第3話「二杯目は、ちゃんとお客さん」
その朝、リルは戸を押さずに外で待っていた。
いつもなら隙間から頭を突っ込んで、匂いだけ嗅いで駆けていく子だ。それが今日は両手を前で握りしめて、意を決した顔で敷居をまたいだ。
「クレアねえちゃん。あのね」
「おかえりなさい、リル。市場のお使いは、もう済んだの?」
「まだ。でも、その前にどうしても言いたくて」
小さな手のひらがぱっと開かれた。汗でぬくもった銅貨が三枚のっている。指の跡がつくくらい、ずっと握っていたらしい。
「これで、二杯目ください」
声がうわずっている。私はすぐに手を出さず、その三枚をちゃんと見た。市場のお駄賃を少しずつ貯めたのだろう。飴でも玩具でもなく、スープに換えると決めた三枚だ。
「一杯目はおまけって言ったよね。だから、これは二杯目のぶん。わたし、もうおまけの子じゃなくて……ちゃんとお客さんになりたいの」
胸の奥がことりと鳴った。
おまけ。その言葉を、この子は自分でそう感じていた。私が親切のつもりで出した一杯が、この小さな人には半分だけの客の証だったのかもしれない。
「わかった。じゃあ、お客さんとしてちゃんと受け取ります」
私は銅貨を三枚、指先で数えて受け取った。まけたりはしない。それがこの子の望んだ扱いだから。
「窓際の席、どうぞ。今いちばん日が当たってあったかいので」
「わたし、そんないい席でいいの?」
「お客さんだもの。いい席をあたためて待つのが、うちの仕事」
リルは背筋を伸ばして、大人みたいに椅子へ腰かけた。足はまだ床に届かず、ぶらぶら揺れている。私は根菜のスープをよそって、湯気ごと目の前に置く。
ひと匙すくって、ふうふう冷まして口に運ぶ。目がまん丸になって、頬がゆるんだ。
「……あったかい。おいしい」
「でしょう」
半分ほど食べたところで、リルの匙が止まった。器の底をじっと見つめている。
「ねえ、クレアねえちゃん。これ、持って帰るのはだめ?」
「持って帰る?」
「お母さん、宿の洗い場の仕事で朝がすごく早いの。わたしが起きるころにはもういなくて。朝ごはん、いつも一人で冷たいパンかじってると思う」
匙を握る手に、少しだけ力がこもる。
「だから、あったかいの飲ませてあげたくて。でも器を持って帰ったら、返せなくなっちゃう?」
私はしばらく言葉を探した。三枚の銅貨と、朝の早い母親と冷たいパンの朝食。頭の中で、それがひとつにつながっていく。
「器はね、貸してあげる」
「貸して……いいの?」
「うん。蓋のできる器に入れて持って帰って、飲み終わったら、次に来るとき返しにおいで。返してくれるなら何度でも貸す。うちの、通い椀」
「かよいわん」
リルがその響きを口の中で転がした。
「うん。この通りの家とうちの店を、器が行ったり来たりするの。器が帰ってくるたび、あなたも帰ってくる」
私は棚の奥から蓋つきの古い器を出して、布で拭いた。バッソさんが物置に残していたものだ。縁が少し欠けているけれど、熱いスープを運ぶには十分。そこへ湯気の立つスープをなみなみとよそう。具はいつもより気持ち多めにしておいた。
根菜をすくうたび、器がずしりと重くなる。この重さのぶんだけ、洗い場で手を荒らしている誰かの朝が、少しあたたかくなればいい。会ったこともない人へ湯気を送るのは初めての心地だ。宛名のわからない手紙を、器に託して出すのに似ている。
蓋をきゅっと閉めると、湯気が中で行き場をなくして、木肌にうっすら露を結んだ。この露が消えないうちに届けば、まだ間に合う。
「はい、お母さんのぶん。冷めないうちに走れば、まだあったかいはず」
リルは両手で器を受け取り、宝物みたいに胸へ抱えた。
「ありがとう、クレアねえちゃん! あのね、お母さんの『いつもの』も書いといて!」
「お母さんの、いつもの?」
「うん。まだ会ったことないけど、うちのお母さんも、この店のお客さんにしてほしい」
私は覚え書きの壁に向き直り、炭を握った。ジオさん、ガロ爺、セラさん。並んだ行の下へ、まだ顔も知らない人の一行を書き足す。
——リルのお母さん。根菜のスープ、具多め、持ち帰り。
「これでお母さんも、うちのお客さん。会える日を、席をあたためて待ってます」
「……えへへ」
照れ笑いを浮かべて、リルは器を抱えたまま、そろそろと戸口へ向かう。走ればこぼれると気づいたのか、いつもの駆け足ではなく、抜き足差し足の妙な歩き方だ。その慎重な後ろ姿が、なんだか無性に愛おしい。
「こぼさないでね」
「うん! 明日、器は絶対返しにくる!」
戸の閉まる音はいつになく静かだった。こぼすまいとするゆっくりの足音が、坂を下りて遠ざかっていく。三枚の銅貨は私の手の中でまだほんのり温い。
おまけの子が今日お客さんになった。まだ顔も知らない母親の席まで、この店にひとつ増えている。器がひとつ通りへ出ていっただけで、店の空気はまた少し、家族のほうへ寄った気がする。
次話:「わしの席はまだか」




