エピローグ「おかえりなさい、店主」
あの霧の日から、季節がいくつかめぐった。
坂下通りには変わったものと、変わらないものがある。バッソさんは隣町の息子のところへ移って、ときどき便りをよこす。ニナちゃんは王都で菓子の修行に励んでいる。——ゆるり亭は証文のとおり、月々少しずつ私のものになりつつあった。
私はといえば、月に一度、荷馬車便で王都へ上がる。兄さまの見舞いだ。長い眠りはまだ覚めない。それでも枕辺で店の近況をひとしきり話して、日暮れの便で霧が根へ戻る。行きたい町でも帰らない町でもなく、王都は今、見舞いに通う町になった。
変わらないのは朝の湯気。ジオさんの奥の席。ガロ爺の具多め。リルの日当たりのいい席。そして誰かに「おかえりなさい」と言う、この店の流儀。
その日、私は隣町へ仕入れに出ていた。
新しい鍋と、通い椀の器をいくつか。荷を背負って、街道をてくてく歩いて帰る。坂道を上って、通りの奥へ。——自分の店へ帰る。
考えてみれば、おかしなものだ。この町に捨てられた日の私は、帰る場所なんてどこにもなかった。荷馬車から、霧の底に放り出された女だった。それが今はこうして、「帰る」場所を持っている。背中の荷が重いほど、足取りがなぜだか軽い。
ゆるり亭の、建て付けの悪い戸に手をかける。いつもの、私の開け方で。
——がらり。
戸を開けた、その瞬間だった。
「おかえりなさい、店主!」
店じゅうの声がいっせいに私に降ってきた。
ジオさんが奥の席から。ガロ爺が窓際から。リルがお盆を抱えて。トトさんもマーサさんも、荷運びの人足たちも。みんな、私のほうを向いて待ち構えていた。満面の笑顔で。
……え。
私は戸口で立ちすくんだ。何が起きたのか、すぐにはわからない。おかえりなさい。その言葉が私に。私に向けて。
いつも私が言う側だった言葉。疲れて戻ってきた誰かに、あたたかい席と一杯を添えて差し出してきた言葉。——それが今、私に向かってみんなの声で返ってきている。
私はまだ、誰にも言われたことがなかった。公爵家でも婚約者の前でも。あの霧の日、私はたしかにそう思った。だから、言う側になればいい、と。
言う側でいれば、満たされると思っていた。それでじゅうぶんだと。——でも違った。「おかえりなさい」は、こんなにもあたたかい言葉だったのだ。言われて、やっとその重さを知る。胸の奥の、いちばん冷えていた場所が、その一言でじんわりと溶けていく。
「クレアねえちゃん!」リルが、飛びついてくる。「あのね、みんなで、練習してたの。前に、言い損ねたことがあったでしょ。だから、今日こそって。ガロじいちゃんが、『仕入れの帰りを待ち伏せろ』って」
「この日を、ねらってたんですよ」とトトさん。
いつか、みんなで「おかえり」を言おうとして段取りが崩れ、誰も言えなかった朝があった。リルだけが言いかけて、舌を噛んだ。——あの、言い損ねた朝のやり直しだったのだ。
「でも、よく、今日だってわかったね」私は、涙をこらえながら訊いた。
「戸の音だ」奥の席で、ジオさんが、ぼそりと言った。「あんたが戸を押す音は、もう、この通りのみんなが覚えてる。迷いのない、まっすぐな一押しだ。その音がしたら、いっせいに、と決めてた」
戸の音。開けた人の性分が音になる。私はいつもその音で、客の性分を読んできた。ジオさんの一押し。セラさんの半分。ニナちゃんのからり。——なのに、いつのまにか、私の音もこの人たちに読まれていたらしい。
読む側だった私が、読まれる側になっていた。読まれるのは心もとないことだと、ずっと身構えてきたのに。誰かに読まれて待たれるのは、こんなにもうれしいことだったのだ。
私はこらえきれずに、笑って、泣いた。
泣き笑い、というやつを、生まれて初めてした。目からは涙がこぼれて。口元は勝手に笑ってしまって。しょっぱいのか、あまいのか。自分でもよくわからない。頬を伝うものがじんわりとあたたかかった。
とそのときだった。
もう一度、戸が鳴った。今度は——からりと明るい、あの、聞き慣れた音で。
「ただいまー! ……って、あれ? なんで、みんな泣いてるの?」
ニナちゃんだった。王都から修行の合間に帰ってきたのだ。大きな荷物と、見慣れない包みを抱えて。きょとんとした顔で戸口に立っている。
「ニナちゃん……!」
「へへ。新作のお菓子、持ってきたよ。クレアさんのスープに合うかどうか、味見して。……ただいま、クレアさん」
私は涙を拭いて、笑った。言う側の言葉と言われる側の言葉が、今この店で、ひとつに溶け合っている。
「——おかえりなさい、ニナちゃん」
その夜、みんなが帰ったあと。私はふと壁の覚え書きを見上げた。
二枚目の、バッソさんが削ってくれた板。そのいちばん上に、見慣れない字が一行だけ増えている。よれよれの、まだ幼いリルの字だった。
——「クレアさんの いつもの」。
その下に、小さく、こう書いてある。「みんなで、おかえりって、言うこと」。
私はしばらく、その字を見つめていた。
私にも「いつもの」ができた。この店でいちばん最後に。みんなが覚えてくれた、私の「いつもの」。
窓の外では坂下通りが、いつもの夕暮れに沈んでいく。竈では明日のためのスープが、ことこと湯気を立てている。
「おかえりなさい」と言ってみたかった私は、いつのまにか、「おかえりなさい」と言ってもらえる私に、なっていた。
——ただいま。心のなかで、そっと返してみる。誰もいない店に、湯気だけがやさしくこたえてくれた。




