第13話「スープは今日も、あたたかいのに」
その朝もゆるり亭はいつも通りだった。
竈で根菜がことこと煮えて、店じゅうに甘い湯気が満ちている。窓際ではガロ爺が触れ書きを読み、奥の席ではジオさんが黙々と匙を運ぶ。何度見ても飽きない、朝の景色。
「今日は霧が濃いな」
奥の席から、ジオさんがぽつりと言う。夜番あけの、決まり文句みたいな一言だ。
「ええ。峠のほうは、もっとすごいみたいですよ。足元、お気をつけて」
「ああ」
短い返事。それでもこの人がひとこと交わしてくれる朝は、いい一日になる気がした。
リルが母親のぶんの通い椀を受け取りに来た。蓋をきゅっと押さえて、「いってきます」と駆けていく。小さな背中が坂の下へ消えていった。
何も変わらない。あたたかくて、少し眠たいくらいの、いつもの朝だ。
昼を過ぎたころ、まっすぐな一押しで戸が鳴った。
セラさんだ。ひと月ぶりの再訪でも、もう遠慮がちな半分じゃない。麻袋を肩に担いで、風みたいに入ってくる。
「クレアさん、こんにちは!」
「おかえりなさい、セラさん。今日は珈琲豆ですか?」
「はい、いいのが入りました。麻袋ひとつ、銀ソル1枚ぶんです」
「わあ、助かります。ちょうど切らしかけてて。いつものでいいですか? 根菜のスープと、薄めの珈琲」
「はい、それで。……ああ、生き返る」
セラさんは窓際に腰かけて、スープをひとくちすすった。旅の埃で乾いた喉に、湯気が染みていくのがわかる。ひと月かけて街道を走り回って、ここへ帰ってくる。この店はもう、セラさんの「帰る場所」のひとつになっていた。
珈琲を淹れながら、私はいつものように街道の話を聞く。セラさんは通り道の噂を、いつもたくさん抱えて帰ってくるのだ。今日はどんな話だろう。
セラさんは椀を両手で包んで、ふうっと息を吐いた。旅の疲れが湯気にほどけていくみたいに。
「峠道、雪解けでぬかるんでて。荷馬車が二台、立ち往生してました。あたし、担いで抜けてきたんですけど」
「まあ、大変でしたね」
「なれっこですよ。……ああ、でも、こういうときにあったかい一杯があるって、しあわせですね」
「そういえばクレアさん、王都のほう、ずいぶん騒がしいみたいですよ」
「王都、ですか」
「ええ。ほら、前にも言ったでしょう。貴族のごたごた。あれがまだ続いてるんです」
「はあ」
「なんでも、ド・ウェルズとかいう公爵家が揺れてるんですって。跡目のことで」
ド・ウェルズ。
珈琲を注ぐ私の手が、ほんの一瞬だけ止まる。けれど、湯気の陰でうまく隠せたはずだ。何食わぬ顔で、私はカップをセラさんの前に置いた。
「……大きなお家なんですね」
「みたいですね。それで、なんでも——勘当された娘さんの名前が、また王都で口に上ってるとか。確か、クレアなんとかって令嬢だったかな」
匙を持つニナちゃんの手が止まった。そして、ぱっと顔を輝かせる。
「え、クレアさんと一緒の名前じゃん! ねえねえ、もしかしてクレアさん、実はどこかのお姫さまだったりして〜」
「あはは。だったら、こんなところで鍋なんて振ってませんよ」
「それもそっか!」
ニナちゃんはけらけら笑って、また匙に戻る。ガロ爺は触れ書きから顔も上げない。ジオさんは——奥の席で、ほんの少しだけ、こちらを見た気がした。けれど目が合う前に、その視線は器へ戻っていく。
セラさんは日暮れ前に、また街道へ発っていった。まっすぐ戸を押して、「次のひと月後に」と手を振って。
店じまいのあと。私は誰もいない店で、覚え書きの壁をぼんやり眺めていた。
クレア。勘当された娘。ド・ウェルズ。——霧の向こうの、縁のない話。そう受け流したはずの言葉が、今日はどうしてか、喉の奥にひっかかって降りていかない。
私が置いてきた名前が、王都でまた、誰かの口に上っている。
それがどんな意味を持つのか、辺境の店主にはわからない。わからないけれど、胸の奥がすうっと冷えていく。竈の火が落ちたあとの、あの心もとない感じによく似ていた。
鍋にはまだスープが残っている。指を近づけると、ちゃんとあたたかい。今日もいつもと同じ、塩を多めに利かせた味だ。店の中はこんなにもあたたかいのに。
私は残ったスープを、木の椀に少しだけよそって、口に運んだ。舌にいつもの塩気。喉を通って、お腹の底があたたまる。味は何ひとつ変わっていない。それなのに、心のどこかだけが冷えて、うまく湯気に溶けてくれなかった。
窓の外の霧の向こうで、何かが遠く、ざわめいている気がした。その気配が坂下通りまで降りてくるのに、そう長くはかからない。——このときの私は、まだそれを知らずにいた。
次話:「その名前は、置いてきた」




