第11話「言う練習、してたんだけど」
朝いちばんの荷馬車に揺られながら、私は何度も後ろを振り返っていた。
店を一晩空けるのは、この半年で一度もなかったことだ。竈の火を落とし、水甕に蓋をして、戸には「あすの昼までお休みします」と板を掛けた。支度はそれで済むのに、坂を下るあいだじゅう胸がそわそわして落ち着かない。
器が足りなくなっていた。通い椀の評判が坂下通りにじわじわ広がって、蓋つきの器を借りていく人がひとり、ふたりと増えたのだ。バッソさんの物置に眠っていた縁欠けの一つではもう回らない。隣町の宿場に窯元の市が立つと聞いて、私は仕入れに出ることにした。
見送りに来てくれたのはニナちゃんだった。
「留守はまかせて。パンはいつも通り届けとくし、常連さんには『あすまでお休み』って言っておくから」
「ありがとう。ニナちゃんがいてくれると心強い」
「ふふ、まかせてってば」
妙に張り切っている。前の日から、彼女はなんだか含み笑いばかりしていた。何を企んでいるのか、荷台に揺られる私はまだ気づいていない。
隣町の市は思っていたよりずっと賑やかだった。
窯元の並ぶ一角で、私は蓋つきの器を選ぶ。手に取って、底の厚みを指でたしかめる。熱いスープを注いでも手が焼けないよう、糸底のしっかりした、重みのあるものがいい。値切って、5つで銀ソル1枚。まけてくれた窯元のおかみさんに礼を言った。
「あんた、坂下のスープ屋さんかい。通い椀ってのが評判だって、うちの人足が言ってたよ」
「まあ、そんな遠くまで」
「宿場ってのは、噂の通り道だからねえ」
噂の通り道。その言葉が少しだけ耳に残る。
器を包んでもらっているあいだ、隣の茶店から、旅の商人らしい男たちの話し声が流れてきた。聞くともなしに聞いていた私の手がふと止まる。
「——ド・ウェルズの家がねえ、また揉めてるらしいぜ。跡目のことで」
「あの家は昔から風向きが変わりやすいからな」
ド・ウェルズ。
その名を、私は口の中でそっと転がしてみる。もう自分のものではない名前だ。捨ててきた、というより、剥がされて置いてきた響き。胸の奥がちくりとしたけれど、私はその痛みごと、器の包みと一緒に抱え直した。今の私はゆるり亭の店主だ。公爵家の揉めごとなんて、霧の向こうの縁のない話。
そう思うことにして、私は帰りの荷馬車に乗った。
翌日の昼過ぎ、荷馬車が坂下通りの角に着いた。
器の包みを抱えて坂を上がると、なんだか様子がおかしい。閉めてきたはずのゆるり亭の戸が、半分ほど開いている。中から、ひそひそと言い争う声が漏れていた。
「だから、リルが真ん中な。ガロ爺は右。あたしが合図したら、せーので言うの」
「わしゃ言わんぞ、そんな気恥ずかしいもん」
「言うの! 練習したでしょ!」
……練習?
私は包みを抱えたまま、戸の陰でそっと足を止めた。中を覗くと、ニナちゃんが仕切り役よろしく手を振り回している。窓際の日の当たる席には、リルがちょこんと座って口をもごもご動かしていた。ガロ爺は腕を組み、そっぽを向いている。奥の隅には——夜番あけらしいジオさんが、なぜか居心地悪そうに座っていた。
「いい? クレアさんが帰ってきたら、みんなで言うの。『おかえりなさい』って」
あ。
私は思わず包みをぎゅっと抱きしめた。
いつも私が戸を押して入ってくる人に言っている言葉だ。それをみんなが私に。胸の奥がじわりと熱くなって、どんな顔で入ればいいのか急にわからなくなる。いつも戸を開けて「おかえりなさい」と言うのは私のほうで、逆から入る作法なんて知らない。とりあえず、笑ってしまいそうになる口元を引き締めた。
意を決して、戸に手をかける。
ところががたん、と建て付けの悪い戸が大きな音を立てた。それが合図になってしまう。
「あっ、来た! せーの——」
「おか——っ」
勢いよく立ち上がったリルが、思いきり舌を噛んだ。「いひゃっ」と口を押さえてしゃがみこむ。
「リル!? 大丈夫!?」
「ちが、ちがうの、今のなし! もう一回!」ニナちゃんが慌てて手を振る。
「二度もやるか、こんな気恥ずかしいもん」ガロ爺はますますそっぽを向いた。
「ガロ爺は口だけでも動かして!」
私はもう、笑いをこらえるので精いっぱいだった。せっかくの「おかえりなさい」は盛大に崩れて、店じゅうがてんやわんやになっている。奥の席のジオさんはといえば、一言も発さないまま、目だけをそっとそらしていた。
「ただいま、みんな」
結局、先に言ったのは私のほうだった。包みを長机に置いて、ぐるりと店を見回す。留守のあいだも常連たちの席はちゃんとそこにあった。ガロ爺の窓際、リルの日の当たる席、ジオさんの奥の隅。まるで誰かが座って、あたためておいてくれたみたいに。
「……おかえり、は?」リルが舌を押さえながら、上目づかいで言う。
「もう一回、練習しとく」
「うん。今度こそ、ちゃんと言うから」
「じゃあ次はあたしが号令かけるからね。ガロ爺、ちゃんと——」
「もうええわ、腹が減った。嬢ちゃん、いつものを一杯くれ」
「はいはい。すぐ火を入れますね」
私は器の包みをほどいて、真新しい蓋つきの器を棚に並べた。竈に薪をくべ、猫の背に立てかけて、下から息を吹き込む。ぱち、と小さく火がはぜる。留守にしていた竈が、ゆっくりと目を覚ましていった。
言われそこねた「おかえりなさい」の代わりに、私はいつも通り、みんなに一杯ずつスープをよそう。湯気の向こうで、リルがまだ「今度こそ」と口の中で練習している。
言う練習はまた今度。きっと、そう遠くない今度に。
次話:「兄貴の分まで、うまいと言え」




