第28話「最高の一杯で、追い返せ」
王都の殿下が近いうちに、私の「最後の返事」を取りに来る。
その噂はあっという間に坂下通りを駆けめぐった。そして次の日の夕方、店じまいのはずのゆるり亭に、なぜか常連がぞろぞろ集まってくる。誰が呼んだわけでもないのに。
ニナちゃん。ガロ爺。リル。バッソさん。トトさん。荷運びの人足たち。長机を囲んで、みんなやけに真剣な顔をしている。
「よし、作戦会議だ!」
いちばん張りきっているのは、もちろんニナちゃんだった。
「え、なんの?」
「決まってるでしょ。王都のお偉いさんを、追い返す作戦!」
「追い返す」と聞いて、私はぎょっとした。まさか、腕ずくで、なんて。この通りには気の荒い人足も多い。
「だ、だめだよ、乱暴なことは。相手は王都の——」
「たわけ」ガロ爺が濁声で遮る。「誰が殴るなんぞ言った。わしらの武器は、拳じゃねえ。この店の、一杯よ」
「一杯……?」
「そうよ。王都のお貴族さまに、たらふく食わせて、ぐうの音も出んほど、うまいもんを出してやる。『こんな店の主を、連れて帰れるか』と、相手に思わせりゃいい。——最高の一杯で、追い返すんだ」
なるほど、と私は目を丸くした。そういう「追い返し方」なら、この店にもできる。
そこからはもう、収拾がつかなかった。
ニナちゃんは「あたし、王都に負けない新作のお菓子を焼く!」と宣言して、腕まくりをする。「クレアさんのスープに合う、とっておきのやつ。今夜、寝ないで試作するから!」
ガロ爺は具多めの持論を、滔々とぶちはじめた。
「ええか。うまいスープはな、具の数じゃねえ。具の"入れどき"よ。根菜は、煮えばなに入れて、火を止める直前にもう一度……」
「ガロ爺、それ、私の店の秘密なんだけど」
「なに、王都のやつに、うまさで勝つためだ。出し惜しみするな」
リルはリルで大まじめだった。
「わたし、お給仕する! こう、お盆を持って、『いらっしゃいませ』って。……クレアねえちゃん、教えて!」
「ふふ、いいよ。じゃあ、まずは、お盆の持ち方から」
人足たちは袖をまくって、店じゅうの大掃除を始めた。長机を磨き、竈の煤を払い、窓を拭く。半年ぶんの煤けた店が、みるみるこざっぱりしていった。
私はその真ん中で、少し呆然としていた。
みんな、私のために。誰に頼まれたわけでもなく。この通りの人たちは王都の圧力に、拳や怒鳴り声じゃなく、一杯のスープと笑い声で立ち向かおうとしている。
掃除の途中で、トトさんが、壁の覚え書きを見上げて言った。
「うわ、この壁、もう、書くとこ、ないですね」
言われて、私も改めて壁を見た。この半年で増えた、たくさんの「いつもの」。よれよれの炭の字が板いっぱいにぎっしり並んで、もう書き足す隙間なんてどこにもない。
そこへ、バッソさんが、何かを抱えて入ってきた。
「ねえさん。これ、使え」
どん、と長机に置かれたのは一枚の板だった。古い樽の蓋を削った、あの看板と同じ木肌の。
「看板を作ったときの、余りの樽よ。二枚目だ。覚え書きが増えて困っとるんだろうと思ってな、削ってきた」
「バッソさん……」
「言っとくが、家賃は負けんぞ。これは、ただの、削りかけの板だ」
ぶっきらぼうに言って、バッソさんはそっぽを向いた。その照れ隠しがなんだかおかしくて、あたたかい。
その板を壁にかけていると、戸がためらいがちに半分開いた。
みんなが振り返る。戸口に立っていたのは——大柄な、峠の荷馬車曳きだった。泥のはねた外套。節くれだった手。あの、施しだと怒って浸しパンを押し返していった、ドマさんだ。
店がしんとなる。
ドマさんはばつが悪そうに、それでも、まっすぐ長机に歩いてきた。そして銅ソルを一枚、こつんと置く。
「……一杯、くれ。頼んだぶんの、銅ソルだ。おまけは、いらねえ」
私ははっとした。あの日、この人が叩きつけていったのと同じ払い方。でも今日のこれは怒りじゃない。対等の客の、まっすぐな注文だった。
「はい。……根菜のスープ、一杯。すぐにお持ちします」
私はおまけをつけなかった。具もふつうに。頼まれたぶんだけ、きっちりと。それがこの人へのいちばんの敬意だと思えたから。
ドマさんは黙って、スープを飲んだ。飲み終えて、器を置いて、ぼそりと言う。
「……うまいな。施しじゃねえ飯は、こんなにうまいのか」
そう言ってドマさんは、銅ソルきっちりのぶんだけ食べて帰っていった。でもその背中はあの日よりずっと軽そうに見えた。
その夜、ゆるり亭は、遅くまで灯りがついていた。
ニナちゃんは竈を借りて、新作の菓子と格闘している。リルはお盆を持って、「いらっしゃいませ」の練習。ガロ爺は具の入れどきを、まだ誰かに講釈していた。バッソさんの二枚目の板は、壁で削りたての白い木肌を光らせている。
私は湯気の立つ鍋の前でくすりと笑った。
王都の殿下は明日、最後の返事を取りに来る。——でもこわくなかった。この店には最高の一杯がある。それを、みんなであたためて待っている。追い返すつもりの、いちばんあたたかい一杯を。
次話:「うちの店主に何の用だ」




