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「おかえり」って言ってみたかったんです——追放された悪役令嬢の辺境カフェ  作者: 夜凪 蒼


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第27話「会いには行く、戻りはしない」

答えを、出さなきゃいけなかった。


 通りが守ってくれた。ジオさんの法がガロ爺の連判が、ベルントさんの一言が。おかげで私は脅されて頷く必要はなくなった。——でもそれはつまり、こういうことだ。もう、誰のせいにもできない。戻るか、戻らないか。私は自分の意思で、自分の言葉で、答えを出さなきゃいけない。


 店を閉めたあとの長机に、私は一枚の紙を広げた。ざらりとした、上等じゃない紙。珈琲の染みのついた古い羽根ペンを握る。


 宛先は父。ド・ウェルズ公爵。私を切り捨てて、今になって、血の器として呼び戻そうとしている人。


 最初の一行がなかなか書けなかった。


 「父上」と書きかけて、やめた。「公爵閣下」と書きかけて、それも違う気がする。私はこの人に、娘として書くべきなのか。それとも、勘当された平民として書くべきなのか。


 迷った末に、私は宛名だけを書いた。飾りのない、ただの名前を。それから、思っていることをそのまま言葉にしていく。


 ——兄の見舞いには参ります。


 あの人が目を覚まさないと聞いて、胸が痛まなかったと言えば、嘘になります。私を鞍に乗せて庭を駆けてくれた兄を、この目で一度、見たいのです。だから、会いには行きます。


 ——けれど、戻りはしません。


 私はもう、公爵家の娘ではありません。その名はあの霧の日に、街道へ置いてきました。私が今、生きているのは、辺境の小さな食堂です。毎朝、火を入れてスープを煮て、誰かに「おかえりなさい」と言う。それが私の暮らしで、私の、居場所です。


 会いに行くことと、戻ることは違います。私は会いには行く。でも帰るのはあの家じゃない。——この、坂の下の店に帰るのです。


 書き終えて、私は羽根ペンを置いた。


 この手紙に、返事は来ないだろう。あの人は都合の悪い娘の言葉を、几帳面に無視できる人だ。それでも書いてよかったと思う。誰かに許してもらうためじゃない。自分が自分の足で立っていることをたしかめるために。


 私は手紙を丁寧に畳んだ。王都に着いたら、兄の枕元へは行く。でも父の顔を見に、あの屋敷の大広間をくぐる気には、どうしてもなれなかった。この紙きれ一枚、届けてもらえば、それでいい。父と私のあいだには、もう、それで足りる。


 畳んだ紙を胸に押しあてると、羽根ペンの珈琲の匂いがふわりと立った。王都の香水の匂いじゃない。私が半年かけて、この手に沁みこませてきた匂いだ。——これでいい。私はもう、あの広間の娘じゃない。


 その夜、店の灯を落とす前に、ジオさんがひとりで訪ねてきた。


 昼間の、隊の装いじゃない。いつもの、夜番あけの気配。奥の席に腰を下ろして、しばらく、何も言わなかった。私も何も聞かなかった。


 やがて、ジオさんがぽつりと言う。


「……答えは、出たのか」


「はい。兄の見舞いには、行きます。でも、戻りません」


 ジオさんはうなずいた。引き止めなかった。「行くな」とも、「残れ」とも言わない。この人は決して、私の選択に手を出さない。それがこの人の優しさの形だ。


 ジオさんは空になった器のふちを指でなぞって、こう言った。


「王都へ見舞いに行くなら、道中、気をつけろ。それだけだ」


 それから、少し間を置いて。


「——戻ってこい、とは言わん。あんたの好きにすればいい。だが、ひとつだけ、覚えておけ。あんたが王都から帰ってきたとき。この店の、あんたの席は、ちゃんとあたためて、待ってる」


 あんたの席もここにある。


 そう言われた瞬間、目の奥がじんと熱くなった。


 私はいつも誰かの席をあたためる側だった。ジオさんの奥の席。ガロ爺の窓際。リルの日当たりのいい席。みんなの席を、私があたためて待つ側だった。——なのに、この人は今、私の席をあたためて待つと言った。


 私に帰る席がある。この店に。この通りに。


 こらえきれずに、一粒、こぼれた。長机に落ちて、ざらりとした紙に小さな染みを作る。それはさっき書いた手紙のインクの染みとよく似ていた。


「……悪い。また、泣かせたか」


「いいえ。……これは、うれしい涙です。今の私は、ちゃんと、区別がつきますから」


 ジオさんは困ったように、それでも逃げずに、私が泣きやむまで奥の席にいてくれた。竈の残り火がぱちりと爆ぜる。その小さな音だけが、しんとした店にときおり響く。


 涙はしょっぱかった。スープの塩とはまるで違うしょっぱさだ。この半年、人の一杯の塩加減ばかり気にして、自分の涙の味なんてすっかり忘れていた。うれしくて泣くという、その味を。


 やがてジオさんが帰ったあと、私は、あたたかいままの奥の席にそっと手を置いた。


 殿下はきっともう一度この店に来る。あの人への返事をきちんと済ませてから——王都へ発とう。兄の見舞いに。そして必ず帰ってくる。この奥の席がまだあたたかいうちに。


 竈の残り火にそっと手をかざす。その熱が指先から、じんわりと胸まで昇ってくる。王都で何もかも剥がされたはずの私の手のなかに、いつのまにか、こんなにあたたかいものが残っていた。


次話:「最高の一杯で、追い返せ」

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