第4話「わしの席はまだか」
昼どきの店は朝とはまるで匂いが違う。
スープの鍋は昼の仕込みに切り替わる。香草を効かせた豆の煮込みが、湯気を厚くしていく。朝は珈琲の香りが主役だけれど、昼はこの豆の匂いが土間いっぱいに満ちるのだ。街道を行く人が腹の虫を鳴らして戸を叩くのは、たいていこの時間だった。
今日も一人、見慣れない大男がのっそり入ってきた。荷運びの人足らしい。肩には縄の跡が食い込んで、掌は節くれだって分厚い。峠越えの荷を麓の宿場でいったん下ろしてきた帰りだろう。空きっ腹を抱えた男の目は、店の湯気だけをまっすぐ探していた。
「腹に入るもん、なんでもいい。早いのを頼む」
「はい、すぐお出しします。豆の煮込みと浸しパンでよければ」
男は返事の代わりに、どっかりと窓際の席へ腰を下ろした。いちばん日の当たる、あの席だ。
——あ。
そう思ったときには、もう戸が鳴っていた。迷いのない一押しではなく、こつこつと杖で床を突く音を先に立てて、ガロ爺が入ってくる。触れ書きの束を小脇に抱えた、いつもの昼の顔だ。
「おかえりなさい、ガロさん。……あ、その」
言い終わらないうちに、ガロ爺の足が止まった。自分の指定席に居座る大男をじろりと睨む。
「嬢ちゃん。わしの席はまだか」
「ガロさん、今日はちょっと、ええと」
「わしの席に、知らん山が座っとるが」
山、と呼ばれた男がじろりと見返す。
「あんたの席? 名前でも彫ってあんのか」
「彫ってはおらん。だがこの窓際は、わしが三年も尻であっためてきた席じゃ」
険悪な空気が豆の湯気を割って立ちのぼる。私は鍋の火を細めて、慌てて二人のあいだへ体を入れた。喧嘩でスープをひっくり返されたら、昼の仕込みが台無しになる。
「まあまあ、お二人とも。席は逃げませんよ。ガロさん、今日はこちらの奥の席ではどうです。隙間風もないし、あたためてありますから」
「奥は暗くて、触れ書きの字が読めん」
そう言って、ガロ爺は抱えた紙束をばさりと机に広げた。港から流れてくる海の便りや、荷の触れ書き。字の読めない者に代わって読んでやるのが、この爺さまの通りでの役どころだ。だからこそ、明るい窓際でなければ困る。
その紙束を見て、大男の眉がふと動いた。
「……あんた、字が読めるのか」
「外洋船の炊事番を三十年やっとった。飯も炊けば荷札も読む」
男はしばらく迷ってから、ふところに手を突っ込んだ。しわだらけの一枚をそっと机に置く。
「これ、読んでくれねえか。荷の指図書だ。おれ、字がわからねえ。麓で預かった荷を、どこの蔵に納めりゃいいのか」
声が急に小さくなる。分厚い掌の主が一枚の紙の前で途方に暮れている。荷は担げても書かれた文字の前ではどうにもならない。その心細さを、ガロ爺は鼻先で笑ったりしなかった。
皺だらけの指が紙の上をゆっくりなぞる。
「ふむ。これは霧が根の蔵じゃない。二つ先の宿場、風待ちの蔵あてと書いてある。あんた、あやうく荷を置き違えるところじゃったな」
「……げ。じゃあおれ、町を間違えて下りたのか」
「まだ間に合う。昼を食うて、それから急げばよい」
男の顔から、ふっと強張りが抜けた。席をめぐって睨み合っていた大男が、今は年寄りの読む字にすっかり頼りきっている。
「……助かった。おれ、親方から初めて一人で任された荷なんだ。しくじったら、二度と任せてもらえねえ」
大きな体を縮めて、男はぼそりと言った。強面のわりにその声は妙に若い。誰だって、はじめての一人立ちは怖いものだ。荷は担げても心細さまでは肩に載せて運べない。
「……悪かった。あんたの席、返すよ」
「もう座っとる。今さら立つのも面倒じゃ。嬢ちゃん、この山にも同じのを出してやれ。銭はわしが半分持つ」
「ガロさん、太っ腹ですね」
「字の読めん男が道を間違えんように昼を食う。それを見届けるくらいの余裕はある」
私は豆の煮込みを二つよそって、浸しパンを添えた。窓際の席ではいつのまにか年寄りと大男が並んで座っている。指図書を挟んで、蔵の場所だの峠の近道だのと話しはじめた。豆の煮込みは根菜のスープよりも腹に溜まる。峠を越える体には、これくらい重いほうがいい。ついさっきまで席を奪い合っていた二人が、湯気ひとつ隔てて、もう古い知り合いみたいに笑っていた。
私はそっと覚え書きの壁を見る。ガロ爺の「窓際・具多め」の行の横に、心の中でもう一行を書き足した。この窓際は字の読めない誰かのために、爺さまが明るく空けておく席でもあるのだと。
その日から、常連の席がなんとなく決まっていった。ジオさんは奥、ガロ爺は窓際、リルは日の差す小さな椅子。名を彫ったわけでもないのに、体がその場所を覚えてしまう。席というのは座る人の時間が沁みてはじめて、その人のものになるらしい。
大男は煮込みを平らげて、指図書を大事にふところへ戻した。
「助かった。この店、また通っていいか」
「もちろん。次いらしたら、あなたの席をあたためておきます。今日は爺さまの席を、ちょっとお借りしていましたので」
大男は戸口で窮屈そうに身をかがめ、荷を担ぎ直すと、急ぎ足の靴音だけを峠道に残していった。ガロ爺は残った豆をすくいながら、満更でもない顔で呟いた。
「……わしの席も、たまには貸してやるものじゃな」
次話:「竈の機嫌は、教わるもの」




