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「おかえり」って言ってみたかったんです——追放された悪役令嬢の辺境カフェ  作者: 夜凪 蒼


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第8話「喧嘩のパンでも、ふくらむ」

戸が殴りつけるみたいに鳴った。


 これまで聞いたどの音とも違う。迷いのない一押しでも、遠慮がちな半分でもなく、怒りをそのまま叩きつけた音。案の定、飛び込んできたのはニナちゃんだった。


「クレアさん! 竈、貸して! うちの、もう使わせてもらえないから!」


 頬をふくらませ、目のふちを赤くして、粉だらけのエプロンのままだ。手にはこねかけの生地を抱えている。


「おかえりなさい……って、ニナちゃん、それどうしたの」


「親方と喧嘩したの! もう、あの頑固親父!」


 どすん、と生地を長机に置くと、ニナちゃんは八つ当たりみたいにそれをこね始めた。ばん、ばん、と生地を叩く音が店じゅうに響く。私は火を少し足して、竈をあけてやる。怒っている人には、体を動かす場所がいるものだ。


「聞いてよ、クレアさん。あたしね、新しい菓子パンを作りたいって言ったの。この前の、王都で流行ってるっていう、ふわふわのやつ。そしたら親方、なんて言ったと思う?」


「なんて?」


「『売れ残りを増やすな、いつものパンだけ焼いてろ』って! ひどくない?!」


 ばん、と生地がまた叩かれる。私は麺棒を渡してやりながら、相槌を打った。こねられる生地は打ちつけられるたびに、少しずつ滑らかになっていく。粉と水とニナちゃんの怒りを全部練り込んで、それでも生地は文句ひとつ言わない。手荒に扱われた生地ほど、焼けばよくふくらむ。パンというのは案外、打たれ強い。


「それでね、あたし言い返したの。あたしはいつまでも、この町のパンだけ焼いてる気はないって。……王都に、菓子職人の修行に行きたいって」


 手が止まった。生地を睨んだまま、ニナちゃんの声が少し小さくなる。


「昔ね、旅の菓子職人が、うちに一晩泊まったことがあるの。その人が王都の菓子の話をしてくれて。砂糖をたっぷり使った、宝石みたいなお菓子。バターがじゅわっと染みた、ふわふわの生地。……あたし、それ聞いてからもう、夢に見ちゃってて。いつか自分の手で、あんなお菓子を焼きたいって」


 夢を語るときのニナちゃんの目は、いつもより、ずっと遠くを見ている。この子の見ている王都は、きらきらして甘くて、あたたかい。私の知っている王都とは、まるで別の国の話だ。


「言っちゃった、初めて。親方に。……たぶん、あたしがいなくなったら店が回らないって、親方もわかってるの。だから、あんなに怒ったんだと思う」


 私は返す言葉に一瞬詰まった。


 王都。私が名前も婚約者も居場所も、ぜんぶ奪われた場所。この子はそこを、きらきらした夢の行き先だと思っている。行かないほうがいい、なんて言えるはずもない。私の王都とこの子の王都は、まるで別の場所なのだ。


「……いいと思う。菓子の修行」


 やっとそれだけ言えた。嘘ではない。ただ、胸の奥が少しだけざらついた。


「クレアさん、賛成してくれるの?」


「うん。ニナちゃんの作りたいものが、この町の外にあるなら、いつか行くべきだよ」


 ニナちゃんはこねる手を止めてこちらを見た。


「でも、親方は……」


「親方は、ニナちゃんが可愛いだけだよ。いなくなるのが寂しいのと、店が困るのと、両方が本気で。ぜんぶ、本気なんだと思う」


 しばらくして生地はきれいにまとまった。ニナちゃんの怒りが、こねているうちに少しずつ抜けていったみたいだ。焼いてみると、それは不思議とよくふくらんだ。喧嘩の生地なのに、ちゃんと胸を張ってふっくらと。


「……ふくらんだ」


「怒りながらこねたのが、よかったのかもね」


 二人で笑った、そのとき。戸がこつん、と控えめに鳴った。


 顔を出したのは親方だった。ばつが悪そうに、麻袋をひとつ戸口に置く。


「……粉だ。うちの、上等なやつ。持っていけ」


「親方」


「菓子の話は、まだ許しとらん。だが、粉を切らして焼けんのは、パン屋の名折れだからな」


 言い捨てて、親方はさっさと帰っていった。ニナちゃんはその背中を見送って、ちょっと泣きそうな、ちょっと笑いそうな顔をする。


「……半分だけ、仲直り、かな」


「うん。半分だけ。でも、粉を持ってくるのは、たぶん一番の返事だよ」


 親方は口では菓子を許さないと言いながら、足はちゃんと上等な粉を抱えてここまで来た。言葉と行いがちぐはぐな人だ。でもちぐはぐなぶんだけ、その不器用さは本物なのだと思う。ニナちゃんの頑固も、きっとあの親方ゆずりなのだろう。


 私は焼きたてのパンをちぎって、スープに浸し、ニナちゃんの前に置いた。窓際の席をあたためて、怒って泣いて笑った子をそこに座らせる。


「はい。喧嘩のパンでも、ちゃんとふくらむ。……いつものより、おいしいかもよ」


 窓の外はいつのまにか日が傾いている。喧嘩して飛び込んできた朝がもう夕方だ。ニナちゃんは浸しパンを匙ですくって、ふうっと息を吹きかけた。怒りでぱんぱんだった頬が今はやわらかい。


 ひと口食べて、ニナちゃんは、今度はちゃんと笑った。まだ全部は解決していない。親方との菓子の話も、王都の夢も宙ぶらりんのまま。それでもあたたかいものを一緒に食べれば、宙ぶらりんも、少しは軽くなるらしい。


次話:「湯気は、戸口までしか届かない」

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