第九話 七年の終わりに
廃太子と立太子の儀、そして聖女就任式の前日の朝、私は早く目を覚ました。
窓の外は晴れていた。一月前に季節外れの雪が降ったとは思えないほど、初夏らしい朝の光が、寝台の足元まで届いていた。
私はマルタを呼ばずに、自分でカーテンを開けた。庭の木立の向こうに、教会本部の塔の先端が見える。普段は気づかない高さの塔だった。今朝、初めて気づいた。
その塔の下で、明日、私は白い聖衣を纏う。
その日のためのお準備が、今日、すべて整う。
朝食の席で、父が一通の書簡を、私の方へ滑らせてくださった。
「王宮からだ」
封蝋は緋色。差出人は王妃陛下。
「セレスティア。明日の儀の前に、王宮にて、新しい王太子となる三男レオポルトに、ご挨拶を願えますか。短い時間で結構です。あの子は、あなたに、お会いしたいと申しております」
私は便箋を膝の上に置いた。
「お父様」
「うん」
「参りますわ。これが、王宮への最後の訪問になります」
父は頷かれた。
「うむ。最後の、ご挨拶を」
馬車で王宮へ向かう道は、いつもより少し空いていた。
廃太子の儀と立太子の儀が明日に控えており、王宮の出入りは普段より厳しく制限されているとのことだった。私の馬車は教会の馬車ではなく、エルムハルト公爵家の馬車だった。聖女としてのお務めではなく、公爵令嬢として、王妃陛下と新しい王太子にご挨拶申し上げる形式だった。
王宮の門を、私は最後に潜った。
七年、毎週のように通った門だった。今日、私はその門を、最後の客として通った。
王妃陛下のお部屋で、私はレオポルト殿下にご紹介された。
十八歳の、まだ若いお顔の方だった。背は兄君ジュリアン殿下よりわずかに低く、髪の色も少しだけ淡い。ジュリアン殿下の青みがかった金髪と違って、レオポルト殿下は柔らかい蜂蜜色の髪をしていらした。
「セレスティア様」
レオポルト殿下が深く礼をなさった。十八歳のお方にしては、丁寧すぎるほどの礼だった。
「レオポルト殿下。お初にお目にかかります」
「兄が、申し訳ないことを、いたしました」
レオポルト殿下が、礼の姿勢のまま、おっしゃった。
「殿下」
「兄が七年、お続けしてきたことの代わりに、何かをお返しすることが、僕にはできません。けれど、せめてお詫び申し上げます。兄に代わって」
王妃陛下が、レオポルト殿下のお肩にそっと手を置かれた。
「レオポルト。お詫びは、あなたの務めではありません」
「母上。これは僕の務めでございます」
レオポルト殿下が顔を上げられた。
「明日、僕は王太子になります。王家の名で、過去七年の不義をお詫び申し上げる立場になります。今、ご挨拶のうちに、お詫び申し上げたく存じます」
私は深く礼を返した。
「レオポルト殿下」
「はい」
「お詫びをお受け申し上げる代わりに、一つ、お願い申し上げてもよろしいでしょうか」
「何なりと」
「明日、新しい王太子としての宣誓に、慈悲についての一節がございます。その一節を、お読みになる時、王太子個人のお名前だけではなく、王太子と、王太子妃候補、両者の名で慈悲を務めることを、お加えいただけませんでしょうか」
レオポルト殿下が一瞬、私の意図を測られた。
「と、申されますと」
「王太子のお務めの中の慈悲は、王太子のお名前だけで成り立つものではございません。ご結婚なさるご令嬢のお名前と並んでこそ、王家の慈悲の名が、初めて成立いたします。これは聖女法上の手続きではなく、私が七年の経験から、お願い申し上げることでございます」
レオポルト殿下はしばらく考えられた。
それから、深く頷かれた。
「承りました。明日の宣誓に、その一節を加えます」
「ありがとうございます」
王妃陛下が、わずかに微笑まれた。
「セレスティア。あなたは、王家を去る最後の朝に、王家のための一つの務めを、お残しになりましたね」
「いえ、お母様。それは、私の七年の最後の務めでございます」
王宮を退出する前、王妃陛下が、私を回廊の窓辺へ案内なさった。
回廊の窓からは、王宮の中庭が見えた。中庭の片隅に、白い花を咲かせた小さな木があった。
「あの木は、私が王太子妃として嫁いだ年に、植えたものでございます」
王妃陛下のお声は穏やかだった。
「先王陛下が、三年目の冬に、私の隣の席をお選びくださった後、私は、この木の苗をご褒美にいただきました。『あなたが待った三年に、感謝を込めて』とおっしゃって」
「左様でございますか」
「あの木は、毎年、初夏に白い花を咲かせます。今年も、咲きました」
王妃陛下が私のほうをご覧になった。
「セレスティア。あなたが待った七年に、私からは何もお返しできません。けれど、あの木の花は、明日、あなたのために咲き続けます」
私は深く礼をした。
「もったいないお言葉でございます」
王妃陛下のお部屋から退出し、長い回廊を歩いた。
王宮の回廊は七年、私が無数に歩いた場所だった。今日、私は最後に歩いた。
回廊の途中、ある柱の影に、見覚えのある女官がお立ちになっていらした。
「公爵令嬢」
低い声だった。
私が振り返ると、彼女は深く礼をなさった。
「ご退出の前に、お渡し申し上げたい品が、ございます」
「何でございましょう」
彼女が小さな包みを差し出された。
開くと、中には、七年前の婚約式の日に、私が忘れて帰ってしまった扇が入っていた。象牙の骨に、白絹の張られた、十五歳の私のための扇。
「これは」
「殿下が、ずっと、お部屋にお持ちでいらっしゃいました」
女官のお声は淡々としていた。
「『いつかお返しする』とおっしゃっていたとのことでございますが、機会がございませんでした。本日、お渡しするよう、殿下より承ってまいりました」
私は扇を受け取った。
象牙の骨に、わずかに指の油が残っていた。誰かが、長く、何度も触れていた跡だった。
「殿下は、お部屋でいらっしゃいますか」
「南部の離宮へ、本日早朝、お発ちになりました」
「左様でございますか」
「明日の儀には、ご出席にならないとのことでございます」
私は扇を、両手で包んだ。
七年前、十五歳の私が、婚約式の終わりに殿下のお部屋に忘れてしまった扇。七年、殿下のお部屋にあった。私がそれを忘れたことに、私自身、長く気づかなかった。
殿下は、忘れずに、お持ちでいらした。
七年、お返しになる機会を、待っていらした。
「お預かりいたします」
私は女官に深く礼をした。
女官も深く礼をされた。
それきり、お互いに何も言わなかった。
公爵邸に戻ったのは昼過ぎだった。
書斎で、父に、王宮でのやり取りをお伝えした。象牙の扇は、机の上に置いた。
父は扇をしばらくご覧になった。
「セレスティア。殿下は、七年、これをお部屋に置いていらしたのか」
「左様でございます」
父は何もおっしゃらなかった。
ただ、扇の骨に指で、軽く触れられた。父の指の触れ方は、誰かが長く触れた骨の温度を、確かめるような触れ方だった。
「セレスティア」
「はい、お父様」
「お前は、これを、どうするつもりだ」
私はしばらく考えた。
「明日、聖女就任式の朝、私室の小卓に、これを置いていきます」
「公爵邸に、置いていくのか」
「はい。私が七年、忘れていたものを、公爵邸が代わりに七年、預かってまいりました。これからは、公爵邸の持ち物として、お父様にお預けいたします」
父は深く頷かれた。
「分かった」
「お父様」
「うむ」
「七年、お預かりくださり、ありがとうございました」
父は何もおっしゃらなかった。
ただ、暖炉の火を、ゆっくりとご覧になっていらした。
午後、教会本部から、書簡が届いた。
「公爵令嬢。本日の夕刻、ヴェロニカ・フェルマー様が、北方の沈黙修道院へお発ちになります。お見送りをご希望でしたら、教会本部の南門にて、お待ち申し上げます」
私は書簡を、しばらく見ていた。
それから、マルタを呼んだ。
「マルタ。教会本部へ参ります」
「畏まりました、お嬢様」
「外套を」
「お持ちいたします」
教会本部の南門で、ヴェロニカ様は灰色の修道服を、すでにお召しになっていらした。
七年、社交界で輝いておられた淡い桃色のドレスを、もうお召しになっていなかった。緋色の宝石の首飾りも、外していらした。代わりに、首には、修道女の素朴な木の十字架が、下がっていた。
「セレスティア様」
ヴェロニカ様が私をご覧になった。
「ヴェロニカ様」
私たちは、しばらく、何も申し上げなかった。
教会本部の南門の前で、修道女が二人、ヴェロニカ様の荷物を馬車に積んでいた。荷物は、小さな鞄が一つだけだった。
「沈黙修道院は、戒律の最も厳しい場所と、伺いました」
ヴェロニカ様がおっしゃった。
「左様でございます」
「終生、外出は許されません」
「ええ」
「沈黙の戒律は、人様の前でお声をお出しすることを、お禁じになります」
「ええ」
ヴェロニカ様はわずかに、微笑まれた。
蒼白だったお顔色には、ほんの少しだけ、本物の血の気が戻り始めていた。薬を断たれて八日目の朝、教会医がそうおっしゃっていた。
「セレスティア様。今、私は、最後の言葉を、お申し上げ申し上げる時間を、頂戴しております」
「お聞きいたします」
「七年、私が独占してきた殿下のお優しさは、本物ではございませんでした。けれど、私が殿下を、ご家族同然にお慕い申し上げた気持ちは、本物でございました」
ヴェロニカ様は、ご自分の十字架を、指で軽く触れられた。
「本物の気持ちを、本物でない場所に向けてしまった七年でございました。沈黙修道院の中で、私は、本物の気持ちを、別の場所に向け直してまいります」
「ヴェロニカ様」
「セレスティア様。明日、ご就任なさいませ。私の沈黙の中に、あなた様のご就任の鐘の音は、届きます」
私は深く礼をした。
「ご道中、お気をつけて参られませ」
「ありがとう存じます」
ヴェロニカ様が、修道女に支えられて、馬車にお乗りになった。
馬車の扉が閉まる前に、ヴェロニカ様はもう一度、私のほうをご覧になった。
そして、お声はお出しにならず、ただ、唇だけを動かされた。
「ごめんなさい」
そう、お動きになったのを、私は見た。
馬車が、ゆっくりと走り出した。
北の道へ向かう馬車の影が、夕暮れの王都の街並みに紛れていくのを、私は南門の前で、しばらく見ていた。
馬車の影が見えなくなった頃、枢機卿閣下が、南門の脇に立っていらしたのに気づいた。
いつから、そこにいらしたのか、分からなかった。
「枢機卿閣下」
「公爵令嬢」
「お立会いを、ありがとうございました」
「いえ。お立会いは、教会のお務めでございます」
枢機卿閣下のお声は、変わらず静かだった。
「明日のご準備は、整いましたか」
「はい」
「白衣のお誂えは、いかがでございましたか」
「ちょうど合うように、と、修道女の方々が縫ってくださいました」
「左様でございますか」
枢機卿閣下が、わずかに微笑まれた気がした。
七年前の冬の夜、第七孤児院の前で雪の中から走り寄ってきてくださった、若い司教のお顔に、その微笑みは似ていた。
「枢機卿閣下」
「はい」
「明日、ご就任の儀の前に、お一つ、ご相談がございます」
「何でしょう」
「七年前、私が殿下のお部屋に忘れてまいりました扇を、本日、王宮にてお返しいただきました」
「左様でございますか」
「公爵邸の私室の小卓に、置いてまいりました。それで、よろしいでしょうか」
枢機卿閣下が深く頷かれた。
「ええ、それでよろしゅうございます。聖女として、ご就任なさる方が、十五歳のお持ち物を、ご結婚なさるまで持ち越されることは、教会としては、お勧めいたしません」
「ご結婚」
私は息を整えた。
枢機卿閣下のお口から「ご結婚」という言葉を伺ったのは、初めてのことだった。
枢機卿閣下も、ご自身の言葉に、わずかに気づかれた様子だった。
「失礼いたしました。明日、ご就任の後、改めて、申し上げたく存じます」
「畏まりました」
私は深く礼をした。
枢機卿閣下も、深く礼を返された。
「明朝、教会の馬車をお迎えに上げます」
「お願い申し上げます」
公爵邸に戻った時、玄関にマルタが待っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、マルタ」
「お父上が、書斎にて、お待ちでございます」
書斎の扉を開けた。
父は暖炉の前の椅子に、座っていらした。
机の上に、二つの紅茶のカップ。
そして、机の中央に、母の形見の真珠の首飾りが、銀の小箱に納められて、置かれていた。
「セレスティア」
「お父様」
「明日の朝、これを、お前の私室の鏡台にお戻ししよう」
父が母の真珠を、ご自分の手で、銀の小箱から取り出された。
「お前が、七年、ずっと身につけてきた、母の真珠だ」
「はい」
「明日、これを、聖女の白衣の上から、おつけになるか」
私はしばらく考えた。
「いえ、お父様。明日は、母の真珠を、お預けいたします」
「私に、預けるのか」
「はい。これは、エルムハルト公爵家の、母の形見でございます。私は明日から、聖女として、王家の外で、教会の御許でお務めをいたします。エルムハルト公爵家のお品は、お父様にお預けいたします」
父はしばらく、私を見ていらした。
それから、母の真珠を、両手で、ゆっくりと包まれた。
「分かった」
「お父様」
「うん」
「七年、見ていてくださって、ありがとうございました」
父が、ようやく、わずかに微笑まれた。
七年、父の微笑みを、私はほとんど見たことがなかった。今夜、私は初めて見た。
「セレスティア」
「はい」
「お前が母に似てきた、と、先日、申した」
「はい」
「お前が、母に似てきたのは、お顔ではない」
「と、おっしゃいますと」
「お前の選び方が、母に似てきた」
私は息を呑んだ。
「母も、選び続けた人だった」
父はそうおっしゃると、母の真珠を、もう一度、銀の小箱にお戻しになった。
「明日、行ってきなさい」
「行ってまいります、お父様」
私室に戻った。
寝台の脇の小卓に、ピョートルの絵を置いた。前夜、教会本部から、子供たちの絵の入った木箱が、私のために届いた。十三枚の絵のうち、ピョートルの絵だけを、私室に持ってきていた。
雪の中で、毛布を分け合って持つ二人の絵。
明日、私はその絵を、聖女の白衣の懐に、お入れする。
そう決めていた。
象牙の扇は、別の小卓に、そのまま置いた。
明日の朝、私が家を出る時、それは公爵邸に残る。
灯を消す前、私は燭台の灯の前で、明日の宣誓の一節を、心の中で唱えた。
聖女としての、最初の宣誓。
「私、セレスティア・フォン・エルムハルト、教会の御許に於いて、慈悲のお務めを、お受けいたします。私の祈りを、私の隣に立ってくださる方と共に、これからの時間に、お捧げいたします」
唱え終わって、燭台の灯を吹き消した。
明日、私は新しい時間を、始める。
天井の梁の影が、暗い中で薄く見えた。
戴冠前儀礼は延期になった。
代わりに、明日、廃太子と立太子の儀。
そして、聖女就任式。
それぞれの場所で、それぞれの人が、新しい時間を始める。
その夜、私は夢を見た。
七年前の冬の雪の中、十五歳の私が、第七孤児院の前に立っていた。
夢の中で、若い聖職者が、雪の中から走り寄ってきた。
その方が、私の手から、毛布の半分を受け取ってくださった。
「あなた様のお手は、温かいですね」
そうおっしゃった。
夢の中で、私はその方のお名前を、心の中でお呼びした。
雪は温かかった。
朝、目覚めた時、夢のことを、私は覚えていた。
覚えていたまま、寝台から起き上がった。
聖女就任式の朝が、始まっていた。




