第1話「「いつもの」が、まだない人」
「いらっしゃい」と言ったきり、影は戸口で固まっていた。
入るでも帰るでもなく、濡れた敷居のところで立ち尽くしている。朝から降りだした雨が、坂下通りの土を黒く濡らしていた。旅装の肩から、しずくがぽたりと土間に落ちる。
うちの店は竈のおかげで、雨の日ほど内と外の境がはっきりする。戸一枚を隔てて、こちら側だけがぬくい。その温度差の中に、この人は半分だけ足を踏み入れて、残りの半分を外に置いたまま迷っている。
背には自分の背丈ほどもある行商の荷。麻布でくるんだ包みが雨を吸って、黒くふくらんでいる。あれを背負ってこの坂を上ってきたのかと思うと、それだけで喉の奥が痛くなった。
顔は若い。私と同じか、少し下か。前髪が額に貼りついて、その下の目が店の奥と私の顔を忙しなく行き来している。
——ああ、この目は知ってる。
値踏みされるのが怖い目だ。素性を聞かれる前に、自分から縮こまってしまう。半年前、荷馬車から捨てられた私も、たぶんこんな目をしていた。
だから、何も聞かないことにする。
「寒かったでしょう。そこの框に荷を下ろして、火のそばへどうぞ」
私が竈のほうへ顎をしゃくると、娘はやっと肩の紐をずらした。どさりと荷が落ちて、本人まで一緒に土間へ座り込みそうになる。あわてて腕を掴むと、袖の布が氷みたいに冷たい。
「……お代、いくらですか」
まだ何も出していないのに先に値段を聞く。財布の紐がいつも喉元にある人の癖だ。
「スープ一杯、銅ソル一枚。うちはそれだけ。パンを浸すなら、もう一枚」
「……一枚で」
律儀にきっかり一枚を握って差し出す手の、爪の先まで冷えている。私はその銅貨を受け取って、火にいちばん近い椅子を引いた。
「じゃあ、どうぞ。その席、いま火がよく回ってて、店でいちばんあったかいので」
根菜のスープを深めの器によそう。骨から取った出汁に、今朝は塩をひとつまみ多めにした。冷えた体には少し濃いくらいがちょうどいい。
湯気の立つ器を置くと、娘は両手で包み込むように持って、しばらく飲まずにいた。器の熱を手のひらに移しているのだと、その持ち方でわかる。冷えた指が温まるまで、スープは飲むものではなく、暖房なのだ。
やがて、そっと一口。根菜の甘みと骨の出汁が、たぶん今、冷えた体の芯まで下りていく。飲み込む音が小さく喉で鳴った。
「……あ」
肩がほどけた。
「おいしい、です。……こんな、あったかいの」
語尾が濡れて崩れそうになるのを、娘は下を向いてこらえた。私は気づかないふりで、竈の鍋をかき混ぜる。泣きそうな人の前で、こちらが顔を覗き込むのは無粋というものだ。
石臼の脇に残っていた珈琲を、小さな器に少しだけ注いで、そっと横に置いてやる。
「これはおまけ。眠気覚ましに、道中どうぞ」
娘の目がその黒い水面で止まった。
「……珈琲、ですか。うち……というか、父の荷にも、これ、あったんです」
「珈琲豆が?」
「はい。でも、どこで売れるのか、あたし、まだわからなくて」
娘の指が背後の荷をちらりと示す。父の得意先を、まだ一軒も継げていない——そう白状する声だった。
私は内心でそっと拳を握る。街道の行商から少しずつ買い集めるこの店の贅沢が、まさか向こうから戸を叩いてくるとは。けれど今ここで身を乗り出したら、この子はまた値踏みの目に戻ってしまう。
「なら、今度いらしたときに見せて。うちは細く長く、いい豆を探してるので」
「……いいん、ですか。あたしなんかの荷」
「豆に半人前も一人前もないですよ。挽いて、いい匂いがすれば、それが一人前」
娘は珈琲を一口すすって、今度はまっすぐに私を見た。
「セラって、いいます。父の……行商の道を、継いだばかりで」
「クレアです。この店の店主。ようこそ、ゆるり亭へ」
名を交わすと、店の空気がひとつ緩む。スープの湯気と珈琲の匂いが混じって、雨の匂いを隅へ押しやっていく。
セラさんは器の底までスープを飲み、パンを頼まなかったことを少し悔しそうにしてから、荷の紐を結び直した。立ち上がる背中は、入ってきたときより指の幅ぶんだけ伸びている。
「あの……また、来ても」
「もちろん。そのために店を開けてるので」
私は壁のほうへ歩いて、覚え書きの紙に炭を走らせた。ジオさんの行、ガロ爺の行の下に新しい一行を足す。
——セラさん。根菜のスープ、珈琲は薄めに。
「これ、なんですか」
「うちの覚え書き。お客さんの『いつもの』を書いておくんです。次いらしたときに、いちいち聞かなくて済むように」
「あたしの……『いつもの』」
その言葉を、セラさんは口の中で二度ころがした。まるで、生まれて一度も持ったことのない持ち物みたいに。
旅の道すがら、この人はきっとどこでも「通りすがりの誰か」だったのだろう。名も好みも覚えられることのない人。
「まだ薄めが合うかはわからないですけど。二度目からは、あなたの『いつもの』にしていきましょう」
「……はい」
声が湿ったまま笑った。
戸口で、セラさんが荷を背負い直す。半分だけ振り返って、言葉を探す顔をした。
「じゃあ、次は……」
「ええ。次は、おかえりなさいって言えますね」
その一言に、セラさんの目がまた潤みかけて、けれど今度はちゃんと笑いになった。がたり、と戸が鳴る。行きも帰りも遠慮がちだった音が、出ていくときだけ、ほんの少し軽い。
私は濡れた框を布で拭き、まだ火の近い椅子をもとの場所へ戻した。木の座面にはさっきまでの体温がうっすら残っている。次にこの子が来る日まで、この席をあたためておこう。「いつもの」を一行だけ預かった、まだ半人前のお客さんの席だ。
半年前の私も名前より先に一杯の湯気を差し出されていたら、あんなふうに肩をほどけただろうか。——なんて、益体もないことを考える。今は私が湯気を出す側にいる。それでもう、じゅうぶんだ。
鍋がことりと音を立てて、覚え書きの紙が一枚、また賑やかになっていた。
次話:「固焼きは、浸してからが本番」




