第16話「いつも通りが、できない」
いつも通り。そう自分に言い聞かせて、私は朝から店じゅうを駆け回っていた。
見物客はその日も引きも切らずやってくる。だから私はいつもの倍、動いた。見物客にも笑顔で応じる。常連には申し訳なさから、頼まれてもいないおまけをつける。席が足りなければ、自分の休憩用の椅子まで出した。全部いつも通りにやろうとして——本当は、いつもの倍、無理をしていた。
「クレアさん、少し休んだら」ニナちゃんが心配そうに言う。
「大丈夫。これくらい、なんでもないから」
なんでもない、なんてことはなかった。指先はずっと震えている。頭の芯がじんと痺れていた。それでも私は笑って、次のスープをよそう。読まなきゃ。誰が疲れていて、誰が急いでいて、誰に何を出せばいいか。全部読んで、先回りして、いつも通りに——。
でも頭の芯が痺れていると、読む力は、するどさを失っていく。誰が誰の隣に座っていたか。誰がもう食べ終えたか。ふだんなら勝手に見えるものが、今日はぼやけて、うまく像を結ばない。それでも私は手を止められなかった。止まったら、崩れてしまいそうで。
昼過ぎ、大柄な男が、のっそりと入ってきた。
峠越えの荷馬車曳きだ。泥のはねた外套に節くれだった手。荷を峠に置いてきたのか、肩で息をしている。ずいぶん疲れて見えた。私の「読む力」が勝手に働く。ああ、この人は疲れている。お腹も空かせている。きっと路銀も心もとない。
だから私は先回りした。
具をうんと多めにする。浸しパンを一枚、頼まれてもいないのに添える。それをそっと男の前に差し出した。
「今日はおまけです。峠、大変だったでしょう。あたたかいうちに、どうぞ」
男の手が止まった。
ぎろり、と、こちらを見上げる目。
「……おまけ?」
「あ、はい。サービスで」
「施しか、これは」
低い声だった。店のざわめきがすっと引く。
「い、いえ、そういうつもりじゃ」
「おれはな、峠を30年曳いてる。誰にも借りは作らねえ。銅ソルはちゃんと払う。哀れんでもらう筋合いはねえんだ」
男は——ドマ、とあとで知った——立ち上がった。浸しパンをこちらへ押し返す。
「令嬢さまの施しなんぞ、いらねえ」
その一言がぐさりと刺さった。令嬢さま。見物客の口真似だ。私の親切はこの人には、上から恵む施しにしか見えなかった。顔から、すっと血の気が引いていく。
ドマさんは銅ソルを1枚、長机に叩きつけるように置いた。頼んだぶんの、きっちりの代金。それからパンには手もつけず、大股で出ていく。戸が乱暴に鳴った。施しじゃない払いだけを律儀に残して。
動揺したまま、私は次の器を運んだ。ガロ爺の窓際へ。今日はやっと、朝いちばんの席が空いていた。
「嬢ちゃん、いつもの」と言われて、私は「はい」と器を置く。置いてから、気づいた。
具が少ない。
いつもの具多めじゃない。疲れと動揺で、私は——よりによってこの人の一杯を、ふつうによそってしまった。兄貴分の分まで、と教わったばかりの、あの二人分の器を。
「ガロ爺、ごめんなさい。これ、具が」
「……ああ、かまわん。今日は、これでええ」
ガロ爺は何も責めなかった。責めないことがいっそう痛い。この一杯の意味を、私は知っているのに。知っていて、外した。
その日、私は生まれて初めて、日の高いうちに店を閉めた。
「今日はもう、店じまいにします。ごめんなさい」
まだ器を持っていた見物客たちが、ぶうぶう文句を言いながら出ていく。ニナちゃんが何か言いかけて、でも私の顔を見て、口をつぐんだ。
誰もいなくなった店で、私は框にへたりと座り込む。
いつも通りができなかった。
読む力があると思っていた。誰かの疲れを読んで、先回りして、一杯を差し出せると。——でも今日、私はその力で人を怒らせた。哀れみと親切の見分けもつかない。いちばん大事な常連の一杯すら、外した。
湯気を出せば、人はほどける。そう思い込んでいた、あの霧の日の私と、何ひとつ変わっていない。
私はしゃがんだまま、両手を見つめた。この手で、何杯のスープをよそってきただろう。何人の「いつもの」を覚えてきただろう。それなのに今日は、その手がいちばん覚えているはずの一杯を、するりと取りこぼした。
竈の火を落とすと、店は急にうすら寒くなった。
まだ日は高い。外では見物客の笑い声が坂の下へ遠ざかっていく。私は膝を抱えて、その声が消えるまでじっと座っていた。
あたためて待つ席もいつものスープも。今日はそのどれも、うまく出せなかった。
次話:「暖簾には、暖簾の事情」




