第4話_指輪は試着です
春になるころ、魔素循環術は正式に王国へ採用された。
最初の設置場所は、東部の干ばつ地帯だった。
リュネフィアも現地へ赴いた。
以前なら絶対に断っていたが、完成した術式が実際に使われるところは見たかった。
もちろんゼルヴァインも同行した。
循環核が起動した瞬間、乾いた土地に魔力が満ちていく。
水魔術師が杖を振ると、井戸の底から水が湧き上がった。
歓声が響いた。
子どもたちが水しぶきを浴びて笑っている。
リュネフィアはその光景をぼんやり眺めた。
「来てよかったでしょう?」
隣から声がした。
彼女は素直に頷く。
「うん」
ゼルヴァインが微笑む。
その横顔を見て、リュネフィアはふと思った。
八年前、彼に「面白いものを見つけたら、そのとき考えれば」と言ったらしい。
自分も同じだったのかもしれない。
一人で研究していれば、それなりに楽しかった。
それで十分だと思っていた。
けれど今は、面白いものを見つけた。
自分とはまるで違う、器用で、完璧で、少し――いや、かなり重い男。
悪くない。
むしろ、かなり好きだ。
帰りの馬車でそのことを伝えると、ゼルヴァインはしばらく黙った。
「何?」
「今の言葉、もう一度お願いします」
「嫌」
「なぜです?」
「恥ずかしいから」
顔が熱くなっているのが、自分でも分かった。
「俺は八年待ったんですよ。もう一度くらい安いものでしょう」
「知らない」
窓の外へ顔を向ける。
すると腰へ腕が回り、引き寄せられた。
「リュネフィア」
「しつこい」
「好きです」
「知ってる」
「愛しています」
「それも知ってる」
「結婚してください」
リュネフィアは固まった。
ゆっくり振り返ると、ゼルヴァインはいつもと変わらぬ笑顔を浮かべている。
「急じゃない?」
「俺の中では八年前から順調に進行しています」
「私の中では数か月なんだけど」
「では婚約だけでも」
「だけでも、って言う規模じゃない」
呆れているのに、嫌ではなかった。
それが自分でも困る。
ゼルヴァインは彼女の指を取り、いつの間に用意していたのか、小さな指輪をはめた。
淡い紫色の石が輝いている。
「待って。まだ返事してない」
「試着です」
「絶対嘘」
「よくお似合いですよ」
抜こうとすると、手を握られた。
彼は楽しそうに笑っている。
リュネフィアは睨んだ。
「ずるい」
「有能と言ってください」
「性格悪い」
「あなたには甘いでしょう?」
否定できない。
彼はいつも彼女を甘やかす。
面倒なことは全部引き受け、欲しいものを用意し、危険から守る。
ただし、逃げ道だけは少しずつ塞いでいく。
気づけば彼なしでは暮らせないほどに。
「……一年の契約が終わったらどうするの?」
リュネフィアは尋ねた。
ゼルヴァインは目を細める。
「もちろん残ります」
「契約違反じゃない?」
「契約終了後なら自由です。夫として住めば何の問題もありません」
「もう結婚する前提になってる」
「嫌ですか?」
そこで初めて、彼の声にわずかな不安が混じった。
リュネフィアは指輪を見る。
綺麗な石だった。
おそらく自分の瞳の色に合わせたのだろう。
八年も待った男だ。
きっとこの指輪も、ずっと前から用意していたに違いない。
「嫌じゃない」
小さく答える。
ゼルヴァインの目が見開かれた。
「ただ、結婚式は小さくして。人が多いの嫌だから」
「承知しました」
「研究は続ける」
「当然です」
「家事はしない」
「期待していません」
「朝も弱い」
「知っています」
「たまに三日くらい研究室から出ないかも」
「引きずり出します」
条件を並べても、彼は少しも怯まない。
リュネフィアは諦めて息を吐いた。
「じゃあ、いいよ」
次の瞬間、抱きしめられた。
馬車の中だというのに容赦がない。
「苦しい」
「今日は我慢してください」
「前にも聞いた」
「一生言うかもしれません」
耳元で笑う声がする。
リュネフィアも、仕方なく彼の背中へ腕を回した。
*
婚約が決まってから結婚式までの数か月、リュネフィアにはもう一つ厄介な仕事が増えた。クラウゼル公爵家への挨拶である。
ゼルヴァインの両親は、息子が八年前から一人の魔女に執着していることを知っていたらしい。別邸で迎えた公爵夫妻は意外なほど穏やかで、リュネフィアが緊張していると気づくと、形式的な挨拶を早々に切り上げてくれた。
ただし、ゼルヴァインの弟であるノルディスだけは兄を面白そうに眺めていた。
「兄上が財務院を辞めると言い出したときは、とうとう国を捨てるのかと思いましたよ。まさか家事をするためだったとは」
食後の茶席でそう言われ、リュネフィアは隣の婚約者を見る。
ゼルヴァインは平然と菓子を彼女の皿へ移していた。リュネフィアが気に入ったものだけを選び、苦手な木の実入りを自分の皿へ引き取っている。
「家事だけではありません。リュネフィアの研究環境を整えるという国家的にも重要な仕事です」
「兄上が言うと、本気なのが怖いですね」
ノルディスは笑った。
公爵夫妻まで否定しない。
どうやら家族の間では、ゼルヴァインの執着は昔から有名だったらしい。
公爵夫人が懐かしそうに教えてくれたところによると、十八歳で家出から戻った息子は人が変わったように勉強を始めたという。それまで何でも器用にこなしながら、何にも執着しなかった少年が、突然「自分で選べる人間になる」と言い出した。
そして十九歳の冬、魔術師協会の年報に載ったリュネフィアの名前を見つけた。
以来、彼女の記事が載るたびにその冊子だけ保存していたという。
「待って」
リュネフィアは菓子を持ったまま固まった。
「全部?」
「全部ですね」
ゼルヴァインが答える。
「私の記事なんて、かなりあるよ」
「ええ。七十三件です」
即答された。
数えている。
リュネフィアは椅子ごと少し離れた。
ゼルヴァインも椅子を動かして同じ距離まで近づいてくる。
「怖がらないでください」
「ちょっと怖い」
「傷つきますね」
口ではそう言いながら、まったく傷ついていない顔をしている。
ノルディスが肩を震わせて笑っていた。
けれど、その夜、客室へ戻ったリュネフィアは机の上に一冊の古い冊子が置かれているのを見つけた。
八年前の魔術師協会年報だった。
付箋のついたページを開くと、十九歳の自分が小さく載っている。新人魔術師による古代術式の復元成功を報じる短い記事だった。
写真の中の自分は、今よりずっと険しい顔をしている。
そのページだけ、紙の端が少し擦れていた。
何度も開いた跡だった。
リュネフィアは長いこと眺め、それから冊子を閉じた。
八年という時間が、ようやく少しだけ実感できた。
自分が知らないところで、この男はずっと自分を見つけていた。
翌朝、彼女は食堂へ入るなりゼルヴァインの袖を掴んだ。
彼は振り返り、どうしました、と尋ねる。
リュネフィアは何を言えばいいかわからなかった。
感動した、と言うのも違う。嬉しかった、と素直に告げるのも照れくさい。
結局、袖を掴んだまま黙っていると、ゼルヴァインは何かを察したように笑った。
彼女の髪へ触れ、寝癖を指先で直す。
「朝食にしましょうか」
その何気ない優しさが、今までより少し違って感じられた。
リュネフィアは袖を離さず、そのまま彼についていった。




