第2話「固焼きは、浸してからが本番」
その音はパンが立てていい音ではなかった。
ニナちゃんが籠から出した丸パンを長机に置いたとたん、こつん、と木の実みたいな硬い音が鳴ったのだ。私は思わず竈の手を止める。
「……ニナちゃん。それ、パン?」
「パンだよ! 昨日の夜、頑張って焼いたやつ!」
胸を張った勢いのわりに、声の後半がしぼんでいる。摘まみ上げてみるとずっしり重い。指で押してもぜんぜん凹まない。表面はこんがりというより、こんがりを通り越して要塞みたいだ。
「これね、王都で流行ってるって旅の人が言ってた、ふわふわの菓子パンを真似しようとして……なんでか、こうなった」
「真似して、こう」
「そう。ふわふわを目指したのに、石になった!」
言い切って、ニナちゃんはがっくり長机に突っ伏した。金色の巻き毛が硬いパンの横でしょんぼり揺れている。この子が王都のパンに憧れているのは、今の一言で初めて知った。憧れの行き先がうちの店の机で石になっているのは、少し気の毒だけれど。
「親方には、見せた?」
「見せられるわけないでしょ、こんなの! 『素直にいつものを焼け』って怒鳴られるに決まってる」
私はもう一度、その石を手のひらで転がしてみる。焼き色は悪くない。匂いを嗅ぐと、小麦の香りはちゃんと立っている。硬いだけで腐ってはいない。腕が悪いのではなく、水と時間の配合を欲張ったせいだ。
——待って。硬いパン。冷めた石みたいなパン。前世で、これを主役にする食べ方があった気がする。
「ニナちゃん。これ、一個もらっていい?」
「え、食べるの? 歯が欠けるよ?」
「食べ方を、変えるだけ」
私は根菜のスープを深めの器によそって、その石を無造作にちぎり、湯気の中へ沈めた。木の匙で軽く押さえて、出汁を吸わせる。ニナちゃんが「あー、もったいない」と眉を寄せる横で私は数を数える。ひとつ、ふたつ、みっつ。
沈んだパンの表面から、細かな泡がじわりと立ちのぼる。乾いた気泡に熱い出汁が入れ替わっていく音だ。前世の店で覚えた光景がよみがえる。硬く焼いた古いパンに温かい汁を吸わせると、捨てるはずの一片が、いちばん贅沢な一皿に化ける。あの店ではそれを、寒い朝の常連にそっと出していた。
ちぎったパンを匙ですくうと、さっきまで石だったものが、ふっくらと出汁を含んで戻っていた。
「食べてみて」
「……食べるけど。まずかったら、クレアさんのせいだからね」
むくれた顔のまま、ニナちゃんが匙を口に運ぶ。噛む。動きが止まる。
「……あ、」
「でしょう」
「なにこれ、ふわふわだ! ちゃんとふわふわになってる! しかもスープの味がぜんぶ染みてる!」
突っ伏していた子が、椅子から立ち上がる勢いで身を乗り出してくる。硬く焼いたパンは、水分を弾く代わりに出汁を芯まで抱え込む。柔らかいパンではこうはいかない。表面でふやけて崩れてしまう。失敗の固さがそのまま取り柄に化けたのだ。
「固焼きはね、そのままかじるものじゃなくて、浸してからが本番なの。前世……えっと、昔いた店で、そう教わった」
「本番」
「うん。ニナちゃんのパンは、失敗じゃない。焼く腕はちゃんとある。あとは食べ方のほうを、こっちへ寄せればいいだけ」
ちょうど戸が迷いのない一押しで鳴った。
「……いつもの」
夜番あけのジオさんだ。私は器を掲げて見せる。
「おかえりなさい。ジオさん、ちょうどいいところに。新作の味見、お願いできます?」
ジオさんは無言で椅子を引き、いつもの根菜のスープと、その脇に置いた浸しパンを見比べた。固焼きのパンはもともとこの人の「いつもの」でもある。無言で匙を取り、ひと匙。二匙。器の底が見えるまで、手が止まらなかった。
「……うまい」
「二割増しでしょう?」
「三割だ」
無口な人の「三割」は、たぶん最大級の賛辞だ。ニナちゃんが「やった!」と両手を上げて、それから急にしゅんとなる。
「でも、これ、あたしの失敗作から生まれたやつだし……あたしの手柄じゃ、ないよね」
「何言ってるの。固く焼ける腕がなきゃ、このパンは作れないんだよ」
私は覚え書きの紙に、新しい品書きを一行足した。——浸しパン。ニナちゃんの固焼き、スープ添え。銅ソル二枚。
「隣で焼いて、うちで浸す。二軒がかりの一皿。これはもう、ニナちゃんのパン屋とうちの共同作なの」
「共同作……あたしと、クレアさんの」
その言葉がよほど気に入ったらしい。ニナちゃんは石だったパンをもうひとつ籠から出して、大事そうに机に並べた。
「じゃあ、明日からもっと硬く焼く! いちばん硬いの持ってくる!」
「ほどほどでね。歯が欠けたお客さんが出たら、共同で責任取ることになるから」
からから笑って、ニナちゃんは籠を抱えて隣へ帰っていく。開けっ放しの戸から、パン屋の竈の匂いとうちのスープの湯気が、坂下通りの真ん中で混ざり合う。二軒ぶんの香りが手をつなぐみたいで、私はしばらく戸口に立って、それを胸いっぱいに吸い込んだ。
王都のふわふわに憧れて石を焼いた子と、王都に置いてきたものだらけの私。向いている方角はまるで逆なのに、机の上で同じ一皿を囲っている。それがなんだかおかしくて、少し羨ましい。
窓際の日当たりのいい席を、私は布でひと拭きする。次に浸しパンを試しに来る誰かのために、席をあたためて空けておこう。石になったパンが一皿の主役になるくらいだから、この店では、しくじったものにもちゃんと座る場所がある。
次話:「二杯目は、ちゃんとお客さん」




