第10話「短い話を、ゆっくり聞く」
その夜、戸が鳴ったのは、店を閉めたあとだった。
竈の火はもう落として、鍋も洗い終えていた。私は覚え書きの壁を眺めながら、明日の仕込みを頭の中で数えている。監察官の一行は昼のうちに次の宿場へ発ったとリルが言っていた。街道がやっと静かになった夜だ。
通りは久しぶりに、しんと静まっている。竈の熾火だけが赤くまたたいて、天井にゆらゆらと影を描いていた。夜のゆるり亭は昼とはまるで別の生き物みたいだ。誰もいない店で、私は湯気のない静けさに耳を澄ませていた。
がたり、と戸が鳴る。迷いのない一押し——ではなかった。いつもより重く、ためらいがちな音。
顔を上げると、戸口にジオさんが立っていた。夜番あけの鎧ではなく、私服の外套。手にはあの日私が持ち場の石の上に置いてきた器が握られている。差し出しても受け取ってはもらえなかった、あの蓋つきの器だ。
剣を提げていないジオさんを見るのは初めてだった。鎧のない肩は思ったより薄くて、いつものぶっきらぼうな威圧感が、すっかり夜に溶けている。番犬でも警備隊士でもない、ただの一人の男がそこに立っていた。
「……もう、閉店なんだが」
「わかってる。……返しに来た」
ジオさんは器を長机にそっと置いた。中はきれいに洗われている。誰かが一度は湯気を入れて、飲んだあとのように。
「あの持ち場のあと、詰所に戻ってから飲んだ。冷めてたが」
「……そう、ですか」
私はそれ以上聞かなかった。あの日、湯気は戸口までしか届かないと知った。だから今夜はこちらから踏み込まない。相手が戸を押して入ってきてくれたのだから、あとは、ゆっくり待てばいい。
「座っていきますか。もう火は落としちゃったけど、パンなら、ある」
ジオさんは少し迷って、奥の席に腰を下ろした。誰も座っていなかった、あの席。私は残りのパンをスープの残りに浸して、あたため直して、そっと目の前に置いた。冷えた器の底にまた湯気が戻る。
「おかえりなさい」
三日ぶりに言えた、その一言。ジオさんの肩がほんの少し、ほどけた気がした。
「……悪かった。あんたに、あたる筋じゃなかった」
「いいんです。私が、押しかけたから」
「いや」
ジオさんはパンを口に運びながら、しばらく黙っていた。何かを言葉にするかどうか迷っている横顔だった。私は急かさず、冷めた珈琲を自分のぶんだけ、ゆっくり淹れる。
私にも王都には触れられたくない夜がある。だから、根掘り葉掘り聞く気にはなれなかった。同じ痛みを抱えた者どうしなら、湯気を挟んだ沈黙のほうが、言葉よりよほど雄弁なときもある。
「……俺は昔、王都にいた」
ぽつり、と落ちた短い言葉を、私は黙って受け取った。
「近衛だった。王家の、番犬みたいなものだ」
「……近衛」
「ある夜会で、一人の令嬢が断罪された。証もないのに、家に切り捨てられてな。俺はその場を、警護として、何もせず黙って見ていた。剣を持っているのに、何もできない番犬だった」
器を持つ手が止まる。
まるで私のことみたいだ——なんて思いかけて、私は慌ててその考えを打ち消した。世の中に、家に切られた令嬢なんて、きっと一人や二人じゃない。自分の傷に、他人の話を勝手に重ねるのは傲慢というものだ。
「それで、王都を?」
「守るべきものを守れない場所に、いる意味がなかった。剣を置いて、辺境に来た。ここなら番犬じゃなく、一介の警備でいられる」
ジオさんの話は短かった。全部は言わない。言わない部分のほうがきっとずっと長い。それでもこの寡黙な人がこれだけの言葉を並べてくれたことが、私には十分すぎるほどだった。
私はその短い話をゆっくりと聞いた。読もうとせず、先回りせず、こぼれてくるぶんだけを両手で受けるように。
「……ジオさん」
「なんだ」
「私も、名前を、あんまり聞かれたくないほうなんです」
ジオさんは少しのあいだ、私の顔を見た。何かをとっくに知っているような、静かな目だった。それから、ふっと視線を器に戻す。
「知ってる。だから、聞かない」
その一言に、私は、うまく返事ができなかった。知ってる、が、どこまでを指すのか。聞くのが怖いような、聞いてほしいような。——けれど今夜は、それも聞かないでおくことにした。
この人はきっと私が思うより多くを知っている。それでも聞かないでいてくれる。読む力を持つ私が、いつも誰かの事情を先回りして覗いてきた。その私が今、読まないでいてもらうことのやさしさを知った。
ゆっくり聞くというのは、たぶんこういうことだ。相手が話せる分だけを待って、話せない分は、そのままあたためておく。
ジオさんは器を空にして、立ち上がった。
「……うまかった。冷めてないのは、久しぶりだ」
「またどうぞ。奥の席をあたためて待ってますから」
「ああ」
いつもの、短い返事。けれど今夜のそれは、いつもより少しだけ、やわらかい気がした。
戸が閉まったあと、長机には返された蓋つきの器がひとつ残っている。私はそれを両手で確かめてから、棚のいちばん手前に戻した。次に湯気を入れる日は、そう遠くないだろう。
誰かの短い話をゆっくり聞けた夜。私はまた一つ、この店の店主のやり方を覚えた気がする。
湯気を挟んで、短い言葉をゆっくり交わす。それだけで、冷えていた奥の席に、ちゃんと温もりが戻っていた。明日の朝もきっとあの迷いのない一押しがまた戸を鳴らす。私はそう信じて、熾火に灰をかけ、店じまいの続きに戻った。
次話:「言う練習、してたんだけど」




