第2話_盗用したのは、どちらでしょう
変化が訪れたのは、秋の初めだった。
王都から一通の召喚状が届いたのである。
差出人は王立魔術研究院。
完成間近となった魔素循環術について、研究成果を発表してほしいという依頼だった。
「行きたくない」
リュネフィアは即答した。
ゼルヴァインは予想していたらしく、紅茶を注ぎながら眉一つ動かさない。
「そう言うと思いました」
「人が多いところ嫌い。発表も嫌い。王都はうるさい」
「ですが、行ったほうがいいでしょうね」
「嫌」
「今回だけは俺も勧めます」
珍しいことだった。
ゼルヴァインは基本的に、彼女が嫌がることを無理強いしない。食事と睡眠だけは別だが、それ以外は好きにさせている。
リュネフィアは紅茶のカップを両手で包んだ。
「理由は?」
「研究院があなたの成果を正式に記録するためです。最近、妙な動きがあります」
彼の声から、いつもの軽さが少し消えた。
聞けば、王都では魔素循環術に関する噂が流れているという。
開発者はリュネフィアではなく、王立魔術研究院所属の主任研究官ヴァシュレド・オルネスである、と。
その名には覚えがあった。
三年前、共同研究を持ちかけてきた男だ。
リュネフィアが断ると、才能を独占する傲慢な魔女だと陰で触れ回った人物でもある。
「どうでもいい」
彼女は肩をすくめた。
研究が完成すれば誰の名前であろうと、困っている人間が使える。名誉に興味はない。
だがゼルヴァインは、珍しく厳しい目をした。
「よくありません」
低い声に、リュネフィアは瞬きをする。
「あなたが名誉を欲しがらないことと、他人があなたの成果を盗んでいいことは別問題です。今回は行きましょう。面倒なことは全部、俺が片づけます」
最後の一言があまりにも頼もしかったので、リュネフィアは迷った。
「……宿は静かなところ?」
「公爵家の別邸を使えます」
「発表以外、出なくていい?」
「もちろん」
「食事は?」
「俺が作ります」
そこまで条件を揃えられると断る理由が減っていく。
リュネフィアは大きく息を吐いた。
「わかった」
するとゼルヴァインは、勝利を確信していたように微笑んだ。
*
王都へ到着したのは、それから十日後だった。
クラウゼル公爵家の別邸は、リュネフィアが想像していた「別邸」の規模ではなかった。庭だけで彼女の森の屋敷が十軒ほど入りそうで、玄関には使用人がずらりと並んでいる。
リュネフィアは馬車から降りる前に帰りたくなった。
その気配を察したゼルヴァインが、先に地面へ降りて手を差し出す。
「誰とも話さなくて構いませんよ」
「でも、見てる」
「俺しか見えないと思えばいいでしょう」
「無理」
「では俺の後ろに隠れていてください」
公爵家の嫡男が言う台詞ではない。
しかしリュネフィアは遠慮なく彼の背後へ回った。
使用人たちの表情がわずかに揺れる。
それを見たゼルヴァインは、むしろ機嫌がよさそうだった。
翌日、研究院で発表会が開かれた。
広い講堂には魔術師、貴族、官僚など百人以上が集まっている。壇上へ上がったリュネフィアは、その人数を見ただけで帰りたくなった。
だが最前列にゼルヴァインがいる。
目が合うと、彼は小さく頷いた。
仕方なく、リュネフィアは発表を始めた。
説明そのものは得意だった。人間相手が面倒なだけで、魔術について話すことは嫌いではない。
魔素の枯渇した土地に人工的な循環核を設置し、周囲から微量の魔力を集める。従来方式では循環核が一週間ほどで崩壊したが、彼女は古代術式の構造を応用し、自己補修機能を持たせた。
説明が進むにつれ、講堂は静まり返った。
最後に実証記録を映し出すと、やがて大きな拍手が起こった。
リュネフィアは早く降りたかった。
ところが、そのとき一人の男が立ち上がった。
赤茶色の髪を撫でつけた、四十代ほどの男。
ヴァシュレド・オルネスだった。
「大変興味深い発表でした」
丁寧な口調だった。
だが、その目には露骨な敵意がある。
「ただ、一点確認したい。今発表された循環核の基本構造は、三年前に私がエルシェラ殿へ提供した理論と酷似しています。共同研究を拒否された後、その理論を無断で利用されたのではありませんか?」
講堂がざわめいた。
リュネフィアは首を傾げる。
三年前。
確かに彼から何か資料を渡された気はする。
読んだかどうかすら覚えていない。
「使ってないと思います」
正直に答えると、ざわめきが大きくなった。
ヴァシュレドは勝ち誇ったように口元を歪める。
「思います、では困りますな。研究者ならば証明していただきたい」
面倒だ。
リュネフィアは心の底からそう思った。
説明するには、三年前の研究記録を確認しなければならない。資料は森の屋敷にあるし、探すだけでも時間がかかる。
そのとき、最前列から静かな声が飛んだ。
「証明ならありますよ」
ゼルヴァインが立ち上がった。
飄々とした笑みはいつも通りだったが、金色の瞳だけが冷えている。
彼は一冊の帳面を掲げた。
「リュネフィアの研究記録は、俺が日付順に整理しました。魔素循環術の原型は五年前の記録にすでに存在します。一方、オルネス主任が彼女へ資料を送ったのは三年前。時系列が合いませんね」
ヴァシュレドの顔が強張った。
ゼルヴァインはさらに別の書類を取り出した。
「それから、これは王立郵便局に残る送付記録です。三年前、あなたが送った封筒は受取人不在で二度返送され、三度目に受領されています。ところが、その時期の彼女は北部の魔獣討伐へ参加していた。屋敷へ戻ったのは受領日の二か月後です」
講堂が静まり返る。
「もっと面白いものもあります。あなたが研究院へ提出した循環核の草案は二年前。しかし、そこに使われている補助式の一部が、五年前のリュネフィアの論文と完全に一致している」
ゼルヴァインは笑っていた。
穏やかに、楽しそうに。
だからこそ恐ろしい。
「さて。盗用したのは、どちらでしょう?」
ヴァシュレドは何か言い返そうとした。
しかし、その前に研究院長が立ち上がった。
老齢の女性魔術師は厳しい顔でヴァシュレドを見つめている。
「オルネス主任。事情を詳しく聞く必要がありそうですね」
「院長、これは誤解です」
「では記録を調査しましょう。潔白ならば問題はないはずです」
逃げ道は塞がれた。
ヴァシュレドの顔から血の気が引いていく。
リュネフィアは壇上からゼルヴァインを見た。
彼は彼女へ目を向けると、何事もなかったように微笑んだ。
その瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
*
調査は予想以上に大きな問題へ発展した。
ヴァシュレドはリュネフィアだけでなく、若い研究員たちの成果を長年横取りしていたらしい。
立場の弱い者へ圧力をかけ、共同研究という名目で名前を加え、場合によっては本人の名前を外していた。
証言者が次々現れたことで、彼は主任職を解任された。
さらに研究費の不正使用まで発覚し、魔術師資格の停止処分を受けることになった。
それだけなら、リュネフィアは「大変だな」で終わらせていただろう。
しかしヴァシュレドは、最後に余計なことをした。
処分が正式決定する前夜、クラウゼル家の別邸へ侵入したのである。
目的はリュネフィアの研究記録だった。
深夜、寝室で眠っていた彼女は、窓が割れる音で目を覚ました。
反射的に防御魔法を展開する。
黒い影が窓から飛び込み、青白い魔法光が閃いた。
攻撃術式。
リュネフィアが片手を上げるより早く、寝室の扉が吹き飛んだ。
文字通り、吹き飛んだ。
ゼルヴァインが蹴破ったのである。
寝間着姿のまま剣を抜き、侵入者とリュネフィアの間へ入る。その動きに迷いはなかった。
「動くな!」
侵入者――ヴァシュレドが叫んだ。
追い詰められた顔をしている。
右手には魔術杖、左手には火炎術式を封じた宝石が握られていた。
「女を渡せ! こいつさえいなければ、俺は――」
最後まで言わせてもらえなかった。
ゼルヴァインの剣が一閃する。
魔術杖が真っ二つになった。
ヴァシュレドが息を呑む間に距離を詰め、腕を捻り上げて床へ押さえ込む。
すべて数秒だった。
駆けつけた護衛がヴァシュレドを連行したあとも、ゼルヴァインはしばらく動かなかった。
リュネフィアは寝台の上から彼を見る。
普段の彼とは違った。
顔色が悪い。
剣を握った指が、ほんのわずかに震えている。
「ゼルヴァイン?」
呼ぶと、彼はようやく振り返った。
次の瞬間、強く抱きしめられた。
リュネフィアの顔が彼の胸へ押しつけられる。
「……苦しい」
「少しだけ我慢してください」
声が低い。
腕の力は緩まなかった。
「あなたに何かあったら、俺はあの男を殺していたかもしれない」
冗談には聞こえなかった。
リュネフィアは黙って彼の背中へ手を回す。
慰め方など知らない。
だから、とりあえず撫でた。
すると抱擁がさらに強くなった。
「それ、逆効果です」
「何が?」
「離せなくなる」
耳元へ落ちる声が、妙に熱い。
リュネフィアはそこで初めて、自分が寝間着姿で男に抱きしめられている状況を意識した。
頬が熱くなる。
「もう大丈夫だから」
「俺が大丈夫ではありません」
「面倒な人」
「あなたにだけは言われたくないですね」
少しだけ、いつもの調子が戻った。
それでも彼はなかなか離れなかった。




