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「おかえり」って言ってみたかったんです——追放された悪役令嬢の辺境カフェ  作者: 夜凪 蒼


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第5話「竈の機嫌は、教わるもの」

その朝、竈はへそを曲げていた。


 いつもの朝なら、細い薪で機嫌をうかがえば素直に燃えつく。それが今日はどうにも火が回らない。煙ばかりが逆流して、店じゅうが燻したように白くなる。目にしみて、私は何度も涙をぬぐった。骨のスープはまだ半煮えで、湯気の勢いが足りない。


「もう、なんで今日にかぎって」


 薪を組み直しても、扇いでも、火は奥まで届かず手前でくすぶる。前世でどれだけ竈を扱っても、この土地の古い竈の癖までは体が覚えていない。半年たっても私はまだこの竈の新入りなのだ。


 そこへ、こつこつと戸が鳴った。開け方に遠慮のない、けれど急かしもしない一押し。


「家賃の集金に来たぞ、ねえさん。……おや、えらい煙だな」


 家主のバッソさんだ。ずんぐりした体を戸口で屈めて、白く曇った店の中を見回す。私は袖で顔を扇ぎながら、用意しておいた銀ソルを二枚、机に並べた。


「バッソさん、今月ぶんです。お恥ずかしいところを。今朝はどうも、竈が言うことを聞かなくて」


 バッソさんは銀ソルを受け取らずに、まず竈のほうへ歩み寄った。膝を折り、焚き口をのぞき込む。節の目立つ指で、奥の石をこんこんと叩いた。


「ねえさん。薪、どこにくべてる」


「え……真ん中に、まとめて」


「それがいかん。ここの竈は、奥にひとつ盛り上がった石があるだろう。エルナはこれを『猫の背』と呼んどった。薪はその背に立てかけて、下から風を通してやる。真ん中に積んだら、火が息をできんのだ」


 言われるまま、私は薪を組み直した。奥のふくらんだ石――猫の背に、細い薪を斜めに立てかける。火種を下の隙間へ差し入れると、手前でくすぶっていた炎が、すうっと奥へ吸い込まれていった。


 ぼっ、と音を立てて、薪の背に火が回る。逆流していた煙が、嘘みたいに煙突へ抜けていく。


「……すごい。ほんとに、息をしはじめた」


「三十年この竈と付き合った女房の、受け売りさ」


 バッソさんは焚き口の縁を掌でそっと撫でた。煤で汚れるのもかまわずに。


「エルナ、って」


「女房だ。この食堂は、もともとあれが回しとった。宿場の男どもが、あれのスープを食いに毎晩通ってな。竈の機嫌の取り方も、鍋の置き場所も、みんなあれの体が覚えとった」


 バッソさんの声が、そこで少し柔らかくなる。


「あれはな、鍋をかき混ぜながら、いつも下手な鼻唄をうたっとった。音程は無茶苦茶でな。それでも男どもは、その唄が聞こえると席に着いて、ほっと肩を落としたもんだ」


「……素敵な奥さんですね」


「素敵かどうかは知らん。だが、あれのいた食堂は、いつだってあったかかった。わしはもう一度だけ、この竈から湯気が上がるのを見たかったのさ」


 私ははっとした。安すぎる家賃も古樽の蓋を削ってくれた看板の板も、物置に残っていた蓋つきの器も。ここははじめから空き店舗などではなかった。


「バッソさん。この店、私なんかにお貸しして、よかったんですか。奥さんの、大事な場所を」


 バッソさんはしばらく火を見ていた。パチパチとはぜる音が、白い煙のあとの静けさを埋めていく。


「エルナが逝ってから、この竈にはずっと火が入らんかった。わしには、あれのようには回せん。かといって蔵にして朽ちさせるのも忍びない。冷えた竈ってのは、見とるだけでこっちの胸まで冷えるんだ」


「……」


「半年前、素性も知れんねえさんが、ここで火を焚くと言った。安いのは、火を絶やさんでくれる駄賃さ。あんたが毎朝ここで湯気を立てるたび、わしはエルナの竈がまだ生きとると思える」


 湯気の向こうで、家主の目が少しだけ潤んでいた。私はかける言葉を探して、けれど見つからず、火の音をふたりで聞いていた。


 いつもは私が湯気を出して誰かをあたためる側にいる。それなのに今朝は、竈の癖を教わって、亡くなった人の思い出に助けられている。もらう側に回るのは、こんなに据わりが悪くて、こんなにあたたかいものなのか。


「バッソさん。今日のスープ、味見していきませんか。猫の背に火を入れて煮た、はじめての一杯です」


「集金のついでに、飯までたかる家主も珍しいがな」


 悪態のわりに、バッソさんはもう椅子を引いていた。私は火の通った鍋から、湯気の立つスープをよそう。奥の席をあたためてから、その器をそっと置いた。


 ひと口すすって、バッソさんは目を細める。


「……塩が、ちょっと足りん」


「え」


「エルナはな、仕上げにひとつまみ多く入れとった。冷えた体には、それくらいがちょうどいいと」


「……はい。次から、そうします」


 教わることはまだいくらでもある。この竈にもこの町にも、私の知らない誰かの手の記憶が沁みついている。それを一つずつ受け取って、私はようやくこの店の店主になっていくのだろう。


 鍋の湯気がまた白く立ちのぼった。私は焚き口の火を見つめて、会ったこともないエルナさんへ、胸の中でそっと挨拶する。おかえりなさい、この竈に。あなたの火はちゃんとここで燃えていますよ。


 バッソさんは銀ソルをふところへ収めて、帰りぎわ、焚き口の火をもう一度だけ振り返った。


「……ちゃんと、あったかいな。ここは」


次話:「無口な宣伝、効いてます」

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