第22話「音のしない、開け方」
人の気配に気づいたのは、匂いでも音でもなかった。
ふと顔を上げたら、もう戸口に人が立っていた。うちの戸は建て付けが悪くて、開けた人の性分がそのまま音になる。ジオさんの迷いのない一押し。セラさんの遠慮がちな半分。ニナちゃんの、からりと明るい音。——なのに、この人の戸だけ、私は聞き逃した。
音のしない、開け方だった。
中背の、目立たない身なりの男の人。歳のころは40くらい。旅装だけれど、裾に泥のはねがない。峠を越えてきた人の足元じゃない。ペンを握る手だと、その白い指を見て、なんとなく思った。
「……いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ」
「では、そちらの窓際を」
物腰はていねいで癖がない。声にも表情にも引っかかりがひとつもなかった。
私はいつもの癖で、その人を読もうとした。何に疲れて、何を欲しがって、この戸を押したのか。——けれど、読めない。器の温度を探るみたいに目を凝らしても、この人の表面はつるりとして、指がかりがどこにもない。
私はいつも人を読むことで安心してきた。相手の欲しいものが先に見えれば、こわくない。先回りできる。差し出せる。それがこの店で身につけた私の鎧だった。——けれど、読めない相手を前にすると、鎧を剥がされたみたいに心もとなくなる。読む側でいられないと、こんなにも足元がぐらつくものなのか。
「何になさいますか」
尋ねると、男の人は品書きの木札をゆっくり眺めた。
「この店の、いつものを」
「いつもの、というのは、お客さまそれぞれで違っていて……」
「ああ、そうでしたね。では、あなたがいちばん、自信のあるものを」
試されている。ふいにそんな気がした。味をではない。私という人間をだ。
私は根菜のスープをよそって、塩をひとつまみ多めに利かせた。冷えた体に沁みる、いつもの味だ。男の人はそれをゆっくりと飲んだ。おいしい、ともまずい、とも言わない。私が他の客とかわす二言三言を、匙を止めて、じっと見ている。
リルに通い椀を渡すところ。ガロ爺の具を、頼まれる前に多めによそうところ。その一つひとつを、帳面につけるみたいな目で追っていた。
落ちつかなかった。値踏みされるのには慣れているつもりだ。断罪の広間でも見物客の群れのなかでも。でもこの人の目はそのどれとも違う。悪意も好奇もない。ただ、正確に測ろうとする目。
やがて男の人は静かに立ち上がって、銅ソルをきっちり一枚、長机に置いた。それから懐から一通の書状を取り出して、空いた器の脇にそっと添える。上等な、目のつまった紙。封蝋には見覚えのありすぎる紋章が押されていた。
心臓がひとつ大きく鳴る。
ド・ウェルズの、封蝋。
「これを、あなたに」
「……なんですか、これは」
「あなたが、お読みになるべきものです。——クレア・ド・ウェルズ様」
その名前で呼ばれて、店の空気がぴんと張りつめた。窓際でガロ爺が触れ書きを畳む気配がする。
「私は、ベルントと申します。王都で、台帳を預かる者です。それ以上でも、それ以下でもありません」
台帳。人の生き死にも家の興りも、みんな紙の上の一行にして仕舞う場所。この人はその紙の番人なのだ。
「近いうちに、しかるべき方が、あなたに会いにいらっしゃいます。それまでに目を通しておかれるとよいでしょう。……よい店です。席の温もりが、正直だ」
ベルントさんは頭を軽く下げて、戸口へ向かった。そして——来たときと同じに、音もなく戸を開けて、出ていった。
私は長机に置かれた書状を、しばらく手に取れなかった。
開けた人の性分が音になる、と私は思ってきた。迷いも遠慮も怒りも、みんな戸が教えてくれる。——けれど、あの人の戸は何も鳴らさなかった。読ませない。測らせない。自分の性分を、紙の裏側にきれいに畳んでしまえる人。
私の「読む力」が、まるきり歯が立たなかった。半年かけて磨いてきたその力は、王都の紙の前では、なんの役にも立たないらしい。
封蝋の赤が傾いた日のなかで、血のひとしずくみたいに光る。私はまだ、それを割る勇気が出ない。ド・ウェルズ。置いてきたはずの名前が、上等な紙にのって、坂の下のいちばん奥まで私を訪ねてきた。
「嬢ちゃん」
窓際から、ガロ爺の濁声がした。
「その紙が、あんたを困らせるもんなら、竈にくべちまえばいい。ここはそういう通りだ」
その一言に、私はやっと少しだけ笑えた。けれど、書状は竈にはくべなかった。棚のいちばん奥へ伏せてしまう。——読まずに済ませられないことくらい、たぶん、私がいちばんわかっていた。
次話:「その名前で、呼ばないでください」




