第17話「暖簾には、暖簾の事情」
早じまいの翌朝、私はいつもより早く竈に火を入れた。
昨日の失敗を、ひきずってはいられない。ドマさんのこと。ガロ爺の一杯のこと。悔いは山ほどあるけれど、店を開ける以上、湯気は立てなきゃならない。私は根菜を刻んで、塩を多めに利かせて、鍋に落とした。いつもの匂いが少しずつ店に戻ってくる。
朝いちばんの常連はジオさんだった。奥の席で、いつも通りに匙を運ぶ。何も変わらないふりを、この人もしてくれているのかもしれない。その黙った優しさに、私は少しだけ、背筋を伸ばした。だいじょうぶ。まだ、この店は回っている。
見物客は昨日より少し減っていた。噂もそろそろ飽きられてきたのかもしれない。ほんの少しだけ、息がつける。——そう思っていた矢先だった。
昼前、見慣れない中年の女の人が、戸を押して入ってきた。
きっちり結った髪に、宿場の女将らしい隙のない身なり。手にはうちの宿の鍋を提げている。毎朝スープを納めている、あの鍋だ。
「ゆるり亭の店主さん、でいいかしら」
「はい。……あの、その鍋は」
「マーサといいます。街道口の宿を切り盛りしてる者です。いつも、朝の鍋をありがとうね」
物腰はやわらかかった。やわらかいのに、目のどこかがもう決まっている。私はいやな予感がした。
その予感を抑えつけるように、私は湯気の立つ椀を、マーサさんの前に置いた。せめて一杯、飲んでいってほしかった。けれどマーサさんは、椀に目を落として、そっと首を横に振る。手をつけないというより、つけられない、という仕草だった。
マーサさんは鍋を長机にことりと置いた。
「単刀直入に言うわね。明日から、朝の鍋は、けっこうです」
やっぱり。喉の奥がひやりとする。
「……何か、味に、ご不満が」
「まさか。あなたのスープは、うちの奉公人にも評判なのよ。おいしいの。それは、ほんとう」
マーサさんは少し困ったように眉を下げた。
「でもね、店主さん。うちに泊まるお客が言うのよ。『あの、公爵令嬢崩れの店の飯か』って。顔をしかめる人が、出てきたの。宿の朝ごはんに、わざわざ波風は立てたくない。うちは、宿と奉公人の暮らしを、まわしていかなきゃならないの」
奉公人。その言葉に、私は何も言えなくなった。
偏見です、と言うのは簡単だ。でもその一言で得をするのは私だけ。損をするのはリルの母さんや、ほかの奉公人たち。マーサさんはそれをわかった上で、頭を下げに来ている。だから私はぐっと言葉を飲み込むしかなかった。
あの宿にはリルの母さんがいる。朝の早い、洗い場の下働きだ。マーサさんが守ろうとしているのは、あの人たちの暮らし。私が「そんなの偏見です」と言い返した先で、割を食うのは、いちばん弱い立場の人たちだった。
「悪く思わないでね」マーサさんは、鍋を私のほうへ、そっと押す。「わたしだって、噂なんかくだらないと思ってる。でもね、くだらない噂で客が減っても、奉公人の給金は減らせないの。情だけじゃ、暖簾は守れない」
「……はい」
「あなたは、いい店主さんよ。ほんとうに。だからこそ、こういうときは、じっとしてるのがいちばんいい。ほとぼりが冷めるまで、ね」
マーサさんはそれだけ言って帰っていった。戸を静かに閉めて。悪意なんて、ひとかけらもない。ひとかけらもないから、言い返す言葉が、どこにも見つからなかった。
長机には空になった宿の鍋がぽつんと残された。
昨日は見物客の悪意に刺された。今日は悪意のない、まっとうな算盤に刺された。同じ痛みでも刺され方がまるで違う。悪意なら、まだ怒れた。けれど、まっとうな理屈の前では、頭を下げるしかない。
暖簾には暖簾の事情がある。マーサさんの宿にも。リルの母さんの暮らしにも。それを盾に取られてしまえば、私の「おかえりなさい」なんて、あまりに無力だった。
私は空の鍋を抱えた。その底の冷たさが、手のひらにじんわり伝わってくる。竈の火はちゃんと燃えているのに、この鍋の底だけがひやりと冷たい。誰の口にも届かなかった一鍋ぶんの湯気が、そのまま冷めてしまったみたいだった。
鍋を棚に伏せて、私はしばらく、その場に立ち尽くす。
仕込んだスープは、まだ鍋いっぱいに残っている。宿の奉公人たちの、朝の一杯ぶん。木杓子を差したまま、嵩はいっこうに減らない。誰かのためにあたためたものが、今朝はどこへも出ていかない。それがこんなに心細いことだなんて。
この通りに、私の居場所は、まだあるんだろうか。窓の外はいつもと同じ坂道。いつもと同じ、霧の匂い。それなのに足元が急に、頼りなくなった気がした。
次話:「訳ありは、訳ありのまま」




