第5話_もう俺がいないとダメでしょう?
森へ戻ってからも、ヴァシュレドの一件が完全に終わったわけではなかった。
研究成果を奪われていた若い魔術師たちから、リュネフィアへ手紙が届くようになったのである。
感謝の手紙だった。
中には、研究者を辞める寸前だったと書く者もいた。
リュネフィアはそれらを読むたび困った顔をした。
「私、何もしてない」
居間の机には十数通の手紙が積まれている。
ゼルヴァインは封筒を差出人別に整理しながら、穏やかに首を振った。
「あなたが研究を続けていたから証明できたんです。記録を残していたことも大きい」
「記録を整理したのはゼルヴァインでしょう」
「書いたのはあなたです」
そう言われると反論しづらい。
リュネフィアは一通を読み直した。
差出人は二十二歳の女性研究員で、ヴァシュレドに奪われた研究が本人の名義へ戻ったという。いつか直接礼を言いたい、と結ばれていた。
他人から感謝されることに慣れていない。
魔獣を倒しても、薬を作っても、彼女にとっては興味のある問題を解いただけだった。
「返事、必要?」
「書きたいなら」
「面倒」
「では口述してください。俺が書きます」
いつもの流れだった。
リュネフィアは長椅子へ寝転び、天井を眺めながら言葉を考えた。
研究を辞めなくてよかった。成果が戻ったなら、それでいい。次の研究が面白いものになることを願っている。
それだけだった。
ゼルヴァインは勝手に美辞麗句を加えることなく、彼女の言葉を読みやすい文章へ整えた。
「できましたよ」
差し出された紙へ署名する。
ふと、リュネフィアは彼の横顔を見た。
「私の言いたいこと、よくわかるね」
「八年見ていますから」
「実際に一緒にいたのは数か月でしょう」
「観察期間としては十分です」
「やっぱりちょっと怖い」
「それでも結婚してくれるのでしょう?」
リュネフィアは黙る。
ゼルヴァインが笑う。
最近、このやり取りで彼に勝てたためしがない。
悔しいので、彼の膝へ頭を乗せた。
予想外だったらしく、ゼルヴァインの手が止まる。
「何です?」
「休憩」
「俺の膝で?」
「嫌ならどく」
起きようとすると、肩を押さえられた。
「誰が嫌だと言いました?」
髪を撫でる手がすぐに動き始める。
その声が嬉しそうだったので、リュネフィアは目を閉じた。
たまには自分から甘えてやるのも悪くない。
ただし、その日からゼルヴァインが何かにつけて「膝を使いますか」と勧めてくるようになったのは計算外だった。
*
結婚式は、その年の初夏に行われた。
本人たちの希望通り、森の屋敷の庭で開かれた小さな式だった。
招待客は家族と親しい友人、研究院の関係者だけ。
それでもリュネフィアにとっては十分多かった。
式が終わるころには疲れ果て、彼女は自室の寝台へ倒れ込んだ。
純白のドレスのまま動かない妻を見て、ゼルヴァインは笑う。
「せめて着替えてください」
「無理」
「髪だけでも解きましょう」
「お願い」
彼は慣れた手つきで髪飾りを外していく。
何十本も刺さっていた飾りがなくなるたび、頭が軽くなった。
最後の一本を外すと、リュネフィアは満足して枕へ顔を埋めた。
「寝る」
「化粧を落としてからです」
「明日でいい」
「肌が荒れます」
「魔法で治す」
「そういう問題ではありません」
結婚初日からいつも通りだった。
結局、ゼルヴァインに抱き起こされ、顔を拭かれ、寝間着まで用意された。
リュネフィアはされるがままになっている。
すべて終わったところで、彼が呆れたように笑った。
「本当に、俺がいないと何もしたくないんですね」
「できるけど、したくないだけ」
「同じようなものです」
毛布を掛けられ、額へ口づけられる。
リュネフィアは眠い目で彼を見た。
「ゼルヴァイン」
「はい」
「どこにも行かないでね」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
しかし撤回する前に、彼の表情が変わった。
普段の余裕ある笑顔ではない。
ひどく嬉しそうで、同時に獲物を捕らえたような顔だった。
寝台へ片膝をつき、リュネフィアの頬へ手を添える。
「……そんなことを言っていいんですか?」
「何が?」
「俺は本当に、一生離しませんよ」
「いいよ」
もう眠気のほうが勝っている。
リュネフィアは彼の手へ頬を寄せた。
ゼルヴァインはしばらく黙っていた。
やがて、甘く囁く。
「もう俺がいないとダメでしょう?」
その声には満足と愛情と、隠す気もない執着が滲んでいた。
リュネフィアは目を閉じたまま答える。
「うん。だから責任取って」
返事の代わりに、額へもう一度口づけが落ちた。
森の外では夜の風が木々を揺らしている。
*
結婚から一年後。
生活補助官として交わした契約書は、暖炉の前の小さな額縁に入れられていた。
ゼルヴァインが飾ったのである。
リュネフィアは何度か外そうとしたが、そのたびに別の場所へ飾り直されたため、もう諦めた。
屋敷には以前より訪問者が増えた。
魔素循環術の普及によってリュネフィアの名声がさらに高まり、研究相談を持ち込む魔術師が増えたのだ。
もっとも、玄関の木札は今も残っている。
文面だけが変わった。
「急用でなければ手紙にしてください。妻は昼まで寝ています」
ゼルヴァインの字だった。
初めて見つけたとき、リュネフィアは抗議した。
しかし事実なので撤去する理由が弱かった。
ある雨の日、彼女は研究室で新しい術式を組んでいた。
窓の外では雨粒が葉を叩き、室内には紙とインクの匂いが満ちている。
机の端には温かな茶と焼き菓子。
背後ではゼルヴァインが本を読んでいる。
ふと、リュネフィアは筆を置いた。
「ねえ」
返事の代わりに、本が閉じられる音がした。
「八年前、私を見つけてくれてよかった?」
妙な質問だと思った。
けれど聞きたくなった。
ゼルヴァインは少し考え、それから彼女の椅子の後ろへ来た。
肩へ腕を回し、頬を寄せる。
「俺の人生で一番幸運だったことです」
耳元に落ちる声は穏やかだった。
「二番目は?」
「あなたが生活補助官の申請書を読まずに署名したこと」
「それ、私の失敗でしょう」
「俺には幸運です」
「三番目は?」
「あなたが俺を好きになったこと」
リュネフィアは笑った。
「順番、おかしくない?」
「全部一位でもいいですよ」
彼らしい答えだった。
リュネフィアは椅子にもたれ、彼へ体重を預ける。
以前の自分なら、誰かに寄りかかることを嫌っただろう。
今は違う。
寄りかかっても、この男なら絶対に倒れないと知っている。
それどころか、もっと寄りかかれと喜ぶ。
「じゃあ私の一番は、ゼルヴァインが料理できること」
「愛ではなく?」
「二番目が家事」
「愛は?」
「三番目が有能なところ」
「リュネフィア」
低く呼ばれた。
笑いを堪えながら振り返る。
少し不満そうな金色の瞳と目が合った。
珍しくからかう側に回れたことが嬉しい。
けれど、長く意地悪をする気にはなれなかった。
「嘘。一番は、ずっといるって言ってくれたこと」
ゼルヴァインが黙る。
その沈黙に照れて、リュネフィアは机へ向き直ろうとした。
しかしできなかった。
抱きしめる腕が強くなったからだ。
「研究中」
「知っています」
「邪魔」
「少しくらい許してください」
頬へ口づけが落ちる。
続いてこめかみ、髪へと触れる。
リュネフィアは諦めて筆を置いた。
この男の重い愛情に付き合うことも、いつの間にか日常になっている。
悪くない日常だった。
かつて荒れ放題だった庭は、今では薬草畑と花壇に分けられ、玄関の蔦もきれいに整えられていた。
ただし、研究室だけは相変わらず散らかっている。
片づけても翌日には元に戻るので、ゼルヴァインも半ば諦めたらしい。
それでも毎朝、彼は妻のために食事を作る。
昼になっても起きなければ寝室へ迎えに行き、研究に夢中になれば食事を運び、夜更かしが過ぎれば抱き上げて寝台へ連れていく。
リュネフィアは文句を言いながら、結局すべて任せている。
王国一と呼ばれた魔女が、夫なしでは靴下の場所さえわからない。
そんな噂が王都へ届くのは、もう少し先のことだった。
そしてその噂を聞いたゼルヴァインが、否定するどころか嬉しそうに笑ったことも。
彼にとって、それは八年かけて手に入れた、何より幸福な証明だったのである。
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