第14話「その名前は、置いてきた」
峠を越えてきたばかり、という風体の二人連れだった。
昼下がり、戸ががたんと鳴った。旅装の男が二人、入ってくる。上等な外套に、王都仕込みらしい身のこなし。荷運びや行商とは、まとう空気がまるで違う。一見のお客さんだ。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
窓際ではガロ爺が触れ書きを広げ、いつもの具多めをすすっている。私は二人ぶんのスープをよそいながら、なんとなく落ち着かない気持ちになっていた。王都仕込みの匂い。半年前まで、私自身が浸かっていた匂いだ。
鼻の奥がちりっとする。忘れたはずの、宮廷の香油の残り香。それを思い出した自分に、少しだけ腹が立った。
二人はいちばん奥の長机に陣取った。声が大きい。宿場の相場だの、王都の景気だの、遠慮のない話しぶり。この匂いを、私はよく知っている。半年前まで、私もこうして、上等な席の側にいた。
スープを運んでいくと、片方の男が、ふと私の顔を見上げた。
その目がすっと細くなる。何かを探るような、記憶をたぐるような目だ。私は器を置いて、なるべく自然に微笑んだ。
「ごゆっくりどうぞ」
「……いや、待て。あんた、どこかで会ったな」
「さあ。よく言われるんです。平凡な顔なので」
「いや、そうじゃない」
男は連れのほうへ身を乗り出した。声をひそめる。ひそめたつもりの、けれど狭い店に十分届く声で。
「おい、思い出したぞ。あの女だ。ド・ウェルズの——夜会で断罪された、公爵令嬢の」
店の空気がすっと薄くなった気がした。
私は笑みを貼りつけたまま、動けなかった。
否定すればいい。人違いです、と一言。それだけでいいのに口が動かない。嘘をつくのも認めるのも、どちらも同じくらい怖かった。知覚だけが先に走って、頭が言葉を選べない。匙を持つ手だけが、器のふちで小さく強張る。
「な、そうだろう? 王都じゃちょっとした噂だぜ。男爵令嬢を階段から突き落とそうとして、家に切られた——」
「お客さん」
濁声が割って入った。
ガロ爺だ。触れ書きから顔も上げず、けれど、はっきりと通る声で。
「よその家の噂話は、よそでやんな。ここは飯を食うとこだ」
「……なんだ、じいさん」
「うまいスープが冷めるって言ってんだ。食うなら食え。噂を肴にするなら、出てけ」
男たちは鼻白んだ。それでもスープは残さず平らげて、銅ソルを2枚、長机に置いていく。去り際にもう一度、値踏みするように私を見て、戸の外へ消えた。
戸が閉まる。店に、しんと静けさが落ちた。
窓際で、ガロ爺が具多めをすする音だけがやけに大きく響く。ほかの客はみんな下を向いて、黙って匙を動かしていた。誰も何も言わない。けれど店の空気は、たしかに一枚、薄くめくれてしまった。
ガロ爺は何も言わない。また触れ書きに目を戻している。訳ありは訳ありのまま。そう言ってくれた人だ。
けれど、店に落ちてしまった言葉は、もう拾い集められない。ド・ウェルズ。公爵令嬢。断罪。たった数語で、半年かけて積みあげたものの上に、置いてきたはずの名前がべたりと貼りついた。
「……ガロ爺、ありがとう」
「なんの話だ。わしはスープの心配をしただけよ」
そう言って、ガロ爺は残りを一息にすすった。いつものように腹を叩いて、帰っていく。何も聞かない。何も。その背中のやさしさが、今日はかえって胸に沁みた。
その夜。私は誰もいない店で、水甕の水面に映る自分の顔を見た。
この顔が王都の誰かの記憶に残っている。当たり前のことだった。名前を置いてきても、顔までは置いてこられない。追われる荷馬車の上で、私は何もかも剥がされた気になっていた。でも顔だけは連れてきてしまっていたらしい。
明日から、この通りの人たちは、私をどんな目で見るだろう。
水面に映る顔にそっと指を触れる。波紋が広がって、輪郭がゆがむ。この顔の下に、私はまだ、あの広間の令嬢を隠し持っている。隠しきれると、どこかで思っていた。甘かったのかもしれない。
覚え書きの壁を、私はそっと指でなぞる。ジオ。ガロ爺。セラさん。リルの母さん。レフさん。ひとりひとりの「いつもの」が、この半年ぶんの居場所だ。
この名前がそれを壊しはしないだろうか。
どうか明日もいつもの朝でありますように。ジオさんが迷いなく戸を押し、ガロ爺が窓際で触れ書きを広げ、リルが通い椀を取りに来る。あのなんでもない朝が続きますように。私は暗い店の中で、そう祈るしかなかった。
スープの鍋に蓋をして、私は火を落とした。あたたかいはずの店が、今夜はやけに広く感じられる。水甕に映った顔が、ゆらりと歪んで消えた。
次話:「見せ物じゃなくて、定食です」




