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「おかえり」って言ってみたかったんです——追放された悪役令嬢の辺境カフェ  作者: 夜凪 蒼


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第25話「灯りの消し方なんて、知らない」

殿下が去ってから、数日。店の周りで、少しずつ、歯車が軋みはじめた。


 最初は仕入れだった。いつも野菜を回してくれる近隣の農家が、今朝は荷を持ってこなかった。使いの子がばつの悪そうな顔で断りを告げにくる。


「あの……うちの親父が、しばらく、ゆるり亭さんへの卸しは控えろって」


「……どうして?」


「わかんない。でも、上のほうから、なんか言われたみたいで。ごめんなさい」


 子どもは頭を下げて、逃げるように坂を駆け上っていった。上のほう。その言葉に、いやな予感が背筋を這う。


 昼過ぎ、家主のバッソさんが、めずらしく重い足取りでやってきた。いつもの遠慮のない一押しじゃない。戸がためらうように半端に開く。


「ねえさん。……妙な話が、回ってきとる」


 バッソさんは框に腰を下ろして、しばらく言い淀んだ。


「王都の、公爵家の使いを名乗る男が、宿場の寄合に来た。『あの店子を、坂下から立ち退かせろ』とな。そうすれば、この宿場に王都との商いの便宜をはかる、と。……逆らえば、街道の通行札でいやがらせもできる、と匂わせて帰りよった」


「そんな……」


「ギルドの寄合でも、同じ話が出とるらしい。あんたを庇えば、通りぜんたいが割を食う。そういう筋書きを、あの家宰、こしらえて回っとるんだ」


 バッソさんは「わしは負けんがな」と言い残して帰っていった。けれど、その背中は、いつもより一回り小さく見えた。


 王都は正面から私を連れ戻せない。強いる法がないことを、あの人たちは知っている。だから搦め手に回った。私じゃなく、私の周りを締めあげる。この通りを人質に取れば、私が自分から出ていくとわかっているのだ。


 賢いやり方だと思う。そして、いちばん、効くやり方だった。私は自分のためなら、いくらでも踏ん張れる。でも誰かの暮らしを盾にされたら——読む力なんて、なんの役にも立たない。


 その夕方、宿のマーサさんが久しぶりに戸を押した。あの、仕出しの鍋を切りに来た日以来だ。マーサさんは前と同じにやわらかい物腰で、前と同じに、目のどこかがもう決まっていた。


「店主さん。こんなこと、言いたくないの。ほんとうに」


「……マーサさん」


「でもね。うちの宿に、王都のお方が長逗留してる。あの人たちを怒らせるわけには、いかないの。宿場ぜんたいが、あなた一人のことでにらまれてる。……悪いけど、町のためには、あなたが行ってくれたほうが」


 行ってくれたほうが。


 その一言は悪意よりもよほど重かった。マーサさんは町を守ろうとしているだけだ。奉公人の暮らしを宿の暖簾を。私がその全部の重石になっている。


 その夜、私は誰もいない店で、ひとり框に座りこんだ。


 私がここにいるだけで、通りのみんなが割を食う。バッソさんがギルドがマーサさんの宿が。私が「おかえりなさい」と言うたびに、誰かの暮らしが、王都ににらまれていく。


 ——だったら。


 私がいなくなればいい。


 店を畳んで、この通りを出ていけば、王都の圧力は消える。バッソさんもマーサさんの宿も、リルの母さんの暮らしも。みんな、元どおりになれる。それがいちばん、みんなのためになるのだ。そうだ。それがいちばん——。


 壁の覚え書きが闇のなかでうっすら白い。ジオさん。ガロ爺。セラさん。リルの母さん。レフさん。トトさん。半年かけて、私がひとつずつ覚えてきた「いつもの」。この人たちの朝の一杯を、私は誰よりよく知っている。その私がこの人たちの暮らしを危うくしている。


 皮肉なものだ。誰かの居場所になりたくて始めた店が、今では、みんなの平穏の邪魔になっている。だったら、身を引くのが筋だ。それがいちばん、うつくしい店じまいの仕方に思えた。


 ——ほんとうに?


 胸のいちばん奥で小さな声がした。私はその声に蓋をする。今は聞かないふりをするしかなかった。


 私は竈の火を落とそうとした。


 毎晩やっていることのはずだった。灰をかぶせて、火を落として、灯りを消す。——なのにその手が動かない。


 この半年、私は火を「入れる」ことばかりしてきた。冷えた竈に薪をくべ、鍋をあたため、灯をともす。席をあたためて、人を待つ。あたためること。灯すこと。覚えたのはそれだけだった。


 だから、知らなかったのだ。灯りの、消し方を。ほんとうに消してしまう、その手つきを。


 店じまいの火の落とし方と、店を畳む火の落とし方はまるで違う。ゆうべまでのそれは「また明日」の火の落とし方だった。でも今夜のこれは、二度と灯さないための——。


 私は火かき棒を握ったまま、竈の前にうずくまる。冷えていく土間の匂いのなかで、消えかけの残り火だけが、じりじりと私の頬をあぶった。


 結局その夜、私は火を落としきれなかった。灰を半分だけかぶせて、残り火を小さく生かしたまま、小部屋へ引きあげる。


 明日、みんなに告げよう。店を畳みます、と。——決めたはずなのに、竈の底でちろちろと消え残った火が、なぜだか私を責めているみたいだった。


次話:「ここの法は、ここにある」

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