第30話「いってらっしゃい、も言える店」
王都の影が去って、坂下通りにいつもの朝が戻ってきた。
ジオさんが奥の席でいつものを。ガロ爺が窓際で具多めを。マーサさんの宿へも、また朝の鍋を納めはじめた。何も変わらない、あたたかい日常。——それがこんなにありがたいものだと、私は半年かけてやっと知った。
そう油断していた矢先だった。
昼過ぎ、バッソさんがめずらしくあらたまった顔で入ってきた。
「ねえさん。……折り入って、話がある」
框に腰を下ろして、バッソさんはぽつりぽつりと語りはじめた。
「わし、この町を、出ようと思う」
匙を持つ手が止まった。
「隣町の息子が、そろそろ一緒に暮らそうと言うてな。わしももう、いい歳だ。この坂道の上り下りも、そろそろこたえる。……女房の竈に、また火が入るのを見届けたら、あとは、息子のところで、のんびりやろうと思うとる」
寂しさが胸にじわりと滲む。この人は私にこの店を貸してくれた人だ。亡くなった奥さんの竈を託してくれた人。その人がこの通りからいなくなる。
でもバッソさんの顔は、思ったより晴れやかだった。
「そこでな、ねえさん。この店を——買わんか」
「え……?」
「わしがおらんようになったら、この建物、宙に浮く。人手に渡って、あんたが追い出されでもしたら、寝覚めが悪い。……だからな。あんたに、売りたいんだ。この、女房の食堂を」
私は言葉に詰まった。買う。この店を。私のものに。——考えたこともなかった。ここは借りものの店で、いつか出ていく仮の宿。心のどこかで、私はそう思いこんでいた。
その話を聞きつけて、常連たちが、わらわらと集まってきた。
「クレアさん、お金なら、あたしも出す!」とニナちゃん。
「わしの船の蓄えも、まだいくらか残っとる」とガロ爺。
「見物料の銅ソルも、けっこう貯まってますよ!」とトトさん。
みんなの気持ちが、あたたかくて、涙が出そうになる。でも私は首を横に振った。
「ありがとう。……でも、これは、私が、自分で払いたいの」
施しを受けるのは下手だ。昔から、そうだった。でも今度はそれだけじゃない。この店を自分のものにするなら、自分で稼いだ銅ソルで買いたかった。それが私の「根の張り方」だと思ったから。
バッソさんはにやりと笑った。
「そう言うと思うたわ。だから、こういうのはどうだ。——ギルドの立ち会いで、証文を作る。今のこの店の値を、月々、少しずつ。これまでの家賃と、そう変わらん額を、何年かかけて、わしの息子に払う。それで、この店は、あんたのものだ」
分割払いの、証文。月々、少しずつ。何年もかけて。——それはこの通りに深く、根を張るということだった。仮の宿じゃない。私の、店。私の、居場所。逃げも隠れもできない、地面に打ちこんだ一本の杭。
「……はい。買います。この店を、私に、ください」
声が震えた。バッソさんは大きな手で、私の頭をぽんと叩いた。
「よし、決まりだ。……女房も、喜ぶわ」
その同じ日の夕方、今度は、ニナちゃんが飛びこんできた。
顔が真っ赤だった。息を切らして、目をきらきらさせて。
「クレアさん! あたし、決まった! 王都の、お菓子屋さんの、年季奉公! お父ちゃんが、やっと、うんって言ってくれたの!」
王都で菓子修行。かねて夢だと言っていた、あの願い。それが叶ったのだ。
私は一瞬、言葉に詰まった。——さっき、私は「根を張る」と決めたばかりだ。この店を買って、この通りに留まると。その同じ日に、ニナちゃんはこの通りを出て、旅立っていく。
残る私と、出ていくニナちゃん。……でもそれはどっちも正しい。行きたい町と帰らない町。あの日、この子が、私に教えてくれたことだ。
それから数日後、ニナちゃんが旅立つ朝はよく晴れていた。
坂下通りの人たちが、みんな見送りに出てきた。ニナちゃんは大きな荷物を背負って、少し泣きべそをかいている。
「うう、行きたくなくなってきた……」
「なに言ってるの。あんなに、行きたがってたくせに」
「だって……クレアさんのスープ、しばらく、食べられない……」
私は笑った。それから、この半年で何百回と言ってきた言葉の裏返しを初めて口にする。
「おかえりなさい」の、対になる言葉を。
「——いってらっしゃい、ニナちゃん」
ニナちゃんの目がまん丸になった。
「あなたのお店は、いつでも、ここにあるから。新しいお菓子ができたら、いちばんに、食べさせて。……いってらっしゃい。気をつけて」
ニナちゃんはくしゃっと顔を歪めた。それから、大きな声で言った。
「……行ってきます! 絶対、絶対、帰ってくるから! あたしの帰る場所は、ここだからね!」
からりと明るい、いつものあの声で。ニナちゃんは坂道を駆けあがっていく。何度も振り返りながら。その小さな背中が、街道の霧の向こうに消えていくまで、私は手を振りつづけた。
私の頬を、あたたかいものが伝う。
「いってらっしゃい」も、言える店になった。「おかえりなさい」を言うだけじゃなく。送り出して、待つ。旅立つ人の背中に、ちゃんと手を振れる店に。
坂道の上で、朝の光が霧を金色に溶かしていく。ニナちゃんの消えた道の先に王都がある。あの子の夢の町。私の、帰らない町。同じ一本の道が今日はなぜだか少しもこわくなかった。
私は店に戻って、竈に火を入れた。買ったばかりの、私の店の竈に。今日も誰かの「おかえりなさい」のために。立ちのぼる湯気が、ふわりと私の頬をあたためた。
次話:エピローグ「おかえりなさい、店主」




