第六話 召喚状を返す
朝、私は教会本部へ向かう前に、書斎で父と短い時間を過ごした。
父は紅茶のカップを両手で包んでおられた。湯気が父の顔の前で、ゆっくりと立ち上っていた。
「お父様、行ってまいります」
「うむ」
父は頷かれ、それから私のほうへもう一度顔を向けられた。
「セレスティア。今日、お前が教会で何をお答えするにせよ、私はお前の選びを尊重する」
「ありがとうございます」
「ただ」
父は紅茶のカップを机の上に静かに置かれた。
「もし王宮から、教会のお返事に対して何か申し入れがあった場合、私はもう黙ってはおらん」
私は父の顔を見た。
父は暖炉の火を見ていらした。
「お前が六歳の春、私はお前との約束を結んだ。あの日から十六年、私は黙ってきた。お前が望むまで、私は介入しないと誓った」
父が紅茶のカップを、もう一度両手で包まれた。
「だが、誓いはお前を守るためのものだったはずだ。守るための誓いがお前を縛るのなら、私は誓いの方を破る」
私は何も言えなかった。
「行ってきなさい」
父は静かにおっしゃった。
「行ってまいります、お父様」
玄関でマルタが、私の外套を、いつもより少しだけ温く整えていてくれた。襟元を直す時、マルタが小さくつぶやかれた。
「お嬢様。今日のお務めが、お疲れになりませんように」
私は微笑んだ。
その「お疲れに」という言葉を、二日続けて別の人から聞いたのは、七年で初めてのことだった。
教会本部の応接室で、私は枢機卿閣下と大司教猊下の前に座った。
紅茶が運ばれてきた。
今日も枢機卿閣下は、指の腹でカップの縁に触れられた。一秒に満たない仕草だった。確かめてから、給仕の修道士に頷かれた。
私はカップを受け取った。手のひらに、温かさが、ちょうど私の好む温度で伝わった。
温度を、覚えていらっしゃるのだ。
二日続けて、同じ温度の紅茶だった。これは教会の作法ではない。私はもう、自分に嘘をつくのをやめた。
「公爵令嬢」
大司教猊下が穏やかにおっしゃった。
「お返事を、お聞かせください」
私は紅茶のカップを卓に戻した。
「教会のお務めを、お受けいたします」
大司教猊下が深く頷かれた。
枢機卿閣下が目を伏せられた。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、肩の力が抜けたお姿を、私は見た。気のせいかもしれない、と思ったが、気のせいではなかった気がした。
「ただし」
私は続けた。
「お引き受けの仕方について、お願いがございます」
「はい」
「お務めの分量と時期について、父と私で相談する時間をいただきとう存じます。婚約者としての立場が、まだ正式には解消されておりません。社交界に対する礼を尽くしたうえで、教会のお務めに移りたく存じます」
「畏まりました」
大司教猊下は私の言葉を、丁寧に受け止められた。
「公爵令嬢のお時間を教会のために頂戴することは、お父上のご許可があってのことでございます。私どもから、改めて、お父上宛に正式書簡を申し上げます」
「ありがとうございます」
私は礼を返した。
これで私の選びは、教会と私と父の三者の間で、確かなものになった。私の名前で、私の意思で、私の言葉で、結ばれた約束だった。
応接室を退出する前、枢機卿閣下が机の上の書類束を、私の方へ静かに押し出された。
「公爵令嬢、もう一つお伝え申し上げたいことがございます」
「何でございましょう」
「昨日、王宮よりあなた様宛の書簡が届いたと伺っております」
私は頷いた。
「殿下より、ヴェロニカ様の体調を理由に、王宮へお越しいただきたいと」
「ええ」
枢機卿閣下は卓の上で両手を重ねられた。
「教会法第七十三条には、聖女候補として正式に認証された者への、王宮からの直接の召喚について、定めがございます」
私は書類束を覗いた。
写しが一枚。教会法の条文だった。
枢機卿閣下がゆっくりと、低い声で読み上げてくださった。
「聖女候補として正式に認証された者は、教会の保護下に置かれる。王宮を含む世俗権力からの召喚は、教会本部を経由するものとする。本人の意思に反する召喚は、これを認めない」
「では」
「昨日、あなた様が教会のお務めをお受けくださると、まだお決めになる前の段階でございました。しかし、認証はすでに済んでおりました。よって、昨日の王宮からの書簡は、本来、教会経由で届くべきものでございました」
私は書類束の上に視線を落とした。
「王宮の書簡が教会を経由しなかったのは」
「王宮の文官が教会法を失念したか、あえて省いたか、どちらかでございます」
「あえて、省いた」
枢機卿閣下は頷かれた。
「教会としては、本日、王宮へ正式な抗議の書簡をお送り申し上げます。同時に、過去七年分の王宮慈善行事の記録の公開を、正式に請求いたします」
「七年分の記録」
「ええ」
私は息を整えた。
「それは、なぜ」
「あなた様の七年のお働きを、王宮側の記録と教会側の記録で照合するためでございます。両者に食い違いがある場合、王宮側の記録に誤りがあるということでございます」
私はしばらく考えた。
七年、王宮で私が差配してきた行事の記録は、私自身も写しを取って公爵邸に保管していた。教会も独自に寄付の受領記録を持っている。三つの記録を照合すれば。
「閣下」
「はい」
「もし、王宮側の記録に、私の差配ではないことになっているものがあった場合は」
「その時は、文書改竄ということになります」
枢機卿閣下は淡々とおっしゃった。
「文書改竄は王法上の処分の対象でございます。罷免、爵位の降格、家名の名誉の傷害、いずれもございます」
私は両手を膝の上で重ねた。
「分かりました」
「公爵令嬢」
「はい」
「あなた様のご意思を、伺います」
枢機卿閣下は卓の向こうから、私を見ておられた。
「教会法を発動し、王宮へ抗議書簡をお送り申し上げてもよろしゅうございますか」
私は考えた。
考えながら、紅茶のカップの縁を指で軽く触れた。
選んでよいのだ。
選ばなくてもよいのだ。
昨日、私が禁書庫で教えられたことだった。
「お願い申し上げます」
私は答えた。
「ただし、抗議書簡の中で、私が直接何かを糾弾する形は避けていただきたく存じます。教会の正式な手続きとして、お進めくださいますように」
「畏まりました」
枢機卿閣下が深く頷かれた。
「教会の名で、教会の手続きとして、お進めいたします」
応接室を退出する前に、私はもう一つお尋ねした。
「枢機卿閣下」
「はい」
「殿下のお書簡には、今日、お返事を申し上げないことになりますか」
枢機卿閣下は少しだけ間を置かれた。
「王宮への返事は、教会本部を経由して、明日、正式書簡として届きます。あなた様のお名前ではなく、教会本部のお名前で。内容は、聖女候補の召喚は教会経由とすること。先日の書簡は、教会法上、受理されなかったものとして処理いたします」
「私の」
「あなた様のお名前は、お出ししません」
私は息をゆっくりと吐いた。
七年、私は殿下からの「君なら分かってくれる」に、毎回、自分の名前で「承知いたしました」と返してきた。今日、初めて、私の代わりに、教会の名前がお返事をしてくださることになった。
私の名前を、私のために、私の代わりに、誰かがお返事をしてくださることになった。
長椅子の革の温度を、私はもう一度確かめた。
私が座っているところだけ、温かかった。
公爵邸に戻ったのは昼過ぎだった。
玄関でマルタが、いつもより少しだけ慌てていらした。
「お嬢様。お父上が書斎にて、王宮よりお越しの方をお迎えしておられます」
「王宮の」
「文官のお方が二名」
私は外套を脱ぎながら、視線をマルタに向けた。
「殿下のお遣いかしら」
「王妃陛下のお遣いとのことでございます」
「王妃陛下」
私は書斎へ向かった。
書斎の扉を開けると、父が暖炉の前の椅子に座っておられた。卓の向かいには、王宮の正装の文官が二名、深く礼をして立っていらした。
「セレスティア」
父が私を見上げられた。
「お前にも、お聞きいただきたい話がある」
私は会釈をして、父の隣の椅子に腰を下ろした。
文官のうち、年長の方が私に深く礼をされた。
「公爵令嬢。王妃陛下より、緊急の案件にて、ご報告がございます」
「お話しください」
「本日早朝、王宮内において、文官二名が、文書改竄の疑いにて、王妃陛下より罷免の処分を受けました。罷免された者はヘルメスとアウグスト。両名とも、過去七年間、王太子殿下の慈善行事の差配記録を、公的に整理する立場にございました」
胸の奥でかすかな音がした。
教会本部を出る前、枢機卿閣下が「王宮へ正式な抗議書簡を送る」とおっしゃっていた。
もう、王宮に届いたのだろうか。
いや、違う。
文官が「本日早朝」と言われた。私が教会本部で枢機卿閣下とお話しした時間より前のことだった。
「両名の改竄行為は、王妃陛下が、別件の調査の中で、ご自身でお気づきになられました」
文官が続けられた。
「公爵令嬢の差配されたとされる慈善行事の記録の一部に、ヴェロニカ・フェルマー嬢の関与を後付けで書き加えたもの、また、ヴェロニカ嬢の起こされた粗相を、公爵令嬢の差配上の不備として書き換えたものが、合計で十一件、確認されました」
十一件。
私は自分の指の温度を確かめた。冷たくはなかった。
「両名は本日早朝、即日罷免となりました。爵位の降格、家門の名誉の傷害については、王妃陛下が追って判じられます」
文官が深く礼をされた。
「公爵令嬢には、七年にわたり、王宮の記録の不備にてご名誉を損なわれましたこと、王妃陛下より、心よりお詫び申し上げるよう、承ってまいりました」
私は両手を膝の上で重ねた。
「畏まりました」
「公爵令嬢のお名前で改竄された箇所は、すべて本日中に修正されます。修正後の記録の写しを、後日、改めて、教会本部とエルムハルト公爵家、両者にお届けいたします」
「ありがとうございます」
文官が深く礼をして退出された。
書斎の扉が閉まると、しばらく誰も口を開かなかった。
「セレスティア」
父が暖炉の火を見たままおっしゃった。
「お前は知っていたか」
「いいえ。何のことでしょう」
「王宮の記録が書き換えられていたことを」
「存じませんでした」
私は答えた。
「ただ、私の方の写しは毎年、自分の手元に取っておりました。一致しないことが、いずれ表に出るのではないかと、ふとした時に思ったことはございました」
父はしばらく何もおっしゃらなかった。
「セレスティア」
「はい」
「お前は、自分の名前を七年、守ってきたのだな」
「いえ、お父様」
「いや、守ってきた」
父のお声は低かった。
「お前が毎年、自分の手元に写しを取ってきたことを、私は知らなかった。お前は誰にも、それを言わなかった。だが、お前は自分の働きの記録を、自分で取ってきた。それは、自分の名前を自分で守るということだ」
私は答えられなかった。
「お前は、ずっと独りで、自分の名前を守ってきた」
父がようやく、私のほうへ顔を向けられた。
「これからは、独りで守らなくてよい」
その夜、書斎で、もう一度、父と二人になった。
机の上には紅茶のカップが二つ。私のものと父のもの。今夜は私の好む温度に、父も合わせてくださっていた。
「セレスティア」
「はい、お父様」
「お前と約束を結んだ春の日のことを、覚えているか」
「うっすらと」
「お前は六歳だった。母が亡くなった春だ。私はお前にこう言った。父は娘の人生を決めない。お前が望むまで、私は介入しない、と」
「覚えております」
「私はその日、お前に誓った。お前は頷いた。頷いて、それから、私の上着の袖を、小さく握った」
私はその時のことを、おぼろげに覚えていた。父の書斎で、暖炉の前で、私は父の上着の袖を握っていた。母が亡くなった春のことだった。
「お前が、私の袖を握って、こう言ったのを、私は今でも覚えている」
父は紅茶のカップを、ゆっくりと卓に置かれた。
「『お父様、私はいつ望めばよいのですか』」
唇が一度、動こうとして、止まった。
そんなことを、私は言ったのだろうか。
父が頷かれた。
「六歳のお前はそう聞いた。私は答えられなかった。お前がいつ望むのか、私には分からなかった。私はただ、待つしかなかった」
父の目にわずかに、光るものがあった。
「セレスティア。十六年だ。私は十六年、お前が望むのを待った」
「お父様」
「もう、待たない」
父がまっすぐに私を見られた。
「お前がもう望んでいるのなら、私は介入する。約束の方を、破る。父として、お前を守る方を選ぶ」
私は両手で、紅茶のカップを包んだ。
「お父様」
「うん」
「私は、望んでおります」
私は答えた。
声が震えなかった。
「七年、私は自分の名前を、自分で守ってまいりました。これからはお父様にも、守っていただきとう存じます。一人で守るには、私の名前はもう、重うございます」
父が深く頷かれた。
「分かった」
それだけ、おっしゃった。
それで、十六年の約束は終わった。
そして、新しい約束が始まった。
翌朝、教会本部から正式書簡が王宮へ送られた。
夕刻、王宮からは教会本部宛に回答が届いた。
殿下の昨日の書簡は、教会法上、受理されなかったものとして処理する。王宮は以後、聖女候補への召喚を、すべて教会本部経由とする。文官二名の罷免は確定。記録の修正は本日中に完了する。
その夜、教会本部の応接室で、私はもう一度、枢機卿閣下とお会いした。
「公爵令嬢」
「はい」
「王宮の対応は、ご覧の通りでございます。王妃陛下が毅然とご判断くださいました」
「王妃陛下に、感謝申し上げねばなりません」
「王妃陛下も、長く、待っていらしたお方でございます」
「待っていらした」
「七年、ということでございましょうか」
枢機卿閣下がわずかに首を振られた。
「もっと長く、かもしれません」
私はその言葉の意味を、すぐには汲み取れなかった。
枢機卿閣下はそれ以上、おっしゃらなかった。代わりに卓の上に、もう一通の書簡を置かれた。
封蝋は教会のものではなかった。深い緑色。教会医のお名前が、差出人として記されていた。
「これは」
「教会医より、大司教猊下宛の内々の照会でございます。あなた様にはお見せ申し上げるべきと、私が判じました」
私は便箋を開いた。
短い書簡だった。
「大司教猊下。先日の王宮慈善夜会にて、献納席にお越しになったヴェロニカ・フェルマー嬢のご様子につきまして、教会医として、いささか気がかりな点がございます。お顔色、手の震え、扇の持ち方の不安定さは、社交慣れの欠如では説明がつきかねます。本人の意思によらない、長期の薬物の影響を疑う余地がございます。改めて、ご検査の機会をお願いしたく、御許可を伺います」
便箋を、もう一度読み直した。
「長期の薬物の」
「現時点で、申し上げられることはこれ以上にはございません」
枢機卿閣下のお声は慎重だった。
「教会医の所見でございます。確かなことは、検査の結果が出てから明らかになります」
「ヴェロニカ様が」
息を整えた。
七年、私はヴェロニカ様を、殿下を最優先する側の方として見てきた。けれど、もしかしたら、その方ご自身も、別の何かに、最優先されてこられたのかもしれない。いえ、別の何かに、利用されてこられた可能性が、あるということだろうか。
「枢機卿閣下」
「はい」
「もし、ヴェロニカ様が、何かを与えられて、病弱を作られていらしたのだとしましたら」
「現時点で結論を急がれることは、おすすめいたしません」
枢機卿閣下が首を振られた。
「ただ、お心の片隅にお留め置きください。今後、私どもが教会医の検査を進めてまいる中で、あなた様にもお知らせ申し上げる事柄が増える可能性がございます」
私は便箋を卓の上に、そっと戻した。
戻した便箋の紙の角が、わずかに折れていた。
私の手元で折ったのではない。最初から、折れていた。
教会医の手元で、急いで書かれたものだったのかもしれない。
私はその折れた角を、伸ばさなかった。
応接室を退出する時、枢機卿閣下が、私の外套をわずかに整えてくださった。
ご自分の手で、ではなかった。書記の修道士に目で合図をなさった。修道士が私の外套を取り、襟元を整えてくれた。整え終わると、修道士は深く礼をして退いた。
枢機卿閣下は扉の前で、私に向き直られた。
「公爵令嬢」
「はい」
「お父上に、よろしくお伝えくださいませ」
「畏まりました」
「今宵は、よくお休みになられますように」
「ありがとうございます」
私は深く礼をして、応接室を退出した。
廊下の途中で、もう一度振り返りそうになって、振り返らなかった。
七年、私は振り返らない練習を、十分にしてきた。
公爵邸に戻ると、玄関の卓に、もう一通、書簡が置かれていた。
差出人は教会本部。
宛名はエルムハルト公爵令嬢セレスティア様。
私は書簡を開いた。
封筒の中には便箋が一枚と、もう一枚、別の紙片が入っていた。
便箋には明日の予定について、簡潔に記されていた。教会本部にて、聖女候補としての正式なお務めの分担について、お父上を交えて打ち合わせる、という内容だった。
もう一枚の紙片には、別の筆跡で短く書かれていた。
「ヴェロニカ嬢の検査について、王妃陛下に正式書簡を申し上げました。返事は明朝。御身、お労りくださいませ」
差出人の名前はなかった。
けれど私には、誰の筆跡か分かった。
私はその紙片を、便箋とは別に、自分の小箱にしまった。
しまってから、自分が今、何をしたのか、改めて気づいた。
寝台の脇に、銀の細片が、まだ机の上に散っていた。
二日前、便箋の縁から零れたものだった。
私はその粒を、今夜も指で払わなかった。
集めもしなかった。
ただ、もう一粒、二粒、増えたのを見ていた。
灯を消す前、私は机の上のもう一つ別の便箋を見た。教会医からの内々の照会の写しだった。
ヴェロニカ様の体調に、長期の薬物の影響が疑われる、という記述。
私はその記述を、もう一度読み直した。
七年、私が最優先されなかった七年、ヴェロニカ様は別の何かに最優先されてこられたのかもしれない。
それはヴェロニカ様にとっても、私の七年と似た形の、別の重さだったのかもしれない。
私はその思いを、すぐに胸の奥へ畳んだ。
畳んでから、布の端がまた少しはみ出ているのに気づいた。
はみ出た端を、今夜は無理に押し込まなかった。
灯を消した。
天井の梁の影が、暗い中で薄く見えた。
戴冠前儀礼まで、あと二ヶ月と十七日。
その夜、私は夢を見なかった。
七年で初めて、夢を見なかった夜だった。
夢のない眠りは、思っていたより深かった。
そして、思っていたより温かかった。




