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乳姉妹優先の殿下へ。私、次代の聖女に選ばれましたのでお別れです  作者: 九葉(くずは)


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9/10

第九話 七年の終わりに

廃太子と立太子の儀、そして聖女就任式の前日の朝、私は早く目を覚ました。


窓の外は晴れていた。一月前に季節外れの雪が降ったとは思えないほど、初夏らしい朝の光が、寝台の足元まで届いていた。


私はマルタを呼ばずに、自分でカーテンを開けた。庭の木立の向こうに、教会本部の塔の先端が見える。普段は気づかない高さの塔だった。今朝、初めて気づいた。


その塔の下で、明日、私は白い聖衣を纏う。


その日のためのお準備が、今日、すべて整う。



朝食の席で、父が一通の書簡を、私の方へ滑らせてくださった。


「王宮からだ」


封蝋は緋色。差出人は王妃陛下。


「セレスティア。明日の儀の前に、王宮にて、新しい王太子となる三男レオポルトに、ご挨拶を願えますか。短い時間で結構です。あの子は、あなたに、お会いしたいと申しております」


私は便箋を膝の上に置いた。


「お父様」


「うん」


「参りますわ。これが、王宮への最後の訪問になります」


父は頷かれた。


「うむ。最後の、ご挨拶を」



馬車で王宮へ向かう道は、いつもより少し空いていた。


廃太子の儀と立太子の儀が明日に控えており、王宮の出入りは普段より厳しく制限されているとのことだった。私の馬車は教会の馬車ではなく、エルムハルト公爵家の馬車だった。聖女としてのお務めではなく、公爵令嬢として、王妃陛下と新しい王太子にご挨拶申し上げる形式だった。


王宮の門を、私は最後に潜った。


七年、毎週のように通った門だった。今日、私はその門を、最後の客として通った。




王妃陛下のお部屋で、私はレオポルト殿下にご紹介された。


十八歳の、まだ若いお顔の方だった。背は兄君ジュリアン殿下よりわずかに低く、髪の色も少しだけ淡い。ジュリアン殿下の青みがかった金髪と違って、レオポルト殿下は柔らかい蜂蜜色の髪をしていらした。


「セレスティア様」


レオポルト殿下が深く礼をなさった。十八歳のお方にしては、丁寧すぎるほどの礼だった。


「レオポルト殿下。お初にお目にかかります」


「兄が、申し訳ないことを、いたしました」


レオポルト殿下が、礼の姿勢のまま、おっしゃった。


「殿下」


「兄が七年、お続けしてきたことの代わりに、何かをお返しすることが、僕にはできません。けれど、せめてお詫び申し上げます。兄に代わって」


王妃陛下が、レオポルト殿下のお肩にそっと手を置かれた。


「レオポルト。お詫びは、あなたの務めではありません」


「母上。これは僕の務めでございます」


レオポルト殿下が顔を上げられた。


「明日、僕は王太子になります。王家の名で、過去七年の不義をお詫び申し上げる立場になります。今、ご挨拶のうちに、お詫び申し上げたく存じます」


私は深く礼を返した。


「レオポルト殿下」


「はい」


「お詫びをお受け申し上げる代わりに、一つ、お願い申し上げてもよろしいでしょうか」


「何なりと」


「明日、新しい王太子としての宣誓に、慈悲についての一節がございます。その一節を、お読みになる時、王太子個人のお名前だけではなく、王太子と、王太子妃候補、両者の名で慈悲を務めることを、お加えいただけませんでしょうか」


レオポルト殿下が一瞬、私の意図を測られた。


「と、申されますと」


「王太子のお務めの中の慈悲は、王太子のお名前だけで成り立つものではございません。ご結婚なさるご令嬢のお名前と並んでこそ、王家の慈悲の名が、初めて成立いたします。これは聖女法上の手続きではなく、私が七年の経験から、お願い申し上げることでございます」


レオポルト殿下はしばらく考えられた。


それから、深く頷かれた。


「承りました。明日の宣誓に、その一節を加えます」


「ありがとうございます」


王妃陛下が、わずかに微笑まれた。


「セレスティア。あなたは、王家を去る最後の朝に、王家のための一つの務めを、お残しになりましたね」


「いえ、お母様。それは、私の七年の最後の務めでございます」



王宮を退出する前、王妃陛下が、私を回廊の窓辺へ案内なさった。


回廊の窓からは、王宮の中庭が見えた。中庭の片隅に、白い花を咲かせた小さな木があった。


「あの木は、私が王太子妃として嫁いだ年に、植えたものでございます」


王妃陛下のお声は穏やかだった。


「先王陛下が、三年目の冬に、私の隣の席をお選びくださった後、私は、この木の苗をご褒美にいただきました。『あなたが待った三年に、感謝を込めて』とおっしゃって」


「左様でございますか」


「あの木は、毎年、初夏に白い花を咲かせます。今年も、咲きました」


王妃陛下が私のほうをご覧になった。


「セレスティア。あなたが待った七年に、私からは何もお返しできません。けれど、あの木の花は、明日、あなたのために咲き続けます」


私は深く礼をした。


「もったいないお言葉でございます」



王妃陛下のお部屋から退出し、長い回廊を歩いた。


王宮の回廊は七年、私が無数に歩いた場所だった。今日、私は最後に歩いた。


回廊の途中、ある柱の影に、見覚えのある女官がお立ちになっていらした。


「公爵令嬢」


低い声だった。


私が振り返ると、彼女は深く礼をなさった。


「ご退出の前に、お渡し申し上げたい品が、ございます」


「何でございましょう」


彼女が小さな包みを差し出された。


開くと、中には、七年前の婚約式の日に、私が忘れて帰ってしまった扇が入っていた。象牙の骨に、白絹の張られた、十五歳の私のための扇。


「これは」


「殿下が、ずっと、お部屋にお持ちでいらっしゃいました」


女官のお声は淡々としていた。


「『いつかお返しする』とおっしゃっていたとのことでございますが、機会がございませんでした。本日、お渡しするよう、殿下より承ってまいりました」


私は扇を受け取った。


象牙の骨に、わずかに指の油が残っていた。誰かが、長く、何度も触れていた跡だった。


「殿下は、お部屋でいらっしゃいますか」


「南部の離宮へ、本日早朝、お発ちになりました」


「左様でございますか」


「明日の儀には、ご出席にならないとのことでございます」


私は扇を、両手で包んだ。


七年前、十五歳の私が、婚約式の終わりに殿下のお部屋に忘れてしまった扇。七年、殿下のお部屋にあった。私がそれを忘れたことに、私自身、長く気づかなかった。


殿下は、忘れずに、お持ちでいらした。


七年、お返しになる機会を、待っていらした。


「お預かりいたします」


私は女官に深く礼をした。


女官も深く礼をされた。


それきり、お互いに何も言わなかった。



公爵邸に戻ったのは昼過ぎだった。


書斎で、父に、王宮でのやり取りをお伝えした。象牙の扇は、机の上に置いた。


父は扇をしばらくご覧になった。


「セレスティア。殿下は、七年、これをお部屋に置いていらしたのか」


「左様でございます」


父は何もおっしゃらなかった。


ただ、扇の骨に指で、軽く触れられた。父の指の触れ方は、誰かが長く触れた骨の温度を、確かめるような触れ方だった。


「セレスティア」


「はい、お父様」


「お前は、これを、どうするつもりだ」


私はしばらく考えた。


「明日、聖女就任式の朝、私室の小卓に、これを置いていきます」


「公爵邸に、置いていくのか」


「はい。私が七年、忘れていたものを、公爵邸が代わりに七年、預かってまいりました。これからは、公爵邸の持ち物として、お父様にお預けいたします」


父は深く頷かれた。


「分かった」


「お父様」


「うむ」


「七年、お預かりくださり、ありがとうございました」


父は何もおっしゃらなかった。


ただ、暖炉の火を、ゆっくりとご覧になっていらした。



午後、教会本部から、書簡が届いた。


「公爵令嬢。本日の夕刻、ヴェロニカ・フェルマー様が、北方の沈黙修道院へお発ちになります。お見送りをご希望でしたら、教会本部の南門にて、お待ち申し上げます」


私は書簡を、しばらく見ていた。


それから、マルタを呼んだ。


「マルタ。教会本部へ参ります」


「畏まりました、お嬢様」


「外套を」


「お持ちいたします」



教会本部の南門で、ヴェロニカ様は灰色の修道服を、すでにお召しになっていらした。


七年、社交界で輝いておられた淡い桃色のドレスを、もうお召しになっていなかった。緋色の宝石の首飾りも、外していらした。代わりに、首には、修道女の素朴な木の十字架が、下がっていた。


「セレスティア様」


ヴェロニカ様が私をご覧になった。


「ヴェロニカ様」


私たちは、しばらく、何も申し上げなかった。


教会本部の南門の前で、修道女が二人、ヴェロニカ様の荷物を馬車に積んでいた。荷物は、小さな鞄が一つだけだった。


「沈黙修道院は、戒律の最も厳しい場所と、伺いました」


ヴェロニカ様がおっしゃった。


「左様でございます」


「終生、外出は許されません」


「ええ」


「沈黙の戒律は、人様の前でお声をお出しすることを、お禁じになります」


「ええ」


ヴェロニカ様はわずかに、微笑まれた。


蒼白だったお顔色には、ほんの少しだけ、本物の血の気が戻り始めていた。薬を断たれて八日目の朝、教会医がそうおっしゃっていた。


「セレスティア様。今、私は、最後の言葉を、お申し上げ申し上げる時間を、頂戴しております」


「お聞きいたします」


「七年、私が独占してきた殿下のお優しさは、本物ではございませんでした。けれど、私が殿下を、ご家族同然にお慕い申し上げた気持ちは、本物でございました」


ヴェロニカ様は、ご自分の十字架を、指で軽く触れられた。


「本物の気持ちを、本物でない場所に向けてしまった七年でございました。沈黙修道院の中で、私は、本物の気持ちを、別の場所に向け直してまいります」


「ヴェロニカ様」


「セレスティア様。明日、ご就任なさいませ。私の沈黙の中に、あなた様のご就任の鐘の音は、届きます」


私は深く礼をした。


「ご道中、お気をつけて参られませ」


「ありがとう存じます」


ヴェロニカ様が、修道女に支えられて、馬車にお乗りになった。


馬車の扉が閉まる前に、ヴェロニカ様はもう一度、私のほうをご覧になった。


そして、お声はお出しにならず、ただ、唇だけを動かされた。


「ごめんなさい」


そう、お動きになったのを、私は見た。


馬車が、ゆっくりと走り出した。


北の道へ向かう馬車の影が、夕暮れの王都の街並みに紛れていくのを、私は南門の前で、しばらく見ていた。



馬車の影が見えなくなった頃、枢機卿閣下が、南門の脇に立っていらしたのに気づいた。


いつから、そこにいらしたのか、分からなかった。


「枢機卿閣下」


「公爵令嬢」


「お立会いを、ありがとうございました」


「いえ。お立会いは、教会のお務めでございます」


枢機卿閣下のお声は、変わらず静かだった。


「明日のご準備は、整いましたか」


「はい」


「白衣のお誂えは、いかがでございましたか」


「ちょうど合うように、と、修道女の方々が縫ってくださいました」


「左様でございますか」


枢機卿閣下が、わずかに微笑まれた気がした。


七年前の冬の夜、第七孤児院の前で雪の中から走り寄ってきてくださった、若い司教のお顔に、その微笑みは似ていた。




「枢機卿閣下」


「はい」


「明日、ご就任の儀の前に、お一つ、ご相談がございます」


「何でしょう」


「七年前、私が殿下のお部屋に忘れてまいりました扇を、本日、王宮にてお返しいただきました」


「左様でございますか」


「公爵邸の私室の小卓に、置いてまいりました。それで、よろしいでしょうか」


枢機卿閣下が深く頷かれた。


「ええ、それでよろしゅうございます。聖女として、ご就任なさる方が、十五歳のお持ち物を、ご結婚なさるまで持ち越されることは、教会としては、お勧めいたしません」


「ご結婚」


私は息を整えた。


枢機卿閣下のお口から「ご結婚」という言葉を伺ったのは、初めてのことだった。


枢機卿閣下も、ご自身の言葉に、わずかに気づかれた様子だった。


「失礼いたしました。明日、ご就任の後、改めて、申し上げたく存じます」


「畏まりました」


私は深く礼をした。


枢機卿閣下も、深く礼を返された。


「明朝、教会の馬車をお迎えに上げます」


「お願い申し上げます」



公爵邸に戻った時、玄関にマルタが待っていた。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


「ただいま、マルタ」


「お父上が、書斎にて、お待ちでございます」


書斎の扉を開けた。


父は暖炉の前の椅子に、座っていらした。


机の上に、二つの紅茶のカップ。


そして、机の中央に、母の形見の真珠の首飾りが、銀の小箱に納められて、置かれていた。


「セレスティア」


「お父様」


「明日の朝、これを、お前の私室の鏡台にお戻ししよう」


父が母の真珠を、ご自分の手で、銀の小箱から取り出された。


「お前が、七年、ずっと身につけてきた、母の真珠だ」


「はい」


「明日、これを、聖女の白衣の上から、おつけになるか」


私はしばらく考えた。


「いえ、お父様。明日は、母の真珠を、お預けいたします」


「私に、預けるのか」


「はい。これは、エルムハルト公爵家の、母の形見でございます。私は明日から、聖女として、王家の外で、教会の御許でお務めをいたします。エルムハルト公爵家のお品は、お父様にお預けいたします」


父はしばらく、私を見ていらした。


それから、母の真珠を、両手で、ゆっくりと包まれた。


「分かった」


「お父様」


「うん」


「七年、見ていてくださって、ありがとうございました」


父が、ようやく、わずかに微笑まれた。


七年、父の微笑みを、私はほとんど見たことがなかった。今夜、私は初めて見た。


「セレスティア」


「はい」


「お前が母に似てきた、と、先日、申した」


「はい」


「お前が、母に似てきたのは、お顔ではない」


「と、おっしゃいますと」


「お前の選び方が、母に似てきた」


私は息を呑んだ。


「母も、選び続けた人だった」


父はそうおっしゃると、母の真珠を、もう一度、銀の小箱にお戻しになった。


「明日、行ってきなさい」


「行ってまいります、お父様」



私室に戻った。


寝台の脇の小卓に、ピョートルの絵を置いた。前夜、教会本部から、子供たちの絵の入った木箱が、私のために届いた。十三枚の絵のうち、ピョートルの絵だけを、私室に持ってきていた。


雪の中で、毛布を分け合って持つ二人の絵。


明日、私はその絵を、聖女の白衣の懐に、お入れする。


そう決めていた。


象牙の扇は、別の小卓に、そのまま置いた。


明日の朝、私が家を出る時、それは公爵邸に残る。



灯を消す前、私は燭台の灯の前で、明日の宣誓の一節を、心の中で唱えた。


聖女としての、最初の宣誓。


「私、セレスティア・フォン・エルムハルト、教会の御許に於いて、慈悲のお務めを、お受けいたします。私の祈りを、私の隣に立ってくださる方と共に、これからの時間に、お捧げいたします」


唱え終わって、燭台の灯を吹き消した。


明日、私は新しい時間を、始める。



天井の梁の影が、暗い中で薄く見えた。


戴冠前儀礼は延期になった。


代わりに、明日、廃太子と立太子の儀。


そして、聖女就任式。


それぞれの場所で、それぞれの人が、新しい時間を始める。



その夜、私は夢を見た。


七年前の冬の雪の中、十五歳の私が、第七孤児院の前に立っていた。


夢の中で、若い聖職者が、雪の中から走り寄ってきた。


その方が、私の手から、毛布の半分を受け取ってくださった。


「あなた様のお手は、温かいですね」


そうおっしゃった。


夢の中で、私はその方のお名前を、心の中でお呼びした。


雪は温かかった。


朝、目覚めた時、夢のことを、私は覚えていた。


覚えていたまま、寝台から起き上がった。


聖女就任式の朝が、始まっていた。

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