは近づこうとして止まる。
脇腹の傷。
裂けた人工皮膚。
その下。
銀色の内部骨格が見えていた。
ケーブル。
人工筋繊維。
小さく点滅する光。
シオンの呼吸が止まりそうになる。
ローズは人間じゃない。
分かっていた。
でも。
こうして中を見せられると、
現実が急に冷たくなる。
ローズがシオンを見る。
「怖い?」
シオンは答えられない。
怖い。
でも。
それ以上に苦しかった。
ローズが、
こんな風に壊れることが。
グレンが言う。
「嬢ちゃん、外出てな」
シオンは首を振る。
「……いる」
「見てて気分いいもんじゃねぇぞ」
「それでも、いる」
グレンは少しだけ笑った。
「変わった子だ」
ローズは静かにシオンを見ていた。
その視線に、
少しだけ熱がある気がした。
グレンが工具を傷口へ差し込む。
金属音。
ローズの身体が僅かに震える。
シオンの顔が歪む。
「……痛いの」
ローズは天井を見たまま答える。
「痛覚はある」
「なんで」
「損傷認識精度を上げるため」
あまりにも機械的な答えだった。
でもローズの指先は、
微かにシーツを握っていた。
シオンはその手を見つめる。
気づけば、
自分の手が伸びていた。
ローズの手へ触れる。
冷たい。
でも確かに、
そこに存在していた。
ローズの視線が動く。
シオンを見る。
数秒。
静寂。
それからローズが小さく言う。
「……離れないんだ」
シオンは俯いたまま答える。
「……今さら、無理」




