第15話「見せ物じゃなくて、定食です」
噂は湯気よりずっと速く広がった。
次の日の朝、店を開けてみて、私は面食らった。いつもの常連の顔ぶれのなかに、見慣れない人たちが何人も混じっている。二人、三人、五人。峠を越えてきた行商や、宿場の暇な旅人だ。みんな、そわそわと店の中を見回している。私の顔を、遠慮なく、じろじろと。
「なあ、あれだろ。公爵令嬢だったって女」
「へえ、思ったより普通だな」
「ほんとに人を突き落としたのかね」
ひそひそ、じゃない。聞こえるように言う。私は聞こえないふりをして、スープをよそい続けた。
困ったのは席だった。
窓際のいちばん日の当たる席に、見物の男が三人、陣取っている。そこへガロ爺がいつもの触れ書きを抱えてやってきた。自分の席が埋まっているのを見て、ぐっと眉を寄せる。
「……わしの席は、どこいった」
「ガロ爺、ごめんなさい。今日はちょっと、混んでて」
「ふん」
ガロ爺は不機嫌に、いちばん隅の椅子に腰を下ろした。奥の席のジオさんの隣。番犬みたいに黙り込んで腕を組んで。
見物客の注文がまた厄介だった。
「おい店主、その令嬢さまの手作りってやつ、毒は入ってねえだろうな」
「はいはい、根菜と塩だけです。ご心配なく」
「じゃあ令嬢さま直々に、うやうやしく運んでくれよ。せっかくだからな」
「かしこまりました。足元にお気をつけて。うちに階段はございませんので」
いくつかの席から、どっと笑いが起きる。悪意まじりの笑いだ。私は笑みを崩さずにスープを運ぶ。けれど指先が少しずつ冷たくなっていくのがわかった。
常連たちは居心地悪そうだった。ジオさんは奥で、いつもより早く匙を置く。ガロ爺は触れ書きを広げても、ちっとも読み進めない。いつもの静かな朝が、見物人のざわめきに押しやられていく。この店の時間が他人のものにすり替わっていくみたいだった。
いちばん質が悪かったのは隅の若い男だ。書き付けの板を膝に広げて、私の一挙一動を書き留めている。
「あの、断罪されたのは何月ですか。夜会の場所は。公爵家の紋章は覚えてます?」
「……お客さん、ご注文は?」
「あ、注文はいいんです。お話を聞かせてもらえれば。ぼく、王都の書記局に上がりたくて、こういう噂を集めてるんです。トトっていいます」
「ご注文がないなら、席は空けてくださいな。並んでる方もいますので」
そのとき、勢いよく戸が開いた。パンの籠を抱えたニナちゃんだ。店の様子を一目見て、みるみる顔が赤くなる。
「ちょっと! あんたたち、なんなの!」
「ニナちゃん」
「クレアさんの店は、見せ物小屋じゃないの! 食べないなら出てって! ここは——ここは、定食を出すお店なんだから!」
パンの籠を胸に抱えたまま、ニナちゃんは仁王立ちになった。16歳の看板娘が、大の男たちを相手に一歩も引かない。私は思わず噴き出しそうになる。こんなときなのに。
「見せ物じゃなくて、定食です。……ニナちゃんの言う通りですね」
「でしょ!」
それでも見物客は減らなかった。ニナちゃんに追い出されたぶん、また新しい顔が噂を聞きつけてやってくる。湯気の立つ店先に、人だかりの気配が絶えない。
昼過ぎ、リルが青い顔でやってきた。宿の鍋を取りに来たのだ。ゆるり亭は毎朝、マーサ女将の宿にスープを一鍋ぶん納めている。奉公人たちの、朝の一杯。リルの母さんが働く宿との、ささやかな取引だった。
「クレアねえちゃん……お店、へん」
「うん。ちょっとだけ、へんなの。でも大丈夫。すぐいつも通りになるから」
私はリルの頭をなでて、宿の鍋に、いつもより具を多めに詰めた。この子にだけはいつも通りの顔をしていたかった。小さな手が鍋を抱えて、人ごみをすり抜けていく。
その後ろ姿を見送りながら、私は唇を噛んだ。あの子の職場も母さんの居場所も、私の噂ひとつで危うくなるのかもしれない。そう思うと、笑顔の裏側がじくじくと痛んだ。
夕方。やっと見物客の波が引いたころ、私はへとへとになっていた。
常連たちの席は一日じゅう落ち着かなかった。ガロ爺は隅で仏頂面。ジオさんは奥で、いつもより長く黙っている。あたたかいはずのゆるり亭が、今日は一日、そわそわと落ち着かない匂いをまとっていた。
それでも私は明日も店を開ける。いつも通りに。見物客が来ても常連が来ても、同じ顔で同じ一杯を。そう決めて、私は鍋を洗った。
いつも通り。
その二文字を、私はこのとき、少し握りしめすぎていたのかもしれない。
次話:「いつも通りが、できない」




