第三話 謹んで、お受けしますわ
アイリスの断罪から三日後。
ランカスター公爵邸の応接室には、優雅な紅茶の香りが漂っていた。
「……素晴らしい」
感嘆の声を漏らしたのは目の前に座る男性。
漆黒の髪に、鋭い切れ長の瞳。仕立ての良い軍服に身を包んだ彼は、隣国であるガルバディア帝国の皇太子、ルーカス・ガルバディア。
大陸最強の軍事国家であり、経済大国。その次期皇帝が、なぜかアイリスの前に座り、書類の束を熱心に読み込んでいる。
「我が国の通商法の穴を突き、関税を極限まで引き下げる、このスキーム……。これを君一人で構築したというのは本当か?」
「はい、殿下。当時の婚約者が、『新しいドレスが欲しい』と予算外の出費を強いたため、早急に財源を確保する必要がありまして。やむを得ず抜け道を利用いたしました」
「やむを得ずで法改正レベルの偉業を成し遂げないでくれ」
ルーカスは苦笑いしながらも、その瞳には隠せない熱気が宿っていた。
「アイリス嬢、単刀直入に言おう。我が帝国に来てほしい」
それは求婚の言葉よりも熱烈なヘッドハンティングのオファーだった。
「君の元婚約者、アレクセイ王子だったか。彼が君を解雇したという噂を聞いて、私は夜通し馬を飛ばしてきたのだ。君のような『国家運営の心臓部』が野に放たれているなど、国家安全保障上のリスクですらある」
「過大評価ですわ」
「過小評価だ。君が去って三日、あの国はどうなった?」
ルーカスが顎で窓の外を指す。
そこからは王城が見えるはずだが、今の王城からはボヤ騒ぎらしい不穏な黒煙が上がっていた。
「物流は停止、為替は暴落、公務員は職務放棄寸前。たった三日でこれだ。君一人で支えていた証拠だろう」
ルーカスは身を乗り出し、一枚の契約書を差し出す。
「我が国ならば、君にふさわしい労働環境を提供できる。優秀な部下を50名つける。予算の決裁権限も与える。そして何より……私の隣で、君の知識を存分に振るってほしい。君の作った政策で国が富むのを一番近くで見たいのだ」
「そ、それは……」
アイリスの胸がときめいた。愛の言葉など一つもない。だが、「予算の決裁権限」と「優秀な部下」という言葉は、激務に耐えてきた彼女にとって、どんな宝石よりも甘美な響きだった。
「……謹んで、お受けしますわ」
アイリスが契約書にサインをしようとした、その時だ。
「ま、待ってくれぇぇぇ!!」
応接室の扉が乱暴に開かれ、転がり込んできた、見るも無残な姿の男、アレクセイだ。三日前まで輝いていた金髪はボサボサで、目元には深いクマがあり、服にはインクの染みと、何かのソースがついている。
「ア、アイリス! 探したぞ! なぜ、城に来てくれないんだ!」
「不法侵入ですよ、アレクセイ殿下。警備員は何をされていたのでしょう?」
「警備隊長なら給金未払いで辞職してしまったのだ!」
アレクセイはアイリスの足元に縋り付こうとしたが、ルーカスが立ち上がり、冷徹な視線で遮った。
「無礼な。私の新しい『宰相補佐候補』に気安く触れないでもらおうか」
「だ、誰だ、貴様は……? いや、そんなことはどうでもいい! アイリス、戻ってきてくれ! リーナではダメなのだ! あいつは計算ができないどころか、字も読めないのだ! 『可愛いから許して』と言って書類に落書きまでする! もう限界だ! 君がいないと俺は過労死してしまう!」
「それはお気の毒ですわね」
アイリスは冷ややかに見下ろした。かつて愛したかもしれない男。だが、今の彼女に見えているのは、ただの『不良債権』だった。
「ですが、アレクセイ殿下。婚約破棄を宣言されたのは貴方ご自身です。『真実の愛』とやらはどうなさいましたの?」
「あ、愛はある! あるが……愛では腹は満たせないどころか、下水道の詰まりも直せないのだ!」
「正解ですわ。ようやく学習されましたか」
アイリスは手元の契約書にサラサラとサインを書き入れた。そして、それをルーカスに手渡すと、アレクセイに向き直り、懐から封筒を取り出す。
「学習された貴方へのご褒美に、これを差し上げます」
「……復縁の誓約書か!?」
アレクセイが目を輝かせて封筒を開けると、中に入っていたのは一枚の紙切れ。
――『退職願 兼 国外退去通知書』。
「本日付で、私はガルバディア帝国の公務員として採用されました。これより出国いたします。二度と貴国の業務には関与いたしません」
「そんな……ま、待ってくれ! 給料なら倍出す! いや、3倍だ!」
「ルーカス殿下は10倍の提示をしてくださいましたよ」
「じゅ……」
「それと言っておきますが、金銭の問題ではありませんわ」
アイリスは眼鏡を軽く押し上げ、冷たく最後の言葉を告げる。
「私は『プロ』です。無能な上司の下で働き、自分のキャリアに泥を塗る趣味はありません。殿下、貴方は経営者として失格ですわ」
その言葉はどんな罵倒よりも重く、アレクセイの心を貫いた。彼はガクリと膝をつき、灰のように真っ白になった。
「行こうか、アイリス。君のために最高速度が出る馬車を用意させてある」
「ええ、参りましょう。道中の車内で、帝国の税制改革案について議論したいと思っていたのです」
「はっはっは、君は本当に仕事人だな。気が合いそうだ」
ルーカスが優しくアイリスの手を取る。エスコートの仕草一つとっても洗練され、無駄がない。二人は絶望に沈むアレクセイを残し、部屋を出た。
廊下に響く二人の会話が、アレクセイの耳に遠く届く。
「ちなみにだが、彼への引き継ぎ資料は?」
「作成に3か月かかりますので、置いてきておりませんわ。口頭で『頑張ってください』とだけ」
「それは酷いな。最高ではないか」
有能すぎる悪役令嬢は、その才能を正しく評価する場所へと飛び立った。
残されたのは崩壊寸前の国と、後悔にまみれた元王子だけだった。




