第19話「名前と味は、関係がない」
見物客の波は少しずつ引いていった。
バッソさんの請け合いと、ガロ爺の一喝が、じわじわ通りに効いたのかもしれない。噂を肴にしに来る人間は減って、また常連の顔が戻りはじめた。それでも宿の取引は切れたまま。私の胸の奥にはまだ小さな棘が刺さっている。
常連が戻ってもあの棘は消えない。名前を知られた店で、私はどんな顔をして「おかえりなさい」と言えばいいのか。それがまだわからずにいた。笑ってみせても心の芯だけが、うまくほどけてくれない。
その日の夕暮れ、最後まで店に残っていたのはジオさんだった。
奥の席で、いつものように黙って、空の器を前にしている。帰る様子がない。私が長机を拭いていると、ぽつり、と低い声がした。
「……あんた、王都の生まれだろう」
布を持つ手が止まった。
「……どうして」
「顔でわかる。俺は、王都にいたからな」
ジオさんは器のふちを指でなぞる。ゆっくりと言葉を継いだ。
「前に話しただろう。ある夜会で、一人の令嬢が断罪された、と。証もないのに、家に切り捨てられた令嬢の話だ」
「……はい」
「あれは、あんただ。クレア・ド・ウェルズ公爵令嬢。俺は、あの夜会の警護に立っていた」
息が止まった。
あの夜の記憶がいっぺんに逆流してくる。まばゆい燭台。楽の音が止んだあとの、耳鳴りみたいな静けさ。広間じゅうの扇の陰から、囁きが漣のように寄せてきた。
覚えのない嫌疑を読み上げる声を、私は他人事みたいに聞いていた。何が起きているのか、頭が追いつかない。絹の手袋の中で指先だけがどんどん冷えて、口の中が乾いて、味がしなくなった。
そして——父の、こちらを見もしない横顔。「この娘は家の名を汚した」。その一言で、私の名前は剥がされた。
あの広間の壁際に、鎧の列が並んでいた。誰一人動かない、顔のない鎧の群れ。……そのなかにこの人がいた。
「気づいてた……最初から」
「ああ。あんたが初めて俺に『おかえりなさい』と言った、あの朝からな」
私は崩れ落ちそうな気持ちで長机に手をついた。
知られていた。最初から、ぜんぶ。私が誰なのか。何をしたと噂されているのか。全部知った上で、この人は毎朝あの席に座って、私の「おかえりなさい」を受け取っていた。
頭ではわかった。でも胸が追いつかない。半年ぶんの朝がひとつずつ意味を変えていく。あの迷いのない一押しも、短い「ああ」も、器を返しに来た夜も——ぜんぶ知っている人の沈黙だったのだ。
「なんで……なんで、聞かなかったんですか。私が、どこの誰か、知ってたのに」
「聞く必要が、なかった」
ジオさんはまっすぐに私を見た。夜番のときの、値踏みするような目じゃない。もっと静かで深い目だった。
「あの夜、俺は剣を持っていながら、あんたを守れなかった。証もない断罪を、黙って見ていた。番犬のくせに、何もできなかった。……俺はそのことを、長いこと悔いてきた」
「ジオさん」
「だが、ここでのあんたは、公爵令嬢じゃない。塩を多めに利かせて、具を多めにと言えばそうしてくれる、ゆるり亭の店主だ。——あんたの皿の味は、あんたの名前と、何の関係もない」
名前と味は関係がない。
その言葉が胸のなかで、じんと熱くほどけていく。半年かけて私が積みあげたもの。それを、この人は名前で測らずにいてくれた。名前を、とっくに知っていながら。
私はいつも誰かの事情を読んで先回りしてきた。読む側でいるうちはこわくない。でもこの人はその私を、とっくに読んでいた。
心細さがまず来た。裸足で立たされたような、隠しごとの利かない心もとなさ。……そのすぐあとから、じんわりと、別のものが追いついてくる。竈の残り火に手をかざしたときみたいな、遅れて届くあたたかさだ。
読んだ上で、何も言わずに、毎朝あの席に座りに来てくれる。知られていて、それでも変わらない朝が続いていた。読まれる側になるというのは、こういう温度なのか。
「俺は王都で、守れなかった。だからせめて、ここでは」
ジオさんはそこで一度、言葉を切った。それから、ふいに。
「——クレア。この店は、俺が守る。名前がどうあろうと、この味は、この通りのものだ」
クレア。
あんた、じゃなく、名前で呼ばれた。半年間、「あんた」としか呼ばなかった人に。
こらえていたものが、ふいに、目の奥からあふれた。
泣くつもりなんて、なかった。マーサさんに鍋を切られても、ドマさんに施しと言われても私は泣かなかった。なのに、名前で呼ばれただけでこんなに。
匙が器に当たって、ちりんと鳴る。私は袖で目元を押さえた。それでも止まらなくて、しばらく、うつむいていた。
「……悪い。泣かせるつもりは、なかった」
「いいんです。……うれしいから。うれしくて、なんです」
ジオさんは少し困ったように、それでも逃げなかった。私が泣きやむまで、奥の席で待っていてくれる。急かさず、慰めもせず、そこにいてくれた。いつか私がこの人の短い話をそうして聞いたみたいに。
やがてジオさんは腰を上げた。
「また、明日の朝に来る。……いつものを、頼む」
「はい。奥の席、あたためて待ってますから」
戸がためらいのない一押しで開いて、閉じた。夜の通りへ、まっすぐな足音が遠ざかっていく。
残された奥の席に、私はそっと手を置いた。ジオさんの体温はもう冷めている。それでもその席の木の感触が、今夜はやけにあたたかく思えた。
名前で呼ばれた夜のことを、私はきっとずっと忘れない。
次話:「見物料は、スープ一杯」




