第0話「席、あたためて待ってます」
——なるほど。ここで野垂れ死ね、ということらしい。
王都から街道を10日。御者は霧の底みたいな町の外れに私を下ろすと、振り返りもせずに轍を戻っていく。荷が一つ軽くなった、くらいの背中だった。
公爵家の名も、婚約者の隣も、私に「いらない」と札をつけて。見送りに来た人は、ひとりもいない。
それなのに、だ。がらんと空いた胸の真ん中で、真っ先に顔を出したのは絶望ではなかった。
——お腹、すいたな。
我ながら呆れる。追放された令嬢の初仕事が空腹の自覚だなんて、物語なら三行で打ち切りだ。でも前世でも、私はいつもこうだった。しんどい日ほど、湯気の立つ器と、誰かの淹れた珈琲がほしくなる。
夕暮れの町は、名前のとおり霧に沈んでいる。石畳なんて上等なものはなくて、踏み固めただけの土の道。すれ違う人は誰も、みすぼらしい旅装の女に目を留めない。それがかえって、少しだけ息をしやすくさせた。
路地のいちばん奥に、板を打ちつけた空き家があった。もとは宿場の食堂だったらしい。埃をかぶった長机、煤けた竈、ひび割れた水甕。冷えきった竈に手をかざすと、指のほうが先に言った。——ここ、生き返るな。
前世の私が毎朝火を入れていた、あの小さな店の匂いがよみがえる。豆を挽く音。鍋の湯気。「おかえりなさい」と言うたびに、ほどけていく誰かの肩。
思えば私は、あの言葉を一度も言われたことがない。公爵家でも、婚約者の前でも。
だったら、言う側になればいい。
こみ上げてきたのは涙ではなくて、なぜだか、やってやろうという気分だった。
——よし。ここを、店にしよう。
——あれから、半年が過ぎた。
坂下通りのいちばん奥。「ゆるり亭」の看板は、家主のおじさんが古樽の蓋を削ってくれた板に、私が炭で店の名を書いたものだ。字はよれよれでも、掲げた朝はちょっと泣きそうになった。
最初のうちは、客なんてほとんど来なかった。手切れに持たされたなけなしの銀ソルは月ぎめの家賃と鍋ひとつに化けて、みるみる軽くなる。素性の知れない流れ者の店に、この町の人たちは慎重だったのだ。それでも一人、また一人。湯気につられるみたいに、戸を押す人が少しずつ増えていく。
朝は、席をあたためることから始まる。長机を布で拭き、窓際でいちばん日当たりのいい席に、まず自分が腰かけてみる。冷えていないか、ぐらついていないか。客が座る前に、店主が確かめる。人を招く前に、まず自分でその椅子に座ってみなさい——前世の店長の口癖を、世界がまるごと変わった今も律儀に守っている。
竈の上ではもう、スープの鍋が湯気を上げている。骨と根菜を昨夜からことこと煮て、今朝は塩ひとつまみで味を決める。窓が白く曇るころ、通りが寝ぼけまなこで目を覚ましはじめる。
鍋を弱火に落として、次は珈琲豆を挽く。街道の行商から少しずつ買い集めた、この店のいちばんの贅沢だ。ごりごりと石臼が鳴ると、香ばしい匂いが土のにおいを押しのけて、店の隅まで満ちていく。この香りを目印に戸を叩く客が、ちゃんといる。
がたり、と戸が鳴った。うちの戸は建て付けが悪くて、開けた人の性分がそのまま音になる。迷いのない、まっすぐな一押し。
「……いつもの」
ぶっきらぼうで低い声。警備隊のジオさんだ。夜番あけの目は赤くて、鎧の肩には霧の湿りがまだ残っている。
「おかえりなさい。奥の席、あたためてありますよ」
「……ああ」
この人は判で押したみたいに、決まった時間に来て、決まって同じものを頼む。理由は聞いていない。聞かなくたって、疲れた人がどこに座りたいかは、湯気を運べば分かるものだ。
スープの器を置くと、赤い目がほんの少しだけゆるんだ。
「……うまい」
「でしょう?」
短いやりとりだけれど、私はこれが存外きらいじゃない。誰かの「いつもの」を覚えていること。それを湯気ごと、そっと目の前に置けること。
壁には、客の「いつもの」を書きつけた覚え書きが貼ってある。ジオさんは根菜のスープと固焼きのパン。ガロ爺は具を多めにして、と必ず一言添える。名前より先に、その人の好きな一杯を覚えてしまう。それがいつのまにか、この店の流儀になっていた。
戸口の外で、からりと明るい声が転がってきた。
「クレアさーん! パン焼けたよ、今日のは会心の出来!」
隣のパン屋のニナちゃんが、籠を抱えて飛び込んでくる。まだ16の看板娘で、口も足も、この通りでいちばん速い。
「ちょうどよかった。スープのほうが待ちくたびれてたところ」
「あたしのパンにクレアさんのスープ。これ優勝の組み合わせじゃない?」
窓際では、船を下りて久しいガロ爺が触れ書きの紙をばさりと畳んだ。わしの席はまだか、と目で催促してくる。
「はいはい。ガロさんの席も、ちゃんとあっためてありますよ」
「口だけは達者になりおって」
悪態のわりに、皺だらけの顔はもう椅子を引いている。この爺さまは、私の素性を一度も聞かない。訳ありは訳ありのまま、腹が満ちればそれでいい——港町で長く生きた人の物差しは、王都のそれとはまるで違う。
戸の隙間から、小さな頭がひょいと覗いた。
「クレアねえちゃん、今日のスープ、なあに?」
近所の子のリルだ。親の使いで市場へ行く前に、匂いだけ嗅ぎに寄っていく。
「根菜だよ。冷めないうちに、帰りにおいで」
「やった。……でも、まだお金ちょっとしかない」
「一杯目はおまけ。二杯目からちゃんともらうから、心配しないの」
ぱっと笑って、小さな足音が霧のなかへ駆けていった。あの子のぶんの席も、いつか店のいちばんいい場所に据えてやりたい。
こうして坂下通りの朝が、少しずつ私の店に集まってくる。湯気を挟んで、二言三言。がらんとしていたはずの胸が、今はちゃんとあたたかい。
——おかえりって、私はまだ、誰にも言われたことがないけれど。
言う側の私がこんなに満たされてしまっているのだから、これはこれで上出来なのだと思う。
戸が、また鳴った。今度の音は遠慮がちで、半分だけ。
顔を上げると、戸口に見慣れない影がひとつ。旅装の裾は濡れて、肩は小さく強張っている。常連の誰でもない。この町に「いつもの」を、まだ持っていない人だ。
私は前掛けの裾で指先を拭って、いちばんあたたかい声を喉の奥から探す。
「いらっしゃい。——どうぞ、あなたの席へ」
次話:「『いつもの』が、まだない人」




