第12話「兄貴の分まで、うまいと言え」
ガロ爺の朝はいつも触れ書きから始まる。
窓際のいちばん明るい席に陣取って、街道を流れてきた触れ書きだの荷札だのを広げ、字の読めない人足たちに代わって読んでやる。それがこの通りでのガロ爺の役目だ。
「じいさん、これなんて書いてある」
「どれ貸してみい。……ふん、『積み荷、塩と乾魚。峠越えは明朝』。おまえさん、今日はもう動けんぞ」
「ちぇっ。じゃ一杯ひっかけてくかな」
「昼間から飲むやつは、荷を落とす」
豪快に言い放って、ガロ爺は自分の器のスープをずずっとすする。具のごろごろ入ったやつ。ガロ爺のいつものは、いつだって「具は多めに」だ。理由を聞いたことはないけれど、根菜のたっぷり沈んだのが好きなんだろうと、私は勝手に思っていた。
その日もガロ爺はいつものように触れ書きを広げていた。港のほうから回ってきた、船乗りあての報せらしい。ずいぶん遠くから流れてきた、端の擦り切れた紙だった。
私が二杯目の珈琲を運んでいくと、ガロ爺の手が、紙の一点で止まっている。
「……ガロ爺?」
声をかけても返事がない。ふだんは通りじゅうに響く濁声が、その口から出てこない。日焼けした指が紙に刷られた小さな文字の上を、なぞるように動いている。
「ガロ爺、どうかした? 具、足りなかった?」
「……いや」
ガロ爺はそれきり黙って、触れ書きを畳んだ。器のスープをまだ半分も残したまま、「今日はもう帰る」と腰を上げる。窓際の席に、湯気の消えかけた器がぽつんと残された。
その日から、ガロ爺は店に来なくなった。
一日、二日。ガロ爺の窓際は空いたままだ。
あの触れ書きに何が書いてあったのか、持ち帰られてしまった今の私にはわからない。リルが宿の使いの帰りに教えてくれた。「ガロじいちゃん、ずっと家にこもってるって。お酒くさいって、隣のおばさんが言ってた」
お酒。昼間から飲むやつは荷を落とすと、あんなに笑っていた人が。
私は鍋の前で少し迷った。この前、私は湯気を担いで押しかけて、ジオさんに刃を返された。招かれてもいない場所へ踏み込むのは、あたたかさじゃない。——わかっている。わかっているのに。
でもと鍋のふちを握りしめる。今度は踏み込まない。戸口に置いてくるだけ。飲んでも飲まなくても、それはあの人が決めること。私は隣町で買ってきた新しい蓋つきの器に、具をうんと多めによそった。ガロ爺のいつもの多めより、もっと多く。
ガロ爺の住まいは、坂下通りのいちばん端。海鳴りの届かない、内陸の路地にあった。戸を叩くと、しばらくして、しゃがれた声が返ってくる。
「……誰だ」
「クレアです。スープ、持ってきました。ここに置いていくので、よかったら」
戸口にそっと器を置いて、私は帰ろうとした。押しかけない。それがこの前学んだこと。
けれど、きい、と内側から戸が開いた。
ガロ爺が暗い部屋の奥から顔を出す。潮の匂いのしない、酒くさい部屋。いつもの豪快さはどこにもない。ぼさぼさの白髪の下で目だけが赤かった。
「……嬢ちゃんか。入れ。戸口は冷える」
「え、でも」
「いいから入れ。せっかくの具が冷める」
招かれてしまった。私は器を抱え直して、そっと敷居をまたぐ。
狭い部屋の隅に、畳んだ触れ書きが置いてある。ガロ爺はそれを手に取って、しわだらけの指で伸ばした。
「これに、船の名が載っとった。『霧鯨』——わしが乗っとった船だ」
「ガロ爺の……」
「30年も前に、時化で沈んだ船よ。今ごろ、どこぞの物好きが古い船の記録をまとめとるらしい。名を見た途端に、足がすくんでな。情けねえ話だ」
ガロ爺はスープの器を受け取って、蓋を開けた。ごろごろの根菜から、湯気がのぼる。その白い立ちのぼりを、しばらくじっと見つめている。
「あの船にな、兄貴分がいた。わしを海に引っぱり込んだ、恩人みてえなもんだ」
「……はい」
「時化で船がやられて、残った小舟に何人か移った。食い物はわずかしかねえ。何日も漂って、みんな痩せ細っていった。……兄貴はな、自分の乾パンを、こっそりわしの懐に押し込んどった。『若えのが生き残れ』ってな」
器を持つ私の手が震えた。
「助けが来たとき、生きとったのはわし一人だ。兄貴は自分の分をぜんぶわしにくれて、逝きよった。……それからわしは、飯を食うたびに思うんだ。この一口は、兄貴の分でもあると」
だから、具多め。
いつも「具は多めに」と頼んでいたのは、好き嫌いなんかじゃなかった。ガロ爺は逝った兄貴分の分まで食べていたのだ。一杯のなかに、二人分の腹を満たすように。
「兄貴によく言われた。『うまいもんはうまいと言え。黙って食うな。おまえがうまいと言うたびに、俺も食うた気になる』——ってな」
ガロ爺はスープを一口すすった。くしゃりと、日焼けした顔が歪む。
「……ああ、うまい。うまいぞ、これは」
声が濡れていた。私は返す言葉が見つからなくて、ただ黙って、もう一杯ぶんの湯気を足すことだけを考えていた。
次の朝、窓際の席に、ガロ爺が戻ってきた。
いつもの濁声で「よう」と手を挙げて、触れ書きを広げる。ゆうべのことなんて、なかったみたいに。私はそれでいいと思う。聞いてほしくないことは聞かないでおく。
「嬢ちゃん、いつものを。具は——」
「多めに、でしょう。わかってます」
「ふん。……気が利くじゃねえか」
具をうんと多めによそって、ガロ爺の前に置く。「おかえりなさい、ガロ爺」。そう言うと、白髪頭がふん、と鼻を鳴らした。
スープを一口すすって、ガロ爺はぽつりと言う。
「嬢ちゃん。わしは、あんたの昔を聞いたことがあるか」
「……ないですね」
「だろう。訳ありは、訳ありのままでええ。この通りはそういう通りだ。誰の昔も、無理に暴かん。暴かんから、居場所になる」
その言葉を、私は胸の奥にそっとしまった。いつか自分にもその言葉が要る日が来るような気がして。
ガロ爺は結局その朝も具多めをおかわりして、二人分だと言わんばかりに腹をぽんと叩いて帰っていった。窓際の席には空になった器がひとつ。底のほうに、根菜のかけらが名残みたいに沈んでいる。
私はその器を下げて、水甕の水でゆっくりと洗う。次にこの席で湯気が立つとき、きっとまた濁声が響く。二人分の、いつものを。
次話:「スープは今日も、あたたかいのに」




