第23話「その名前で、呼ばないでください」
その日、戸は鳴らなかった。
正確に言えば、鳴らされる前に叩かれた。
こんこん、と行儀のいい音。うちの戸を叩く人なんて、半年でひとりもいなかった。この通りの戸は押すものだ。叩いて返事を待って、それから開ける——そんな上品な作法は、坂の下の食堂には似合わない。
だから店じゅうの視線が、いっせいに戸口へ集まった。
戸が外から、ゆっくりと開く。差しこむ光を背にして、背の高い人影が立っていた。仕立てのいい旅装。腰に佩いた細身の剣。供の者が二人、その後ろに控えている。
顔を見た瞬間、私の指先から匙が滑り落ちた。
床で、からん、と高い音が跳ねる。
ユリウス殿下。第二王子。私の、かつての婚約者。
嘘だ、と思った。こんな場所に、この人がいるはずがない。王都でいちばん華やかな広間の、燭台の下にしか似合わない人が。なのに、その端正な顔は、まぎれもなく本人で。
殿下は店のなかをぐるりと見渡した。煤けた竈。よれた覚え書きの壁。土のにおい。その目に、隠しきれない当惑がよぎる。それから私を見つけて、口を開いた。
「久しいな。……クレア・ド・ウェルズ」
その名前が店の空気をぱりんと割った。
常連たちが息をのむのがわかる。私は落とした匙を拾って、前掛けで拭いた。手が少し震えているのを、この人には見られたくなかった。
背筋を伸ばして、私はできるだけおだやかに言う。
「その名前で、呼ばないでください」
「……なに?」
「その名前は、王都に置いてきました。ここでの私は、ゆるり亭の店主です。クレア。それだけで、じゅうぶんなんです」
殿下はしばらく黙って私を見ていた。それから供を戸口に残して、ひとりで店の奥へ進んでくる。空いた席に、少し迷ってから腰を下ろした。長机の板の脂を指先で確かめるみたいに撫でて、かすかに眉をひそめる。
「では、クレア。この店で、最も上等な一皿を頼む。金は、いくらでも払おう」
最も上等な一皿。私は思わずふ、と笑いそうになった。
「あいにく、うちには根菜のスープしかありません。上等も下等も、ないんです」
「では、そのスープに、いちばん良い葡萄酒を」
「葡萄酒も置いてません。あるのは、水と、薄い珈琲だけで」
殿下は言葉に詰まった。どう振る舞えばいいのか、この人にはわからないのだ。金を積めば最上のものが出てくる世界にしか、生きたことがないから。「いつものを」と一言で通じる店の作法なんて、知るはずもない。
その滑稽さがほんの少しだけ、私の肩の力を抜いてくれた。私は根菜のスープをよそって、殿下の前に置く。
「うちの、いつものです。冷めないうちに、どうぞ」
殿下は匙を取って、おそるおそる一口すすった。その端正な眉がかすかに動く。何か言いたげに口を開いて——けれど結局は何も言わず、二口目を、思ったより早く口へ運んでいた。
昼を過ぎて客がひけると、殿下は匙を置いて、まっすぐ私を見た。
「単刀直入に言おう。クレア、王都へ帰ってきてくれ」
来た、と思った。
「お前の兄が、落馬で床に伏している。ド・ウェルズの直系は、もうお前ひとりだ。父君は……お前の復籍を、望んでおられる」
「望んでいるのは、私ですか。それとも、公爵家の血ですか」
言ってしまってから、声が冷たくなりすぎたと思った。でも引っ込められなかった。
殿下は一瞬、目を伏せる。
「……両方だと言えば、嘘になる。だが」
そこで殿下はめずらしく言い淀んだ。傲慢な人だと思っていた。人を人とも思わない人だと。それなのに今、目の前の顔には、遅れてやってきた後悔が隠しきれずに滲んでいた。
「あの断罪は、間違いだった。リディア嬢の後ろ盾は、半年で崩れた。証もない告発に踊らされて、私はお前を切った。今さらだと、わかっている」
復籍と婚約の回復と。かつて私が欲しくてたまらなかったものが、ぜんぶ今ごろになって、目の前に差し出されている。
胸のどこを探しても、この人への恋情はもう一滴も残っていない。とうに乾いて、かさぶたになって、剥がれ落ちた。あるのは家に切られた記憶の、ひりつく古傷だけ。
でも兄さまのことは別だった。目を覚まさないという兄。私を鞍に乗せて庭を駆けた、あの人。会いに行きたいという気持ちだけは嘘じゃない。
「……兄の見舞いには、行きます」
「では」
「でも、それと王都へ戻ることは、別の話です。今は、お答えできません。兄の顔を見てから、考えさせてください」
我ながら、ずるい返事だと思う。断りきる勇気も頷く覚悟もない。ただ、時間が欲しかった。この揺れる胸に名前をつける、その時間が。
殿下はしばらく私を見つめて、それから立ち上がった。銅ソルの払い方を知らないその人の代わりに、供の者がきっちり一枚を長机に置いていく。
「また来る。……悪くない味だった、クレア」
殿下は戸口で、一度、手を止めた。押すべきか、叩くべきか、迷ったのだと思う。結局その人はぎこちなく戸を引いて、光のなかへ出ていった。最後まで、この通りの戸とは、うまく折り合えないままで。
残された長机の上で、根菜のスープが半分だけ減っている。
王都でいちばん上等な席に座っていた人が、坂の下の食堂で、私のスープを半分飲んだ。その事実の奇妙さを、私はしばらく、うまく飲み込めずにいた。
次話:「行きたい町と、帰らない町」




