第26話「ここの法は、ここにある」
朝いちばん、私は覚悟を決めて、竈の前に立った。
常連が揃ったところで告げるつもりだった。店を畳みます、と。ゆうべ半分だけかぶせた灰を払って、火を入れる。——たぶん、これが最後に入れる火だ。そう思うと、薪をくべる手がやけに重かった。
けれど、その朝は、私が口を開くより先に店のほうが動いた。
まず、ジオさんが来た。
いつもの夜番あけの私服じゃない。警備隊の、きちんとした装いだった。腰に剣を佩き、肩に隊の徽章をつけている。奥の席には座らず、ジオさんは框の前に立って、まっすぐ私を見た。
「クレア。ゆうべ、隊に届けが出た。この店への立ち退き要求について、だ」
「ジオさん、それは……」
「聞け」
ジオさんの声は店で聞くいつものぶっきらぼうとは違っていた。もっと硬い、職務の声だ。
「霧が根は、宿場だ。宿場には宿場の法がある。街道を行き来する者の商いを、正当な理由なく妨げちゃならん。公爵家の使いが回している立ち退き要求は、宿場法に照らして、営業妨害にあたる」
「でも、相手は、王都の……」
「王都の貴族だろうが、ここじゃ関係ない。ここの法は、王都じゃなく、ここにある。俺は辺境警備隊士として、この店の商いを妨げる者を、法に基づいて止める。それが、俺の職務だ」
その言葉を聞いて、私はあの夕暮れの告白を思い出した。王都の広間で剣を持ちながら、証もない断罪を黙って見ているしかなかった、と。番犬のくせに何もできなかった、と。
——だからせめて、ここでは。
この人は今、あのとき守れなかったものを守り直そうとしている。同じ剣で同じ職務で。今度は間に合うように。
昼までに通りが動いた。
音頭を取ったのはガロ爺だった。触れ書きの代筆で顔の利くこの人が、一枚の紙を持って、坂下通りを一軒ずつ回ったのだ。
「聞け。ゆるり亭の店主を、この通りから追い出させやせん。異存のねえもんは、ここに名を書け。字の書けんもんは、わしが代わりに書いてやる」
夕方、ガロ爺が店に持ってきた紙には、びっしりと名前が並んでいた。バッソさん。ニナちゃんと親方。トトさん。荷運びの人足たち。名前の書けない人の分は、ガロ爺の手で、屋号と拇印が添えてある。連判状、というやつだ。
「これを、商業ギルドに出す。『霧が根の店主は、この通りが請け合う』とな。ギルドは加入者を守る決まりだ。通りぜんたいが後ろ盾になりゃ、王都の家宰も、そう簡単にゃ手を出せん」
窓際の、いちばん明るい席から。濁声が店に低く響いた。私はその連判状を両手で受け取る。名前の重さで、紙がずしりと沈んで感じられた。
その夜、音もなく、戸が開いた。
ベルントさんだった。あの、性分を読ませない人。この前と同じ癖のない足取りで私の前に立つ。
「ご店主。ひとつ、お伝えしておきます」
ベルントさんは帳面を繰るような口調で言った。
「あなたの復籍願は、家長の署名も、ユリウス殿下の親書も揃っている。けれど、肝心のものが欠けています。——あなた自身の、署名です」
「私の……」
「貴籍台帳の書き換えは、国王陛下の裁可を要します。そして裁可には、本人の署名がいる。あなたが署名しないかぎり、この復籍は、台帳の上では、永久に成立しません。強いても、台帳が受けつけないのです」
私はその意味をゆっくりと飲みこんだ。
つまり——私が首を縦に振らないかぎり、誰も、私を公爵令嬢に戻せない。王命でも家長の宣言でも殿下の親書でも。最後の一署だけは、この手が握っている。
「勘違いなさいませんように。私は、あなたに味方しているのではありません。ただ、間違った台帳を作りたくないだけです。本人の意思のない一行は、いずれ必ず、あとで綻ぶ。台帳は、そういうものを、いちばん嫌う」
ベルントさんはそれだけ言って、頭を下げた。私は思わず尋ねる。
「そのことを……殿下には」
「申し上げました。『本人の署名なき復籍は、台帳上、不成立にございます』と。……面白くなさそうな、お顔でしたよ」
ほんのかすかに、ベルントさんの口の端が動いた気がした。笑ったのかもしれない。読ませない人の、たった一度の、読める瞬間だった。
戸が音もなく閉じて、店に、また私ひとりが残される。
朝、私は店を畳むつもりでいた。それがみんなのためだと思いこんでいた。——でも通りは畳ませてはくれない。ジオさんの法。ガロ爺の連判。ベルントさんの一言。それが消えかけた私の火を、囲うように守ってくれた。
竈では朝に入れた火が、まだ赤々と燃えている。最後のつもりで入れた火が、消えないまま、夜まで生き延びていた。
私はその火に、そっと薪を一本、足す。——灯りの消し方なんて、やっぱり、覚えなくていいのかもしれない。
次話:「会いには行く、戻りはしない」




