第24話「行きたい町と、帰らない町」
その書状を、私はとうとう、棚の奥から出してしまった。
店を閉めたあとの、誰もいない時間。竈の残り火だけが、土間を赤く照らしている。私は封蝋を割って、上等な紙を広げた。
父の筆だった。忘れるはずもない、あの角ばった、几帳面な字。
書いてあることは、ぜんぶ家のことだった。ド・ウェルズの直系はもはや一人。家名を継ぐべき義務。速やかな復籍を望む——。並んだ言葉のどこにも、「娘」という文字はない。「クレア」の名すら、ほとんど出てこなかった。必要とされているのは私じゃない。私の血と私の名前だ。
わかっていた。わかっていたのに、胸の奥がことりと鳴る。
——生まれて初めて、あの家が、私を「必要だ」と言っている。
切り捨てられた日、私はこの世でいちばん、いらない人間だった。見送りに来る人さえいなかった。その私を、今になって家が呼んでいる。たとえそれが血の器としてでも。必要とされることが、こんなにも心をぐらつかせるなんて、思ってもみなかった。
紙のいちばん下、署名の脇に、インクの滲んだあとが一か所だけあった。書き損じを指でこすったのかもしれない。それとも——考えかけて、私は首を振る。深読みは私の悪い癖だ。父の心なんて、この紙からは、何ひとつ読み取れやしない。
翌朝、ニナちゃんがパンを届けにきた。私の顔を見るなり、籠を置いて腕を組む。
「クレアさん、なんか、変」
「そう?」
「うん。ゆうべ泣いた顔してる。……ううん、泣けなくて、泣かなかった顔」
この子は時々、ぎょっとするほど鋭い。私は笑ってごまかそうとして、うまくいかなかった。
迷った末に、私はニナちゃんに少しだけ話した。王都から人が来たこと。家が私を呼び戻そうとしていること。全部は言えない。でも隠しきるにはこの子は近すぎた。
ニナちゃんはじっと聞いていた。それから、思いがけないことを言う。
「いいなあ」
「……え?」
「だって、王都でしょ。あたし、いっぺんでいいから行ってみたいもん。きらきらしてて、お菓子屋さんがいっぱいあって。……クレアさんは、そこに帰れるんだ」
私は思わずむっとした。
「きらきらなんて、してない。あそこは、笑いながら人を切り捨てる場所だよ。私は、あそこで——」
言いかけて、口をつぐんだ。ニナちゃんの目が、まっすぐこちらを見ている。責めるでも同情するでもない。ただ、まっすぐに。
「クレアさんにとっては、そうなんだね。切られた場所。……でも、あたしにとっては、違うの」
ニナちゃんは籠のパンを一つ手に取って、指でその焼き色をなぞった。
「あたし、この通りが好き。クレアさんも、お父ちゃんも、みんな好き。でも、それとは別に、王都で自分のお菓子を作ってみたいの。ここじゃ手に入らない砂糖とか、香料とか、いっぱいあって。あたしの味を、あたしの手で見つけたいんだ」
いつか聞いた夢だった。親方と喧嘩した夜、この子がやっと打ち明けた、王都で菓子修行がしたいという願い。あれは酔った勢いの戯言じゃなかったのだ。
「あたしは、王都に行きたい。クレアさんは、王都に帰りたくない。……ねえ、それって、どっちも本気だよね。どっちが正しいとか、ないよね」
その言葉が胸の固まっていたところにそっと爪を立てた。
私はずっと、王都を「悪い場所」の一言で片づけてきた。そのほうが帰らない理由がはっきりして、楽だったから。でも王都はニナちゃんにとっては夢の場所で、兄さまにとっては帰る家で、私にとっては傷の場所だ。同じ町が人によって、まるで違う顔をしている。
行きたい町と帰らない町。それは同じ王都の、裏と表なのかもしれない。
「帰りたくない」だけでは、たぶん、答えにならない。私は、王都が嫌いだからここに残るんじゃない。——じゃあ、なぜここに残りたいのか。その問いに自分の言葉で答えなきゃいけないのだと、ニナちゃんの夢が、私に教えてくれた気がした。
「ニナちゃん」
「なに?」
「ありがとう。……なんだか、頭のなかが、少し片づいた」
「? よくわかんないけど、どういたしまして」
ニナちゃんはきょとんとして、それから、にっと笑った。パンの匂いと、この子のからりとした声。それが今朝はこんがらがった私の胸を、ほんの少しほどいてくれる。
窓の外の坂道の向こうで、霧が晴れて、うっすらと街道が見えた。あの道は王都までつづいている。ニナちゃんの夢の町へも私の傷の町へも。同じ一本の道が。
私はまだ、答えを持っていない。それでも壁の覚え書きに並んだみんなの「いつもの」を眺めていると、探すべき答えのありかだけは、間違えたくないと思えた。
次話:「灯りの消し方なんて、知らない」




