表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「おかえり」って言ってみたかったんです——追放された悪役令嬢の辺境カフェ  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/24

第14話「その名前は、置いてきた」

峠を越えてきたばかり、という風体の二人連れだった。


 昼下がり、戸ががたんと鳴った。旅装の男が二人、入ってくる。上等な外套に、王都仕込みらしい身のこなし。荷運びや行商とは、まとう空気がまるで違う。一見のお客さんだ。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」


 窓際ではガロ爺が触れ書きを広げ、いつもの具多めをすすっている。私は二人ぶんのスープをよそいながら、なんとなく落ち着かない気持ちになっていた。王都仕込みの匂い。半年前まで、私自身が浸かっていた匂いだ。


 鼻の奥がちりっとする。忘れたはずの、宮廷の香油の残り香。それを思い出した自分に、少しだけ腹が立った。


 二人はいちばん奥の長机に陣取った。声が大きい。宿場の相場だの、王都の景気だの、遠慮のない話しぶり。この匂いを、私はよく知っている。半年前まで、私もこうして、上等な席の側にいた。


 スープを運んでいくと、片方の男が、ふと私の顔を見上げた。


 その目がすっと細くなる。何かを探るような、記憶をたぐるような目だ。私は器を置いて、なるべく自然に微笑んだ。


「ごゆっくりどうぞ」


「……いや、待て。あんた、どこかで会ったな」


「さあ。よく言われるんです。平凡な顔なので」


「いや、そうじゃない」


 男は連れのほうへ身を乗り出した。声をひそめる。ひそめたつもりの、けれど狭い店に十分届く声で。


「おい、思い出したぞ。あの女だ。ド・ウェルズの——夜会で断罪された、公爵令嬢の」


 店の空気がすっと薄くなった気がした。


 私は笑みを貼りつけたまま、動けなかった。


 否定すればいい。人違いです、と一言。それだけでいいのに口が動かない。嘘をつくのも認めるのも、どちらも同じくらい怖かった。知覚だけが先に走って、頭が言葉を選べない。匙を持つ手だけが、器のふちで小さく強張る。


「な、そうだろう? 王都じゃちょっとした噂だぜ。男爵令嬢を階段から突き落とそうとして、家に切られた——」


「お客さん」


 濁声が割って入った。


 ガロ爺だ。触れ書きから顔も上げず、けれど、はっきりと通る声で。


「よその家の噂話は、よそでやんな。ここは飯を食うとこだ」


「……なんだ、じいさん」


「うまいスープが冷めるって言ってんだ。食うなら食え。噂を肴にするなら、出てけ」


 男たちは鼻白んだ。それでもスープは残さず平らげて、銅ソルを2枚、長机に置いていく。去り際にもう一度、値踏みするように私を見て、戸の外へ消えた。


 戸が閉まる。店に、しんと静けさが落ちた。


 窓際で、ガロ爺が具多めをすする音だけがやけに大きく響く。ほかの客はみんな下を向いて、黙って匙を動かしていた。誰も何も言わない。けれど店の空気は、たしかに一枚、薄くめくれてしまった。


 ガロ爺は何も言わない。また触れ書きに目を戻している。訳ありは訳ありのまま。そう言ってくれた人だ。


 けれど、店に落ちてしまった言葉は、もう拾い集められない。ド・ウェルズ。公爵令嬢。断罪。たった数語で、半年かけて積みあげたものの上に、置いてきたはずの名前がべたりと貼りついた。


「……ガロ爺、ありがとう」


「なんの話だ。わしはスープの心配をしただけよ」


 そう言って、ガロ爺は残りを一息にすすった。いつものように腹を叩いて、帰っていく。何も聞かない。何も。その背中のやさしさが、今日はかえって胸に沁みた。


 その夜。私は誰もいない店で、水甕の水面に映る自分の顔を見た。


 この顔が王都の誰かの記憶に残っている。当たり前のことだった。名前を置いてきても、顔までは置いてこられない。追われる荷馬車の上で、私は何もかも剥がされた気になっていた。でも顔だけは連れてきてしまっていたらしい。


 明日から、この通りの人たちは、私をどんな目で見るだろう。


 水面に映る顔にそっと指を触れる。波紋が広がって、輪郭がゆがむ。この顔の下に、私はまだ、あの広間の令嬢を隠し持っている。隠しきれると、どこかで思っていた。甘かったのかもしれない。


 覚え書きの壁を、私はそっと指でなぞる。ジオ。ガロ爺。セラさん。リルの母さん。レフさん。ひとりひとりの「いつもの」が、この半年ぶんの居場所だ。


 この名前がそれを壊しはしないだろうか。


 どうか明日もいつもの朝でありますように。ジオさんが迷いなく戸を押し、ガロ爺が窓際で触れ書きを広げ、リルが通い椀を取りに来る。あのなんでもない朝が続きますように。私は暗い店の中で、そう祈るしかなかった。


 スープの鍋に蓋をして、私は火を落とした。あたたかいはずの店が、今夜はやけに広く感じられる。水甕に映った顔が、ゆらりと歪んで消えた。


次話:「見せ物じゃなくて、定食です」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ