第七話 七年の最後の対面
教会本部からの書簡が、明朝、公爵邸に届いた。
教会医の精密検査の結果、ヴェロニカ様が王宮薬院から処方されておられた「滋養強壮薬」より、人体に有害な鉛系の成分が、長期摂取の量で検出された、とのことだった。書簡には「成分の出所と投薬の経緯について、教会と王宮で合同調査を進める」と記されていた。
父はその書簡を黙って二度お読みになった。
「セレスティア」
「はい」
「これは、すぐには表に出ない」
「と、申しますと」
「王宮の中で、薬を処方した者、その者に薬の調合を命じた者を、特定せねばならん。それまでは、ヴェロニカ嬢の検査結果も、教会と王宮の内側に留め置かれる」
「では、私は」
「お前は教会のお務めを続けなさい。あの件は、王宮と教会が動く」
私は頷いた。
頷いてから、ふと思った。
これは私が動かなくてよい七年目の朝だった。
七年、私は自分の周りで起こることに、いつも自分の手で対応してきた。慈善行事の差配も、ヴェロニカ様の粗相の後始末も、殿下のご名代としての挨拶も、全部、私が自分の手で整えてきた。
今朝、初めて、「お前は動かなくてよい」と、別の誰かが整えてくださっていた。
その日から数日が、静かに流れた。
教会のお務めは淡々と進んだ。週に三度の祈祷会、月に二度の慈善行事への臨席。私の名前で、私の意思で、私の言葉で進めるお務めだった。
王宮からの召喚は、もう来なかった。
殿下のお書簡も、来なかった。
戴冠前儀礼までは、あと一月と十数日。儀礼の準備は王宮で進んでいると、父が聞いてこられた。儀礼の式次第は、大司教猊下と王宮の宰相が直接お進めになっているとのことだった。
私の名前は、儀礼の式次第の中から、外されていた。王太子妃候補としての列席は、なくなっていた。代わりに、私の名前は「次代の聖女候補」として、別の欄に移っていた。
「聖女候補」として、儀礼当日に祝福を授けるか、授けないか。
その判断は私と教会の手に委ねられていた。
ある朝、教会本部からの正式書簡で、私は教会本部に呼ばれた。
応接室で、大司教猊下と枢機卿閣下が、お待ちになっていらした。
「公爵令嬢」
大司教猊下が穏やかにおっしゃった。
「戴冠前儀礼につきまして、王宮の宰相より、正式なご相談がございました」
「と、申しますと」
「殿下が、聖女候補としてのあなた様より、戴冠前儀礼の祝福をお受けになりたい、とのご希望でございます」
私は両手を膝の上で重ねた。
「殿下が、私から、祝福を」
「ええ」
「教会の御方々は、どうお考えでいらっしゃいますか」
大司教猊下は私の顔をしばらくご覧になった。
それから卓の上に一枚の書類を押し出された。
「これは、戴冠前儀礼における聖女の祝福について、教会法に定められた手続きの写しでございます」
私は書類を覗いた。
「戴冠前儀礼における聖女の祝福は、王太子個人へのものではない。王太子が果たしてきた、王家としての慈悲の実績、それを聖女の名のもとに承認し、未来の王として相応しいと、教会が認める手続きである」
その一節を、何度も読み直した。
「これは」
「殿下個人への好悪の判断ではございません」
枢機卿閣下が続けられた。
「殿下が果たしてこられた慈悲の実績への、教会の承認でございます」
「では」
息を整えた。
「もし、その実績が、実は別の方の手によるものだったとしたら」
「その場合、聖女法上、祝福を授けることができません」
大司教猊下が淡々とおっしゃった。
「承認する実体がないからでございます」
私はしばらく書類の文字を見ていた。
七年、私が殿下のご名代として整えてきた慈善行事の差配。
七年、王宮の記録の上では殿下の名で残っていた寄付と施しと祈祷。
王宮の記録は、文官二名の改竄で、すでに修正された。修正後の記録の写しは、教会本部にも届いていた。
「修正後の記録によりますと」
枢機卿閣下が続けられた。
「殿下のお名前のもとで行われた慈善行事のうち、八割以上が、公爵令嬢の差配によるものでございました」
「八割」
「ええ。残りの二割は、王妃陛下の差配、または、教会との合同主催でございました。殿下ご自身が直接お差配なさった行事は、過去七年で、一件もございません」
肩が一度、わずかに下がった。
「一件も」
「ええ」
「公爵令嬢」
大司教猊下が穏やかにおっしゃった。
「殿下のご希望に対し、教会としての正式なお返事を、戴冠前儀礼の三日前に、王宮へお伝え申し上げる予定でございます。お返事の内容については、聖女候補であるあなた様のご意思を、伺いとう存じます」
「私の、意思」
「ええ」
私は両手を膝の上で重ねた。
考えた。
七年、私は殿下のご名代として、お務めを果たしてきた。殿下がその七年のお手柄を、ご自分のものとしてお引き受けくださること自体に、私は長く怒りを持たなかった。それが婚約者としての務めだと、思っていた。
けれど。
殿下が私から祝福をお受けになりたい、とおっしゃる。
七年、私が「君なら分かってくれる」と頼まれてきたお返しに、最後の最後で、王家の最も重い儀礼の場で、私から祝福をお受けになりたい、と。
私から、もう一度、ご自分の手柄として、王家の名を受け取りたい、と。
私はしばらく考えた。
「教会の御方々」
「はい」
「お返事を申し上げます」
息を整えた。
「殿下個人への好悪の判断ではないと、教会法は定めておられます。私も好悪では判じません」
「左様でございます」
「殿下が果たしてこられた慈悲の実績への承認でございます」
「ええ」
「私は聖女候補として、実体のない承認を申し上げるわけにはまいりません。殿下がご自分の名前で慈悲を果たされた実績は、王宮の修正後の記録にございません」
「ええ」
「お受けすることができかねます」
大司教猊下が深く頷かれた。
枢機卿閣下も深く頷かれた。
「畏まりました」
大司教猊下のお声は、変わらず穏やかだった。
「では、戴冠前儀礼の祝福は、保留と、お伝え申し上げます」
「保留」
「お断りではございません。実体が確かめられた時に、改めてお授け申し上げる、という形でございます」
「保留が、戴冠前儀礼の時期に間に合わない場合は」
「儀礼そのものが、延期されることになります」
胸の奥でかすかな音がした。
戴冠前儀礼の延期は、王太子としてのご即位の延期を意味した。それは、王家全体に関わる重い判断だった。
「教会の御方々が、それをお引き受けくださるのですか」
大司教猊下がわずかに首を傾けられた。
「公爵令嬢。これは教会の判断ではございません。聖女法上の手続きの判断でございます。手続きの結果として儀礼の延期に至るのであれば、教会はその結果をお引き受けいたします」
「私の判断が、王家全体に」
「あなた様の判断ではございません」
枢機卿閣下が低くおっしゃった。
「殿下ご自身の、七年のご判断の結果でございます」
応接室を退出した時、私は廊下でもう一度、深く息を整えた。
ご自身の、七年のご判断の結果。
その通りだった。
私は何もしなかった。ただ七年、お務めをしてきた事実が、私の名前で、教会の記録の中に残っていた。
王宮の記録は改竄されていた。教会の記録は改竄されていなかった。
それだけのことだった。
公爵邸に戻り、その夜、父に、教会でのやり取りをお伝えした。
父は書斎で、しばらく何もおっしゃらなかった。
「セレスティア」
「はい、お父様」
「お前は、戴冠前儀礼の延期を招きかねない判断を、なさったのだな」
「左様でございます」
「お前は、その重さを引き受けられるか」
私はしばらく考えた。
「お父様。私はその重さを、独りでは引き受けられません」
「うむ」
「だから、お父様にもお引き受けいただきとう存じます」
父はしばらく私を見ていらした。
それから、ゆっくりと頷かれた。
「分かった」
「ありがとうございます」
「教会と、王宮と、公爵家、三者で、引き受けよう」
私は深く礼をした。
父が、書斎の卓に置かれていたご自分の紅茶のカップを、私の前へわずかに押し出された。
「お飲みなさい。冷めたが、まだ温いはずだ」
私は父の紅茶を半分いただいた。
冷めかけた紅茶が、ちょうど私の好む温度に戻りかけていた。
戴冠前儀礼の三日前の朝。
教会本部から王宮へ、正式書簡が届けられた。
「戴冠前儀礼における聖女の祝福について、聖女法上の手続きとして、現時点ではお授け申し上げることができかねます。承認の対象となる慈悲の実績の主体について、王宮の記録上、確認が取れないためでございます」
書簡はそれだけだった。
短い書簡だった。
短さの中に、王家のご即位を止める力が込められていた。
書簡が王宮へ届いた、その日の昼下がり、王宮から教会本部へ、もう一通の書簡が届いた。
殿下ご自身のお筆だった。
「公爵令嬢に、直接お目にかかりたい。ジュリアン」
教会本部から私の元へ、その書簡の写しが届いた。
枢機卿閣下のお手紙が添えられていた。
「公爵令嬢。お会いになるか、お会いにならないか、ご自由にお決めくださいませ。お会いになる場合は、教会本部の応接室にて、教会の立会いのもと、お席を設けます。お会いにならない場合は、教会の名前でお断り申し上げます」
私は書簡を読み直した。
それから紙片に短く、お返事を書いた。
「お会いいたします」
書き終えて、紙片を教会本部へ送る前に、もう一度読み直した。
七年、私は殿下に「お会いいたします」と申し上げてきた。
今度の「お会いいたします」は、初めて、私の意思での「お会いいたします」だった。
教会本部の応接室は、その日、夕暮れ時の光に満たされていた。
私はいつもの席に座った。
枢機卿閣下が、私の少し後ろの聖務の控えの席に座られた。書記の修道士が、卓の脇に控えていらした。
殿下がお入りになった。
七年、私が見続けてきたお顔だった。
けれど今日のお顔は、頬がわずかに痩せていらした。目の下に薄く隈があった。お召し物はいつもの王太子の正装ではなく、簡素な濃紺の上着だった。儀礼の正装を、すでに御身から外していらしたのかもしれない、と思った。
殿下は応接室の入口で立ち止まられた。
「セレスティア」
七年で初めて、お名前を呼ぶ前にお声がわずかに震えていらした。
「ジュリアン殿下」
私は答えた。
殿下が向かいの席にお座りになった。
「セレスティア。今朝の、教会本部からの書簡を読んだ」
「左様でございますか」
「君は、僕に、祝福を授けないと」
「教会法上の手続きとして、お授け申し上げることができかねる、と」
「君が、決めたのか」
私は答えなかった。
すぐには答えなかった。
七年、殿下にお返事を申し上げる時、私はいつも「承知いたしました」とお答えしてきた。今、私はその癖を、自分の中で抑えていた。
「殿下」
「うん」
「私が決めたわけでは、ございません」
「ならば、誰が」
「殿下ご自身の、七年のご判断の、結果でございます」
殿下の呼吸が止まった。
七年、殿下が私の前でお言葉を呑まれたことは、ほとんどなかった。今、殿下はお言葉を呑まれた。
「君は」
「殿下」
私はお声を整えた。
「私は聖女候補としてお務めを果たしております。殿下個人への好悪の判断は、お務めの中にございません。教会法に従い、手続きを進めただけでございます」
「セレスティア」
「はい」
「君は、七年、僕を、嫌いになっていたのか」
殿下のお声がわずかに低くなった。
私は両手を膝の上で重ねた。
「殿下」
「うん」
「七年、私は殿下をお嫌いに、なってはおりませんでした」
殿下がわずかに顔を上げられた。
「ただ」
私は続けた。
「お疲れに、なってまいりました」
殿下の目がしばらく私を見ていらした。
私はその目を見返した。七年、私は殿下の目をまっすぐ見返したことがなかった。いつもわずかに視線を伏せていた。婚約者として、控えるのが礼儀だと、思っていた。
今日、私は殿下の目を見返した。
殿下のほうが、先に視線を伏せられた。
「セレスティア」
「はい」
「ヴェロニカの、検査の結果を、聞いたか」
「教会医より、内々のご報告をいただいております」
「あれは」
殿下のお声がわずかに震えた。
「あれは、僕の知らないところで、起きていたことだ」
「左様でございますか」
「七年、僕はヴェロニカが本当に、体が弱いのだと思っていた。彼女が薬を飲んでいるのは、そのためだと」
「殿下」
私はお声を低くした。
「ヴェロニカ様のご病弱が薬で作られていたのだとしても、殿下がヴェロニカ様を、私の隣の席より長く、お選びになってこられた事実は、別のことでございます」
殿下が再び言葉を呑まれた。
「ヴェロニカ様の薬は、ヴェロニカ様のご病弱の原因でございました。けれど、殿下が私よりヴェロニカ様をお選びになってこられた七年の原因では、ございません」
「セレスティア」
「殿下のお選びは、殿下ご自身のものでございました」
殿下は両手を膝の上で強く握られた。
「君は、僕を、責めるのか」
「責めては、おりません」
私は答えた。
「責めるためには、もう、七年が長すぎました」
殿下の頬から血の気が引いた。
私はそのお顔を見ていた。
七年、私が「君なら分かってくれる」と言われてきたお返しに、今日、私は殿下に、ただ事実を申し上げた。事実を申し上げる以上のことはしなかった。
「セレスティア」
「はい」
「僕は」
殿下が両手を顔に押し当てられた。
「僕は、間違えた」
殿下のお声が初めて震えた。
「間違えた、と言って、戻る場所は、もうない」
私は何も申し上げなかった。
「君なら、分かってくれる、と」
殿下が顔を押さえたまま、低くおっしゃった。
「七年、僕はそう言ってきた。今日、君に、もう一度、それを言いたかった」
「殿下」
私はお声を低くした。
「『君なら分かってくれる』は、私がお分かり申し上げてきたから、お続けになれたお言葉でございました」
「うん」
「今日、私は、お分かり申し上げることを、お返し申し上げます」
殿下が顔を上げられた。
頬がわずかに濡れていらした。
私はその涙を、見なかったことにしなかった。
七年、私はたくさんのものを、見なかったことにしてきた。
今日、私は見たことにした。
「殿下が私をお分かりくださるか、お分かりにならないか。それは、殿下のこれからの七年で決まることでございます」
私は立ち上がった。
「私の七年は、今日で終わりにいたします」
殿下は立ち上がられなかった。
椅子に座ったまま、顔をわずかに伏せられた。
私は深く礼をした。
応接室の扉に向かって、ゆっくりと歩いた。
扉を開ける前、一度だけ振り返った。
殿下はまだ椅子に座っていらした。
頬を両手で押さえていらした。
七年、私が殿下にお会いしてきた回数の、最後の一回が、これだった。
扉を閉めた。
廊下で、枢機卿閣下が私の少し後ろを歩いておられた。
「公爵令嬢」
「はい」
「お疲れでございましょう」
「はい」
「教会の応接室の奥に控えの間がございます。少しお休みなさいませ」
私は頷いた。
控えの間に通された。
長椅子があった。
私は長椅子に座った。
座って、しばらく何も考えなかった。
枢機卿閣下がご自身の手で、紅茶を淹れてくださった。給仕の修道士はおられなかった。
カップを私の前に置く時、枢機卿閣下は指の腹で縁の温度を確かめられた。
私はその仕草を見ていた。
「ありがとうございます」
「いえ」
枢機卿閣下が長椅子の、私とは反対側の端に座られた。私たちの間には、人が一人座れるだけの距離が、いつも通り空けてあった。
「公爵令嬢」
「はい」
「お見事でございました」
「いえ。お見事ではございませんでした」
首を振った。
「私は七年、ずっと、申し上げるべきことを申し上げてこなかったのです。今日、申し上げただけのことを『お見事』とお呼びくださるのは、お優しすぎます」
枢機卿閣下が少しだけ間を置かれた。
「七年、申し上げてこなかったお方が、今日、申し上げられたこと。それを私はお見事と申し上げました」
「ありがとうございます」
私は紅茶を口に含んだ。
ちょうど、私の好む温度だった。
「公爵令嬢」
「はい」
「教会本部より、戴冠前儀礼の延期の正式書簡を、王宮へお送り申し上げます。儀礼は、当面、保留となります」
「畏まりました」
「殿下のご即位は、保留の間、進みません。王家の中で、改めて、王太子のあり方について、ご検討が始まります」
「それは」
「廃太子の議論も、含まれます」
私は息を呑んだ。
「廃太子」
「王妃陛下のご意向は、すでに伺っております」
枢機卿閣下のお声は淡々としていた。
「王妃陛下は、ご決意なさっておられます」
「お母様が、そう」
「ええ」
私は紅茶のカップを両手で包んだ。
長椅子の革が、私が座っているところだけ温かかった。
応接室を退出する前、枢機卿閣下が、私を教会本部の門までお見送りくださった。
教会の馬車がすでに用意されていた。
「公爵令嬢」
「はい」
「明朝、王妃陛下が教会本部へお越しになります」
「王妃陛下が」
「ヴェロニカ嬢の検査結果の確認と、それに伴う、王宮内の調査について、お話がございます。あなた様のご臨席も、お願いしたいとのことでございます」
私は頷いた。
「畏まりました」
「明朝、教会の馬車をお迎えに上げます」
「お願い申し上げます」
馬車に乗り込もうとした時、枢機卿閣下が、ほんの少しだけお声を低くされた。
「公爵令嬢」
「はい」
「七年で初めて、夢をご覧にならない夜が、ございましたか」
私の指先がわずかに止まった。
七年前の冬の、雪の夜の夢を私が見たのは、二日前の夜だった。私が夢の中で、若い聖職者のお顔を見たことを、私は誰にも申し上げていなかった。
「ございました」
「左様でございますか」
枢機卿閣下が頷かれた。
「それは何よりでございます」
私はそれ以上、伺わなかった。
枢機卿閣下も、それ以上おっしゃらなかった。
馬車の扉が、ゆっくりと閉まった。
公爵邸に戻ると、玄関にマルタが立っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、マルタ」
「お父上が書斎にてお待ちでございます」
書斎に向かった。
父は暖炉の前の椅子に座っていらした。机の上に、今日の教会本部からの書簡の写しが置かれていた。
「セレスティア」
「お父様」
「終わったのか」
「殿下とのお話は、終わりました」
父が深く頷かれた。
「ご苦労だった」
「いえ」
父は紅茶のカップを私の方へ押し出された。
「飲みなさい。今夜は、お前のために温めてある」
私は紅茶のカップを両手で包んだ。
父の紅茶の温度は、いつもよりわずかに私好みだった。
「お父様」
「うん」
「殿下は廃太子になられる、かもしれません」
「うむ。聞いている」
「私の判断が、王家を傷つけるかもしれません」
「セレスティア」
父のお声は低かった。
「お前の判断ではない」
「お父様」
「お前の判断は、教会法に従って、聖女候補としての務めを果たしただけだ。傷つけたのは、お前ではない」
私は何も申し上げなかった。
「殿下がご自身の七年を、傷つけられた」
父は暖炉の火をご覧になっていらした。
「お前は、その傷をお引き受けにならなくてよろしい」
「お父様」
「うん」
「ありがとうございます」
私は紅茶を飲んだ。
紅茶はちょうど、私の好む温度だった。
寝台の脇に座って、私は応接室での殿下のお顔を、もう一度思い出していた。
頬を両手で押さえていらした、あのお顔。
七年で初めて、殿下が私の前で、ご自分の手を、ご自分の顔に押し当てられた。
七年、殿下が私の頬に、ご自分の手で触れてくださることはなかった。
私の顔は、私が自分で整えてきた。
殿下の顔は、今日、初めて、ご自分で整えていらした。
それでよかったのかもしれない、と思った。
それで、よかったのだろう。
灯を消す前、私は机の上の小箱を開けた。
紙片をもう一度見た。
「ヴェロニカ嬢の検査について、王妃陛下に正式書簡を申し上げました。返事は明朝。御身、お労りくださいませ」
差出人の名前のない短い文。
私はその紙片をもう一度、読み直した。
それから小箱に戻した。
戻してから、もう一枚、別の紙片を書いた。
「殿下とのお話を終えました。御身、お労りくださいませ」
差出人の名前は書かなかった。
朝、教会本部の馬車が来た時、馭者の修道士にお渡しすることにした。
灯を消した。
天井の梁の影が、暗い中で薄く見えた。
戴冠前儀礼まで、もうない。
戴冠前儀礼は、延期になった。
私の七年も、終わった。
その夜、私は夢を見なかった。
二夜続けて、夢のない眠りだった。
夢のない眠りは思っていたより深く、思っていたより長かった。
朝、目を覚ました時、窓の外はすでに明るかった。
雪が降っていた。
季節は初夏のはずだった。それでも、私の窓の外には雪が降っていた。
私はしばらく寝台の中から、雪を見ていた。
七年前の冬の、第七孤児院の前の雪を思い出した。
雪は温かかった。
夢の中で知ったことだったが、今朝、目覚めても、雪は温かいままだった。
季節外れの雪が、初夏の朝の空からゆっくりと降っていた。
私はしばらく雪を見ていた。
それから寝台から起き上がった。
今日は王妃陛下が、教会本部へお越しになる日だった。




