第18話「訳ありは、訳ありのまま」
その日、私はスープを仕込む手が、いつもより重かった。
見物客は減っても、宿の取引は切れたまま。常連は気を遣って、かえって足が遠のく。あたたかいはずの店が、少しずつ、静けさに侵されていく気がした。湯気だけがいつもと変わらず立ちのぼっている。
昼過ぎ、持ち主らしい遠慮のなさで戸が開いた。家主のバッソさんだ。家賃の日でもないのにめずらしい。
「ねえさん、聞いたぞ。宿のマーサに、鍋を切られたってな」
「……はい。ご心配おかけして」
「心配なんぞしとらん。腹を立てとるんだ」
バッソさんは框にどっかり腰を下ろした。膝に手をついて、まっすぐ私を見る。
「わしはな、この店子の素性を、家主として請け合う。どこの誰だろうが、家賃をきっちり払って、竈を絶やさず、通りの人間に一杯出しとる。それ以上、何を知る必要がある」
「バッソさん」
「うちの死んだ女房が回してた竈だ。その火に、また灯をつけてくれたのが、ねえさん、あんただ。公爵令嬢だろうが流れ者だろうが、そんなもん、火の熱さにゃ関係ねえ」
バッソさんは立ち上がって、外套の襟を正した。
「マーサんとこにも、宿場の寄合にも、わしから言うとく。『あの店子は、家主のわしが請け合う』とな。文句があるなら、家主に言え、と」
その言葉が乾いた土に水が沁みるみたいに胸に落ちてくる。
バッソさんの背中は、思ったより大きかった。ふだんは家賃を負けてくれない、しぶちんの家主だ。それが今日はこんなにも頼もしい。私は框に立ったまま、去っていくその背中に深く頭を下げた。
夕方にはガロ爺がやってきた。めずらしく、通りの人足を何人か引き連れている。
「嬢ちゃん、スープを人数分だ。こいつらにな、話をしてやる」
ガロ爺は窓際のいつもの席に腰かけた。人足たちをぐるりと見回す。
「おまえら、聞け。この宿場に流れてくる人間は、みんな訳ありだ。わしもそうよ。おまえらだって、故郷で胸を張れる暮らしをしてたやつが、何人おる」
「……そりゃ、まあ」
「訳ありは、訳ありのままでいい。それがこの通りの流儀だ。誰の昔も暴かん。暴いて追い出すような通りなら、わしはとっくに、どこにも居場所がなかったわ」
濁声が店に低く響く。窓際の、いちばん明るい席から。
「嬢ちゃんの昔が公爵家だろうが、なんだろうが、わしにゃどうでもいい。わしが知ってるのは、この店の具多めが、うまいってことだけよ」
人足のひとりがぼそりと言った。「……じいさんの言う通りだ。おれも故郷にゃ帰れねえ身よ」。別のひとりも黙ってうなずく。それぞれの訳ありを抱えた男たちが、私のスープを黙ってすすっていた。
人足たちがばつが悪そうに、それでも一杯ずつスープをすすった。そこへ、リルが飛び込んでくる。
「クレアねえちゃん!」
「リル、どうしたの、そんなに慌てて」
「あのね、宿のおばさんたちが、ひそひそ言ってたの。クレアねえちゃんが、悪いお姫さまだって。……ちがうよね?」
まっすぐな目だった。私はなんて答えればいいのか迷った。悪いお姫さま。ちがう、とも言えない。そうだった、とも言えない。
でもリルは私の返事を待たなかった。
「わたし、言ってやったの。『クレアねえちゃんは、クレアねえちゃんだよ』って。お姫さまなんて、知らないもん。わたしにおかえりって言ってくれる、クレアねえちゃんだもん」
その一言がまっすぐ、胸のいちばん奥を撃った。
公爵令嬢だったクレアは、王都で、家に「いらない」と切り捨てられた。名前も婚約者も家族もみんな失った。——でも坂下通りのクレアねえちゃんは違う。リルにおかえりを言う人。ガロ爺の具多めを覚えている店主。バッソさんの竈に火を灯した女だ。
王都で剥がされたものの代わりに。私はいつのまにか、この通りで、たくさんのものを手に入れていたらしい。
胸の奥の棘がすっと溶けていくのがわかる。まだ抜けたわけじゃない。それでも痛みの角が、ほんの少し丸くなった。この通りの人たちが、寄ってたかって、その角を撫でてくれたみたいに。
その夜、私は久しぶりに、鍋の底まできれいにスープを飲み干した。塩を多めに利かせた、いつもの味。今日はちゃんとあたたかかった。
まだ、何も解決していない。宿の取引は切れたまま。王都の噂も消えてはいない。それでも私の足元には、確かにこの通りがあった。
訳ありは訳ありのまま。その言葉に、こんなにも救われる日が来る。あの霧の日には思ってもみなかったことだ。
次話:「名前と味は、関係がない」




