第7話「帰る場所を、持ち歩く人」
珈琲豆の匂いは遠くからでもわかる。
その朝、戸を叩く前から、外に立った人の背負い袋から香ってきた。焙煎した豆の、香ばしくて少し焦げたような匂い。うちの石臼が挽くのと同じ、けれどもっと濃くて生きた豆の香りだ。
がたり、と戸が半分だけ、遠慮がちに開く。ひと月前と同じ、遠慮の音。
「あの……また、来ました」
旅装のセラさんが、背負い袋を抱えて立っていた。前より少し陽に焼けて、けれど目の下には隠しきれない疲れがある。
「おかえりなさい、セラさん」
その言葉に、セラさんの肩がぴくりと動いた。ひと月前、次は言えますねと交わした約束を、この子もちゃんと覚えていたのだ。
「……ただいま、って。言っても、いいんですか」
「もちろん。あなたの席をあたためてありますよ。いつもの、薄めの珈琲でいいですか?」
セラさんの背筋がすっと伸びた。目の下の疲れの上で、笑みのほうが先にこぼれる。自分の「いつもの」を、店の人が覚えていた。旅の空で通りすがりの誰かだった人にとって、それがどれほどのことか、私には少しわかる。
「覚えてて、くれたんですね。あたしの」
「一行、預かりましたから。ちゃんと壁に」
セラさんは框に腰かけて、背負い袋の口を開けた。麻袋に詰まった珈琲豆がどさりと顔を出す。
「これ、父の得意先に卸すはずだった豆で。でも、あたし、まだ半分も回れてなくて。豆だけ余っちゃって……クレアさん、買ってくれませんか」
声の後半が焦りで少し掠れる。私は豆をひと粒つまんで、指で潰して匂いを嗅いだ。深い森みたいな、いい香りだ。お父さんは確かな目利きだったのだろう。
「いい豆です。うちの贅沢に、ぜひ。銀ソル一枚で、この袋ぶんを引き取らせてください」
「そんな、もらいすぎです」
「相場ですよ。それに、これから細く長く、あなたから買います。うちの珈琲の仕入れ先、あなたに決めました」
セラさんが顔を上げた。仕入れ先、という言葉を、宝物みたいに繰り返す。
「あたしが……クレアさんの、仕入れ先」
「そう。だから、無理に一日で得意先を回り切らなくていい。この店に寄って、豆を置いて、一杯飲んで、また次の町へ。それでいいんです」
私はさっそく、その豆を石臼にかけた。ごりごりと硬い実が砕けて、香りが土間いっぱいに立ちのぼる。焙煎の深い、森の底みたいな匂い。挽きたてを湯に落とすと粉の表面がぷくりとふくらんで、細かな泡が呼吸するように弾けた。セラさんはその一部始終を、まばたきも惜しむように見つめている。
「……父の豆が、こんなふうになるんですね」
「お父さんが選んだ豆です。挽く人が変わっても、いい豆はいい匂いのまま。……はい、どうぞ。あなたのお父さんの、いちばんの一杯」
薄めに淹れた一杯を差し出すと、セラさんは両手で受け取って、ゆっくり口をつけた。湯気が日に焼けた頬をやわらかく撫でる。しばらく黙って珈琲を飲んでいたセラさんが、それからぽつりとこぼす。
「父は、この道を三十年、一人で回ってました。あたしなんて、まだ足元にも及ばなくて。得意先の顔も、半分は覚えられてなくて。半人前だって、自分でわかってるんです」
匙を握る手がひと月前と同じように強くなる。
「セラさん。旅の人が、行く先ぜんぶを一度で自分のものにする必要なんて、ないんですよ」
「でも、父は」
「お父さんも、きっと最初は半人前でした。長い年月をかけて、一軒ずつ増やしたんです。あなたはまだ、その一軒目を作ったところ」
私は窓の外、霧のかかった坂道を指さした。
「ここが、あなたの一軒目。旅の途中で帰ってこられる場所。……持ち歩けるでしょう? 荷物にはならないので」
セラさんはくしゃりと笑った。笑い声がひと月前よりずっとよく通る。
「帰る場所を、持ち歩く。……なんか、いいですね、それ」
そのあと、セラさんは街道で聞いた話をいくつか置いていってくれた。北の峠で崩れた道のこと、隣国の塩が高くなったこと。旅の人は匂いと一緒に、遠くの噂も運んでくる。
「王都のほうも、なんだかざわついてるみたいですよ。詳しくは知らないけど、貴族のごたごたとかで」
「へえ。……まあ、うちには縁のない話ですね」
王都、と聞いても、私の胸はもう波立たない。あの場所に、私の席はもうないのだから。今の私の席はこの竈のそば、湯気の届く範囲にだけある。それでじゅうぶんだと、半年かけてようやく体が納得しはじめている。
セラさんは空になった背負い袋を畳んで、次の町へ発つ支度をした。戸口で振り返り、少し照れくさそうに口を開く。
「じゃあ、行ってきます。……次も、豆、持ってきます」
「はい。おかえりなさいを、あたためて待ってますね」
出ていく一押しは、来たときの半分ではなく、まっすぐだった。珈琲の匂いだけが、名残みたいに土間に残っている。棚にはセラさんの置いていった麻袋がひとつ。しばらくはこの香りに困らない。
棚の麻袋はこの店とセラさんをつなぐ、細い糸みたいなものだ。豆が尽きるころ、また彼女は坂を上ってくる。次の戸の音はもう遠慮の半分ではないかもしれない。どんな音でも私はちゃんと聞き分けて、迷わず言うだろう。おかえりなさい、と。旅の人にとっての「いつもの」は味そのものより、覚えていてくれる人がいることのほうにきっとある。
帰る場所を持たない人が、帰る場所を一つ持った。それはきっと荷物みたいに重くはなくて、旅の背中を少しだけ軽くする。
次話:「喧嘩のパンでも、ふくらむ」




