第29話「うちの店主に何の用だ」
その朝、うちの戸は鳴りやまなかった。
迷いのない一押し。遠慮がちな半分。からりと明るい音。ためらいがちな重い音。——ひとつ、またひとつ。開けた人の性分が、次から次へと店に転がりこんでくる。
朝から、ゆるり亭は満席だった。
ジオさんが奥の席に。ガロ爺が窓際に。リルはお盆を抱えて、給仕見習い。ニナちゃんは新作の菓子を山ほど積んで。トトさんも荷運びの人足たちも、誰かが誰かを呼んでこの小さな店にぎゅうぎゅうに詰めかけている。
そして、その一角に——マーサさんがいた。
あの、仕出しの鍋を切りに来た人が。「行ってくれたほうが」と言った人が。今日はいちばん奥まった席で決まり悪そうに、それでもしっかりと腰を据えている。
目が合うと、マーサさんはぽつりと言った。
「……店主さん。この前は、ごめんなさいね。わたし、算盤ばかり弾いて。……でも、ゆうべ、寝ながら考えたの。わたしが守りたい暖簾って、いったい、なんだったのかしらって」
「マーサさん」
「奉公人の暮らしを守るのも、暖簾。でも、まっとうな店主が、まっとうに追い出されるのを黙って見てる宿場も、いやなの。だから、来たわ。……朝の鍋、また、頼んでもいい?」
私はぐっと喉の奥が熱くなった。でも泣かない。今日は泣いてる場合じゃない。私は笑って、うなずいた。
「はい。……よろこんで。明日から、また」
昼過ぎ、戸の外がざわりとした。
供を従えたユリウス殿下。その後ろにベルントさん。最後の返事を取りに来たのだ。
殿下は戸を開けようとして——手を止めた。店のなかを見て、目を見張っている。
満席だった。座る隙間なんてどこにもない。長机も框も窓際も。この通りの人間でみっちり埋まっている。誰も殿下のために席を空けようとしない。
暴れる者はひとりもいなかった。怒鳴る者もいない。ただ、席がひとつも空いていない。その静かな満席が、殿下の行く手をぴたりと塞いでいた。
その静けさのなか、窓際から濁声が響いた。
ガロ爺だった。触れ書きを畳んで、ゆっくりと立ち上がる。皺だらけの顔で、まっすぐ殿下を見据えた。
「——うちの店主に、何の用だ」
店じゅうがしん、と静まる。
「見てのとおり、満席でな。あんたの席は、ねえ。この店の席は、みんな、うちの店主が、あたためて待った客のもんだ。悪いが、王都のお方にお出しできる席は、一つもねえよ」
私は前掛けで手を拭いて、殿下の前に進み出た。
みんなが守ってくれた。法で連判で満席で。——でも最後の返事だけは、私自身の言葉で言わなきゃいけない。それが私の答えのけじめだから。
「殿下。わざわざ、ここまで。……お返事を、いたします」
殿下は黙って、私を見た。
兄の顔を見てから考える、とあの日は言った。ずるい返事だと自分でも思いながら。——でも答えのほうが先に出てしまった。ニナちゃんと話した朝に。父への手紙を書いた夜に。見舞いにはこれから行く。それでもこの答えはもう揺れない。
「復籍のお話、ありがたく思います。兄の見舞いには、必ず参ります。——でも、王都へは、戻りません」
「……理由を、聞かせてもらえるか」
私は店のなかをぐるりと見渡した。満席の、あたたかい顔ぶれを。それから、まっすぐ殿下に向き直る。
「私はここで、『おかえりなさい』を言う側なんです。毎朝、この人たちに。疲れて帰ってきた誰かに、あたたかい席と、一杯のスープを差し出す。……それが、私の居場所です。王都の広間には、その席は、ないんです」
殿下はしばらく、何も言わなかった。それから、まとっていた王子の顔を下ろすようにふっと笑う。今まで見たことのない、素の笑みだった。
「……一杯、もらえるか。その、店主の一杯を」
「はい。……どうぞ、こちらへ」
私は自分の休憩用の椅子を出して、殿下に勧めた。満席の店の、たった一つの間に合わせの席。殿下はそれに素直に腰を下ろす。王都の第二王子が、坂の下の食堂の粗末な木の椅子に。
私は根菜のスープをよそった。塩をひとつまみ、多めに。いつもの、この店の味を。
殿下は匙を取って、ゆっくりと飲んだ。一口、二口。三口目でその手が止まる。
「……ああ。……そうか。これが、お前の選んだ、味か」
殿下の声は静かだった。負けを認める人の、静かな声だった。
「わかった。もう、何も言うまい。……達者で、な。クレア」
殿下の後ろで、ベルントさんが帳面を開いた。羽根ペンを走らせて、一行、書きつける。それから私に、その紙をちらりと見せた。
——「クレア・ド・ウェルズ、復籍を、本人辞退」。
「これで、台帳は綺麗に閉じます」ベルントさんは、いつもの、癖のない声で言った。「本人の意思のある一行は、決して綻びません。……よい店を、お持ちだ。ご店主」
音のしないあの人が、その日はじめて、ほんの少しあたたかい声を出した気がした。
殿下たちが帰っていくと、満席の店にわあっと歓声があがった。
誰かが笑う。誰かが肩を叩き合う。ニナちゃんが新作の菓子を配り、リルが得意げにお盆を運ぶ。ガロ爺は「わしの口上、決まっとったろう」と鼻高々だ。
私はその真ん中で、湯気の立つ鍋をぎゅっと握りしめた。守ってくれたみんなに、今日はうんとあたたかい一杯を返そう。——たった一つ空いていた休憩用の椅子も、もう、片づけてしまっていい。この店にはあたためて待つ席が、こんなにもたくさんあるのだから。
次話:「いってらっしゃい、も言える店」




