第21話「霧は、王都までつづいてる」
その朝の霧は坂の下がまるごと乳のなかに沈んだみたいに白かった。
こういう日は珈琲の香りがよく通る。石臼をごりごり回していると、香ばしい湯気が霧を押しのけて、戸口のあたりまで匂いの道ができる。その道をたどるみたいに、今日いちばんの客が転がりこんできた。
「クレアさん、いつもの……あ、根菜の、あつめでした!」
書記見習いのトトさんだ。ひと月前まで書き付けの板を抱えた野次馬だったのに、今ではすっかり朝いちばんの常連になっている。
「はい、あつめですね。おかえりなさい、トトさん」
窓際の日の当たる席に器を置くと、トトさんはふうふう吹きながら匙を運ぶ。この人は噂を集めるのが商売の癖で口も達者だ。スープ半分で、もう舌がなめらかになる。
「そういえば聞きました? 王都のほう、また騒がしいんですよ」
私は覚え書きの壁を布で拭く手を止めなかった。王都の話はセラさんもときどき運んでくる。私には縁のない、遠い霧の向こうの噂だ。
「公爵家のひとつが、跡取りを欠きそうだって」
布を持つ手が止まった。
「……跡取り?」
「ええ。ド・ウェルズって家の若さまが、狩りで落馬して、もう幾日も目を覚まさないとか。直系がひとりもいなくなるって、書記局じゃもちきりで——」
トトさんの声が急に遠くなる。
ド・ウェルズ。兄さま。
その名前が耳の奥でぐるぐる回って、何を言われたのかすぐには像を結ばない。ド・ウェルズの若さま。狩りで落馬。目を覚まさない。——それは兄さまのことだ。
私を切り捨てた家の、たったひとりの跡取り。子どものころ、剣より馬が得意で、私を鞍の前に乗せて庭を駆けてくれた人。風で目がしみて、私が泣きべそをかくと、兄さまはいつも大きな声で笑った。あの、日向みたいに屈託のない笑い声をまだ覚えている。
あの断罪の広間で、父さまの横顔の隣に、兄さまはいなかった。領地の視察で王都を空けていたのだ。あとから知らせを受けたとき、あの人がどんな顔をしたのか——私はそれを、ついに知らないままここへ来た。
匙を持つトトさんは、私の顔色に気づいていない。噂は噂で、この人にとっては書記局に上げる一行の材料でしかないのだ。
「クレアさん? どうかしました、顔が白いですよ」
「……ううん。霧が濃いから、冷えちゃって」
うそをついた。竈の火はちゃんと燃えているのに、指先だけが妙に冷たい。あの断罪の夜、絹の手袋のなかで冷えていった指先の感覚が、遠くからそっと戻ってくる。
戻らない、と決めたはずだった。あの家への未練なんて、とうに焼き捨てた。——なのに、兄さまが目を覚まさないと聞いた途端、胸の底で消したはずの埋み火がちりっと爆ぜる。
会いたい、とも違う。心配、と呼ぶには私はもう薄情すぎる。それでも何かが確かにうずいて、その正体に名前をつけるのがこわかった。
トトさんが帰ったあとも、私はしばらく鍋の前で手を止めていた。湯気が頬を撫でていくのに、その温もりが、いつもみたいには沁みてこない。
昼どき、窓際でガロ爺が触れ書きから顔を上げた。皺だらけの目がじっと私を見ている。
「嬢ちゃん。今日は、匙の手が留守だな」
「……そんなこと、ないですよ」
「ふん。わしの具の数を、二度も数え直しとったくせに」
ばれていた。私はごまかすように笑って、具をもう一つ足す。ガロ爺は何も聞かなかった。訳ありは訳ありのまま。この爺さまの流儀は、こういうときにいちばん、ありがたい。
その日の昼下がり、めずらしくジオさんが店に顔を出した。夜番あけの朝ではなく、巡回の途中に。それだけで、私の背筋は勝手にこわばる。この人が時間を外して来るときは、たいてい、ふつうじゃない。
ジオさんは奥の席には座らず、框のところで低く声を落とした。
「クレア。街道口の、マーサの宿に」
名前で呼ばれることにはまだ慣れない。
「王都から来た男が投宿した。役人風だ。供を連れて、荷は少ない。長逗留の構えだと、隊で見ている」
「……役人、ですか」
「用件は、まだ読めん。だが、この時期に王都から辺境の宿場までわざわざ下ってくる人間が、湯治や商いのわけがない。気に留めておけ。それだけだ」
それだけ言って、ジオさんは踵を返した。戸を一押し、いつものまっすぐな音を残して、霧の巡回へ戻っていく。
私は框に立ったまま、その背中を見送った。
王都から来た男。兄さまの落馬。——ふたつの報せが、坂の下の霧のなかで、ひとつに溶けていく気がする。偶然だと思いたいのに、私の勘は、そう言ってくれなかった。
夕方、店を閉めるころ、私は覚え書きの壁の前に立つ。ジオさん。ガロ爺。セラさん。リルの母さん。レフさん。トトさん。この通りで私が覚えてきた「いつもの」たちが、よれた炭の字で並んでいる。
ここが私の居場所だ。そう胸を張れるようになるまで半年かかった。それなのに王都から伸びてきた霧は、どうやらまだ、この店の戸口までつづいているらしい。
鍋の火を落とす。奥の席にはもう、誰も座っていない。今夜のスープはなぜだかいつもより塩の味がきつく舌に残った。
次話:「音のしない、開け方」




