第9話「湯気は、戸口までしか届かない」
ジオさんの奥の席が、三日、空いたままだった。
夜番あけの決まった時間になっても、あの迷いのない一押しは聞こえてこない。私は毎朝いつものように根菜のスープを仕込み、固焼きのパンを用意して、奥の席をあたためて待つ。けれど戸は鳴らない。湯気だけが座る人のないまま天井へ薄れていく。
三日のあいだ、私はその席を毎朝あたため続けた。誰も座らないとわかっていても、布で拭いて、日の温もりを移しておく。夕方にはまた冷えている。あたためては冷え、あたためては冷え。空いた席というのは、こんなにも雄弁に、人の不在を語るものなのか。
「おかえりなさい」の一言は、言う相手がいなければ、喉の奥でぬるくなるだけだ。
理由はなんとなく察していた。数日前から、街道に見慣れない一団がいる。王都から下ってきた監察官の巡回だと、リルが宿の噂として教えてくれた。物々しい鎧と、値踏みするような目。あの一行が来てから、ジオさんは店に顔を出さなくなった。
「レフさんも、見かけないね」
「ジオ隊士、今、巡回のいちばん外れの持ち場に回されてるんです。自分から志願して。……なんか、王都の人らと顔を合わせたくないみたいで」
パンを届けに来たニナちゃん越しに、詰所の様子を伝えてくれたのはレフさんだった。顔を合わせたくない。その言葉が妙に胸へ引っかかる。
王都から来た目を避ける。店に来なくなった理由としては、あまりに切実すぎる。ジオさんはいったい王都で何を背負ってきたのだろう。……聞いてはいけない気がして、私はその問いを、いつも湯気と一緒に飲み込んでいた。
この人には私の知らない過去がある。いつも無口で一人きりで、王都から来た目を避ける理由がある。——それでもと私は思ってしまった。三日も冷たい配給で夜番を続けているなら、一杯くらい、あたたかいものを。
おせっかいだと、頭の隅ではわかっていた。それでも私はリルに貸したのとは別の蓋つきの器にスープをよそい、具を多めにして、街道の外れの持ち場まで歩いていった。
坂を下って街道へ出ると、霧はいっそう濃くなった。頬を刺す風が冷たくて、器の温もりだけが手のひらの味方だった。歩きながら、私は何度も言い訳を並べる。困っている人に一杯を届けるのは、店主として当たり前のこと。——けれど本当は、あの奥の席に、もう一度あの人を座らせたかったのかもしれない。
霧の濃い、風の冷たい持ち場だった。ジオさんは槍を立てて、一人で立っている。私の姿を見て、その目がはっきりと硬くなった。
「……何をしに来た」
「あの、これ。夜番、続いてるって聞いて。冷めないうちにと思って」
私は器を差し出した。湯気が二人のあいだで白く立ちのぼる。けれど、ジオさんは受け取らなかった。
「いらない」
「でも」
「なぜ、俺がここにいると知ってる。誰に聞いた」
声が低くて短い。店で聞くぶっきらぼうとはまるで質が違う。拒絶の刃がまっすぐこちらを向いている。
「レフさんが、その、心配して」
「……詮索するな」
たった一言だった。それきりジオさんは私から目をそらして、霧の向こうを見張る姿勢に戻ってしまう。もう、こちらを見ようともしない。
私は差し出した器を引っ込めかけて——やめた。持ち場の脇、風の当たらない乾いた石の上に器をそっと置く。湯気が行き場を失って、風にちぎれて消えていく。
「……ここに置いていきます。飲んでも、飲まなくても」
返事はなかった。
……ああ、そうか。
湯気は戸口までしか届かないのだ。
店の中でなら、私は誰かの疲れを読んで先回りし、一杯を差し出せる。それは相手が戸を押して入ってきてくれたからこそできることだった。招かれてもいない場所へ湯気を担いで押しかけるのは、あたたかさじゃない。ただの、押し売りだ。
帰り道、私の両手は空っぽだった。手のひらに残る温もりだけが、さっきまでそこに器があったことを、頼りなく告げている。
私は読む力を少し過信していたのかもしれない。誰かの「いつもの」を覚えることと、誰かの触れられたくない場所に踏み込むことはまるで違う。前世でも今世でも、私はどこかで、湯気を出せば人はほどけると思い込んでいた。
店に戻って、私は奥の席をもう一度そっと拭いた。ジオさんの席。誰も座っていない、あたたかいままの席。
あたためて待つことしか、できないのだ。押しかけて、あたためてやることはできない。相手がその戸を押してくれるまでは。
わかっていたはずなのに、私はまた先回りをした。誰かの心を読めるつもりで、いちばん読まなきゃいけない「踏み込むな」の一線を見落とした。読む力はたぶん諸刃なのだ。使い方を誤れば、あたためるどころか、相手を凍えさせてしまう。
夕暮れ、鍋の底に残ったスープを私は一人で飲んだ。塩をいつもよりひとつまみ多く入れたのに、なぜだか少しも味がしなかった。
次話:「短い話を、ゆっくり聞く」




