第1話_生活補助官は帰らない
『もう俺がいないとダメでしょう?』
辺境の森に住む魔女リュネフィアは、王都で名を知られた魔女である――ということになっている。
少なくとも、魔術師協会が発行する名簿にはそう書かれていた。希少な古代術式を解読し、失われた薬草の栽培に成功し、魔獣の呪毒さえ三日で無害化する。二十七歳という若さで特級魔術師の資格を持つ者は、広いアルヴェニア王国でも片手で数えられるほどしかいない。
ただし、その華々しい経歴を信じて彼女の家を訪れた者は、たいてい玄関先で一度立ち止まる。
森の奥に建つ灰青色の屋敷は、蔦に半分ほど呑まれていた。庭では薬草と雑草が領土争いをしており、窓辺には用途不明の瓶が並び、玄関には「急用でなければ帰ってください」と書かれた木札がぶら下がっている。
そして当のリュネフィアは、その日の昼過ぎまで寝台の上で毛布に包まっていた。
昨夜、研究用の魔法陣を一つ改良した。ほんの少しだけ試すつもりだったのだが、気づけば夜が明けていたのである。そこで眠ったのが朝の六時。昼食という概念など、とうに彼女の生活から消えている。
階下から、陶器の触れ合う澄んだ音がした。
リュネフィアは毛布の中で眉を寄せる。
「……誰かいる」
寝ぼけた頭で考えてから、昨日から誰かがいることを思い出した。
正確には、一昨日からだった。
さらに正確に言えば、勝手に住みついた男がいる。
彼女は諦めて起き上がった。長い灰紫色の髪は寝癖で好き勝手な方向へ跳ね、寝間着の襟は片方だけ肩から落ちている。床に転がっていた靴を片方ずつ拾い、階段を下りると、台所から香ばしい匂いが漂ってきた。
そこにいた男は、この荒れた屋敷には恐ろしいほど似つかわしくなかった。
名はゼルヴァイン。
黒曜石を思わせる髪を後ろへ緩く流し、淡い金色の瞳を持つ長身の男だ。上等な白いシャツの袖を肘まで折り、鍋を覗き込んでいる姿でさえ妙に絵になる。王都なら、彼が通りを歩くだけで振り返る娘が何人もいるだろう。
事実、彼は王都でそういう男だったらしい。
公爵家の嫡男であり、若くして王国財務院の補佐官を務め、剣術大会では三年連続優勝。社交界では未婚女性たちから「金獅子」と呼ばれ、縁談の申し込みが山ほど届いていたという。
そんな男が、なぜ魔女の家で鍋をかき混ぜているのか。
リュネフィアにもよくわからない。
「起きましたか」
振り返ったゼルヴァインは、驚きもせず微笑んだ。
その微笑みが妙に穏やかなので、リュネフィアはかえって警戒する。
「帰ってないの?」
尋ねながら椅子へ座ると、目の前に水の入ったグラスが置かれた。冷たすぎず、ぬるすぎない。彼女が起き抜けに冷水を飲むと腹を壊すことを、たった二日で把握したらしい。
「帰る理由がありませんので。ところで昨日の夕食は覚えていますか?」
リュネフィアは視線を泳がせた。
机には焼きたての丸パンと、茸と鶏肉の白い煮込みが並べられている。野菜まで細かく入っているのを見て、彼女は露骨に嫌そうな顔をした。
「……食べたと思う」
「食べていません。研究室の机に置いたまま、朝には冷えていました」
「じゃあ、食べようとはした」
「皿に触れてすらいませんでしたよ」
ゼルヴァインは笑顔のまま彼女の前へ煮込みを置いた。責めている様子はない。けれど、逃がすつもりもないらしい。
リュネフィアは匙を手にした。
一口食べると、悔しいほどおいしい。濃すぎない塩味に香草の香りが混じり、柔らかな鶏肉が舌の上でほどけた。彼女が黙々と食べ始めると、向かいに腰を下ろしたゼルヴァインの目元が満足そうに和らぐ。
その顔を見て、リュネフィアは二日前の出来事を思い出した。
彼がこの屋敷へ来た理由は、一応ある。
王都から届いた依頼書に、リュネフィアが署名したからだ。
ただし、その依頼書をきちんと読んだ記憶はなかった。
*
二日前。
玄関を叩く音に気づいたとき、リュネフィアは床で眠っていた。
薬草を乾燥させている途中、暖炉の前が暖かかったので横になり、そのまま三時間ほど経過していたのである。
扉を開けると、見知らぬ美丈夫が立っていた。
深い紺色の外套には銀糸の刺繍が施され、旅装でありながら一目で高級品とわかる。背後には馬車が停まり、従者らしき者が二人、荷物を降ろしていた。
リュネフィアは扉を閉めようとした。
面倒事の匂いがしたからだ。
しかし閉じる寸前、男の手が扉を押さえた。
「リュネフィア・エルシェラ殿ですね」
柔らかな声だった。押さえる力も強くはない。それなのに、なぜか扉は一寸も動かなかった。
「違います」
「魔術師協会から顔写真をいただいております」
「じゃあ留守です」
「本人が留守を宣言するのは斬新ですね」
男は楽しそうに笑った。
その余裕が腹立たしく、リュネフィアは半眼になる。
彼は胸元から一枚の書類を取り出した。見覚えのある署名が最下部にある。間違いなく自分の字だった。
「三か月前、王国魔術研究院から『生活補助官派遣制度』の利用申請をされています。研究に没頭する高位魔術師の健康管理と事務作業を補助する制度です」
説明されても、まるで覚えがない。
だが、三か月前なら心当たりはあった。そのころリュネフィアは王都から届く大量の書類に腹を立て、内容をろくに確認せず署名して返送していた時期がある。
「派遣期間は一年。住み込みで、食事、清掃、買い物、研究資料の整理、外部との連絡調整などを担当します」
「いらない」
「契約済みです」
「解約する」
「違約金は金貨三百枚ですね」
リュネフィアは黙った。
金ならある。高位魔術師の報酬は高いし、特許を取得した魔術式からも収入が入っている。
しかし金貨三百枚となると話は別だった。彼女が欲しがっている希少な魔導炉を三台買える。
男は、彼女の迷いを正確に読み取ったらしい。
「ご安心を。邪魔はいたしません。あなたが研究をしている間、俺は勝手に家事をしています」
それなら悪くない気もした。
掃除は嫌いだ。料理も面倒だ。買い物はもっと嫌いで、王都へ出るだけで一日分の気力を消費する。
リュネフィアが扉から手を離すと、男は優雅に一礼した。
「ゼルヴァイン・クラウゼルです。一年間、よろしくお願いいたします」
その姓を聞いて、ようやくリュネフィアは眉を上げた。
クラウゼル公爵家。
王国でも指折りの名門である。
「公爵家の人が、生活補助官?」
「ええ」
「なんで?」
ゼルヴァインは少しだけ目を細めた。
「あなたの担当になりたかったからです」
妙な答えだった。
けれどリュネフィアは、それ以上聞かなかった。
聞けば長くなりそうだったからである。
*
ゼルヴァインが住み始めてから、屋敷は猛烈な勢いで人間の住居へ変わっていった。
初日には玄関と台所が片づき、二日目には居間から本の山が消えた。ただし、彼は勝手に捨てることだけはしなかった。研究資料、私物、廃棄してよさそうな物をそれぞれ箱へ分け、判断が必要な物には小さな札をつける。
その手際が、腹立たしいほど完璧だった。
さらに彼はリュネフィアの生活周期を把握し、研究室へ入る時間に合わせて軽食を用意するようになった。
食べなければ、次は一口で食べられる大きさにして持ってくる。
それでも食べなければ、研究机の横に立って黙って待つ。
最終的にリュネフィアが根負けする。
そんな攻防が一週間ほど続いたころ、彼女はとうとう尋ねた。
「あなた、暇なの?」
研究室の長椅子で本を読みながら、ゼルヴァインは顔を上げた。
「忙しいですよ」
「ずっとここにいる」
「あなたの世話が仕事ですから」
リュネフィアは魔法陣へ視線を戻した。
羊皮紙には細かな術式がびっしり書き込まれている。現在研究しているのは、魔力を持たない土地へ一時的に魔素を循環させる術だ。完成すれば、干ばつに苦しむ辺境で水魔法が使えるようになる。
王都の研究院が何年も取り組み、成果を出せなかった課題だった。
リュネフィアにとっては面白い玩具である。
「公爵家の仕事は?」
「弟に任せました」
「財務院は?」
「辞めました」
さすがに筆が止まった。
振り返ると、ゼルヴァインは平然としている。
「なんで?」
「こちらへ来るためです」
リュネフィアはしばらく彼を見つめた。
冗談を言っている顔ではない。
「私、あなたと会ったことあった?」
「ありますよ」
「いつ?」
「八年前です」
記憶を探ったが、何も出てこない。
八年前のリュネフィアは十九歳で、魔術師協会へ入ったばかりだった。当時から人付き合いが苦手で、研究室と宿舎を往復するだけの生活を送っていた。
ゼルヴァインは本を閉じた。
「覚えていなくても構いません。俺が覚えていますから」
淡々とした声だったが、なぜか妙な重さがあった。
リュネフィアは追及するのをやめた。
研究のほうが気になったからだ。
ところが、それから彼の存在は少しずつ生活へ入り込んできた。
朝起きれば食事がある。
脱ぎ散らかした外套は翌日には洗われている。
薬草の在庫は切れる前に補充され、王都から届く面倒な手紙は重要なものだけ要約されて机に置かれる。返事が必要なら、ゼルヴァインが文面を作り、リュネフィアは署名するだけで済んだ。
しかも彼は、魔術についても驚くほど理解が早い。
「第三式の接続部分、昨日と変えました?」
ある夜、夕食を運んできた彼が羊皮紙を見て尋ねた。
リュネフィアは思わず顔を上げる。
「わかるの?」
「昨日は循環式が二重でした。今日は三重になっています」
「魔術師じゃないでしょう」
「基礎程度なら学びました」
基礎で気づく変更ではない。
彼女は初めて、ゼルヴァインに少し興味を持った。
話してみれば、彼は数学、歴史、政治、薬学まで幅広い知識を持っていた。専門家には及ばなくとも、研究の補助としては十分すぎる。
試しに計算を頼めば、一度も間違えない。
資料を探してほしいと言えば、数百冊ある書庫から必要な本をすぐ持ってくる。
リュネフィアが何気なく「北方の古語辞典が欲しい」と呟いた翌週には、絶版になっていたはずの辞典が机に置かれていた。
「どこで見つけたの?」
「知人が持っていました」
「譲ってくれたの?」
「ええ。少しお願いしました」
その知人が泣いていないことを、リュネフィアは祈った。
そんな日々が二か月続くころには、彼女はすっかり堕落していた。
もともとズボラだったのだから、正確には堕落が加速した。
以前なら空腹になれば仕方なく台所へ行ったが、今は椅子に座ったまま「お腹すいた」と呟けば、十分後には何か出てくる。
外套の場所がわからなければ名前を呼ぶ。
インクが切れれば名前を呼ぶ。
眠くなれば研究室の長椅子に毛布が置かれる。
ある日、リュネフィアは書類へ署名しながらふと気づいた。
「……まずい」
向かいで手紙を整理していたゼルヴァインが顔を上げる。
「何がです?」
「あなたがいなくなったら、生活できない気がする」
契約期間は一年。
残り十か月。
以前は一人で生きていたはずなのに、今となっては想像するだけで面倒だった。
ゼルヴァインは数秒黙り、それから、ひどく美しい笑みを浮かべた。
「それは何よりです」
「何よりじゃない」
「俺としては順調ですので」
「何が?」
「こちらの話です」
彼は書類へ視線を戻した。
口元にはまだ笑みが残っている。
リュネフィアは嫌な予感を覚えたが、三秒後には忘れた。




