第五話 予言書の頁
教会本部の禁書庫は、本部の最も奥にあった。
私が案内されたのは、その日の午後だった。父との一夜の対話のあと、私は「一度だけ教会の話を聞きに参ります」と父にお伝えした。父は頷かれた。父が頷かれたあと、私が玄関を出るまでに、教会の馬車がすでに公爵邸の門前に停まっていた。早すぎる用意だった。けれど誰かが私のために、馬車を朝から待たせていてくださったのだろうと思うと、その早さに、私はあまり驚かなかった。
禁書庫の鍵は、大司教猊下がご自分の手で開けられた。
鉄の鍵が、古い錠の中で、思っていたより低い音を立てた。
「公爵令嬢、こちらへ」
大司教猊下に案内され、私は奥の小さな部屋に入った。書記の修道士がもう一つ別の鉄の鍵で、内側の扉を開けてくださった。中は湿気を避けるためか、空気が乾いていた。蜜蝋の燭台が二つ、控えめに灯っていた。
枢機卿閣下はすでに長卓の前にお立ちになっていらした。
「お越しくださり、ありがとうございます」
私は深く礼を返した。
卓の上には一冊の革表紙の書冊が置かれてあった。表紙は黒く、金箔の文字はほとんど擦れて読み取れない。背の革には、私が知らない紋章が一つだけ押されていた。
「先代聖女様が、晩年に遺された予言書でございます」
枢機卿閣下のお声はいつもよりわずかに低かった。
「これより先、お見せする頁は、本来、教会の聖務を負う者以外は触れることを禁じられております。本日、特にご許可を申し上げました」
「畏まりました」
私は両手を膝の上に重ねた。書冊に触れることは、まだなかった。
大司教猊下が頁を開いてくださった。
古い書体の文字が頁の上に並んでいた。
書記の修道士が低い声で読み上げてくださった。
「公爵家の娘が、王太子の隣ではなく、貧者の隣に立つ」
「火災の夜、子らの傷を癒す」
「七年の沈黙ののち、銀の封蝋が彼女を呼ぶ」
私はただ聞いていた。
火災。子らの傷。銀の封蝋。
私の七年が、七十年前の頁の上に、すでに書かれていた。
「公爵令嬢」
大司教猊下が頁から目を上げられた。
「ここに記されたことは、すべて、あなた様の七年と一致いたします。私どもはこの一致を、七年の間、外には申し上げず、ただ観察してまいりました」
「観察、と」
「教会には教義として定められた縛りがございます。次代の聖女と思われる者が現れた場合、教会は七年間、いかなる介入も控えること。それは、その者がご自身の自由意志で、慈悲を選び続けてこられたことを、確かめるための期間でございます」
私は息を整えた。
「七年、介入できなかったということは、私が軽んじられていた七年もご覧になっていらしたということでございますね」
大司教猊下が深く頷かれた。
「左様でございます」
「そうでございますか」
私は視線を頁に戻した。
「私が殿下の隣を譲り続けたことも、ご覧になっていらしたのですね」
「拝見しておりました」
「献納の儀の差配を私一人で何度も整えたことも」
「拝見しておりました」
「私が、自分の婚約者の生誕祝いの晩餐に、一人で着いたことも」
私の声は、自分でも驚くほど淡々としていた。
ただ、卓の縁に置いた指がわずかに、強く卓を押していた。
大司教猊下は黙って頷かれた。
「お辛い七年でいらしたことを、教会は承知しております。介入できぬ教義を、私どもは守ってまいりました。けれど、それがあなた様にとって長すぎる七年であったことは、私どもの責任でございます」
大司教猊下は両手を卓の上で重ねられた。
「申し訳ございませんでした」
教会の最高位の御方が、私の前で頭を下げられた。
私は「頭を下げないでください」と申し上げたかった。けれど、申し上げなかった。何かを言ってしまえば、それは許すという意味になってしまう気がした。今、許す準備は私の中にはなかった。
許さない準備もなかった。
ただ、その間に、私はいた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
蜜蝋の燭台の蝋が、低く垂れていった。
「公爵令嬢」
枢機卿閣下が初めて口を開かれた。
「お伺いしたいことがございます」
「はい」
「あなた様は七年、決められた予言をなぞっていらしたのではございません。あなた様ご自身が、毎朝、選び続けていらしたのでございます。火災の夜に毛布を積まれたのも、救貧院の石段を七年踏み続けていらしたのも、献納の卓の前に立ち続けていらしたのも、あなた様のご意思でございました」
「でも」
私はようやく言葉を返した。
「予言書に、すでに書かれていたのですよね。私がすることは」
「いいえ」
枢機卿閣下が静かに首を横に振られた。
「予言書に書かれていたのは、もしあなた様が選ばれた場合、こうなるであろう、ということでございます。あなた様が選ばれなかった場合、この頁は、ただの古い紙でございました」
私は頁をもう一度見た。
七十年前のインクで、薄く滲んだ文字だった。
「選ばれなかった場合」
「あなた様が十五歳の冬の夜、雪の中を引き返していらしたら、この頁は誰の予言にもなりませんでした」
「私は引き返しませんでした」
「ええ、引き返されませんでした。七年、引き返されませんでした。それはあなた様が選び続けていらしたということでございます。決められていたのではなく、選び続けてくださった結果、この頁が初めて意味を持ちました」
私は頁の上に手を置きかけて、置かなかった。
代わりに、自分の膝の上の手を、もう片方の手で軽く握った。
「枢機卿閣下」
「はい」
「もう一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何なりと」
「七年の沈黙が、自由意志を試す期間であるとおっしゃいました。その七年の最後の年に」
息を整えた。
「私が選ばれなかった場合は、どうなりましたか」
枢機卿閣下が少しだけ間を置かれた。
「もし、あなた様がご自身の意思を捨てていらした場合、と仰せでございますか」
「はい」
「その場合、教会は何もいたしません」
低い声だった。
「次代の聖女は、また別の場所で、別の七年をかけて探されることになります。先代聖女が亡くなられてから、すでに七十年が経っております。私どもは、四代、何もせず、待ってまいりました」
「四代」
「いえ、申し上げ方を間違えました。何もしなかったのではございません。四人の候補者をお見送りいたしました」
私は息を呑んだ。
「四人、いらしたのですね、私の前に」
「お一人は、お命を落とされました。お一人は、ご結婚なさり、別のお務めをお選びになりました。最後のお一人は、七年の最後の年に、教会本部へお越しになることを拒まれました」
「拒まれた」
「『私の人生は、私のものでございます。教会のお務めはお受けできません』とおっしゃいました。教会はそれをお受けいたしました。私どもはお引き止めしません」
私は卓の縁を軽く指で押した。
「では、私が今、お断り申し上げても」
「お受けいたします」
枢機卿閣下が即座にお答えになった。
「すぐにお受けいたします。あなた様のお時間と、お命と、お選びを、教会はお取りいたしません」
私はしばらく、何も言えなかった。
教会の禁書庫の中で、私は自分の選びを、初めて、外側から見せていただいていた。
私は選んでよかったのだ。
そして、選ばなくてもよかったのだ。
七年、私はその両方を持ったまま、生きていなかった。「殿下のご名代だから」「公爵家の娘だから」「婚約者だから」、選ぶ前にすでに役割が与えられていた気がしていた。
けれど本当は、選んでいた。
毎朝、毎夜、毎冬の雪の中で、選び続けていた。
「公爵令嬢」
大司教猊下が立ち上がられた。
「もう少しだけこちらでお過ごしください。書冊についてご質問がございましたら、いつでも。私は隣の部屋に控えております。なお、お知らせ申し上げておきますと、先代聖女の予言書の写しは、隣国教会本部にも伝わっております。聖女就任の際は、隣国より祝賀の使節がお越しになる慣例でございますので、お心の片隅に」
「畏まりました」
大司教猊下が書記の修道士と共に退出された。
禁書庫の小さな部屋に、私と枢機卿閣下の二人になった。
蜜蝋の燭台がわずかに音を立てて燃えていた。
私は自分が立ち上がるべきなのか、座っているべきなのか、分からなくなった。
「公爵令嬢」
枢機卿閣下が卓を回り、私のほうへ来られた。少し離れたところで立ち止まられた。
「無理にお話しいただかなくてよろしゅうございます。今日は頁をご覧いただきましたので、もうよろしゅうございます」
「いえ」
私は首をわずかに振った。
「もう一つだけ、伺いとうございます」
「何なりと」
息を吸った。
吸ってから、出すまでに一拍止まった。
「教会の御方々は七年、ご覧になっていらしたのですよね。私が軽んじられている場面も」
「ご覧になっておりました」
「殿下がヴェロニカ様を最優先になさるのも、ご覧になっていらしたのですよね」
「ご覧になっておりました」
「では、その七年、私が」
私は唇を軽く噛んだ。
噛んでから、自分が今、唇を噛んだことに気づいた。十五歳の時、母を喪った直後に、何度かした癖だった。父と約束を交わした春の日、父の前で、私はもう唇を噛むまいと自分に誓った。誓ったきり、七年噛まなかった。
七年ぶりに、私は人前で唇を噛んだ。
「七年、私が辛うございましたことを」
声が思ったより低かった。
「ご覧になっていらしたのですよね」
「ご覧になっておりました」
枢機卿閣下のお声は、変わらず静かだった。
「ずっと、ご覧になっていらしたのに、お声をかけてくださらなかったのは」
「教義に縛られておりました」
「教義」
「ええ」
「教義は、私をお疲れにすることがおできになるのですね」
私は自分の言葉に、自分で驚いた。
そんなことを口に出すつもりはなかった。
枢機卿閣下は少しの間、何もおっしゃらなかった。
それから、ゆっくりと首を縦に振られた。
「ええ」
私は息を吐いた。
長い息だった。
「お疲れになったでしょう」
枢機卿閣下が低くおっしゃった。
私の答えを急かさず、待っていらした。
噴水の前で、私の続きの言葉を急かさずに待ってくださった時と、同じ間だった。
私は答えた。
「疲れて、しまいました」
声に出して、初めて、自分がそれを言えたことを知った。
二十二の誕生日の夜、自室の鏡の前で「私の二十二の春は、ここで終わるのですね」と独りで言った。あの時の声と、今の声は似ていた。けれど違うのは、今、聞いてくださっている方がいたことだった。
私はもう、独りで言わなくてもよかったのだ。
枢機卿閣下が卓のもう一方の側で、少しだけ肩を落とされた。
「公爵令嬢」
「はい」
「無理をなさいませんように」
「はい」
「明日、もし、教会のお務めをお受けにならないとおっしゃるなら、私はそのお気持ちを、すぐ大司教猊下にお伝えいたします」
「明日」
「ええ」
「明日、お返事を申し上げます」
私はようやく立ち上がった。
立ち上がる時、卓の縁を軽く手で押した。
退出する前、もう一度、予言書の頁を見た。
七十年前のインクの上に、私の七年が薄く重なっていた。
「明日、お返事を申し上げます」
枢機卿閣下が頷かれた。
「お待ち申し上げます」
馬車で公爵邸に戻ったのは夕刻だった。
玄関にマルタが立っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、マルタ」
「お父上が書斎にてお待ちでございます」
書斎に向かおうとした私を、マルタがほんの少しだけ引き止めた。
「お嬢様」
「何かしら」
「玄関の卓に、王宮よりお遣いの書簡がございます。本日の午後にお届けがございました」
「王宮」
玄関の卓に近寄ると、緋色の封蝋が押された書簡が、銀盆の上に乗せられていた。
差出人は王太子ジュリアン・ヴァイス・グランツライヒ殿下。
宛名は公爵令嬢セレスティア。
私は書簡を開いた。
筆跡は殿下のお筆だった。
「セレスティア。明朝、王宮にて、改めて話を聞きたい。ヴェロニカの体調が、君を必要としている。君ならば、分かってくれると思う。ジュリアン」
私は書簡をもう一度読み直した。
「君ならば、分かってくれる」
七年で、いくつ聞いた言葉だろう。
数えたら何かが折れる気がしていた、と昨日まで私は思っていた。今日、私は初めて、数えなくてよいのだと知った。
数えなくてよい。
選ばなくてもよい。
選んでもよい。
書斎の扉を、私は開けた。
父は暖炉の前の椅子に座っていらした。机の上には、もう一通、別の書簡が置かれていた。教会本部からの正式書簡だった。
「お父様」
「セレスティア」
父が私を見上げられた。
「明日、私は」
息を整えた。
「明日、私は王宮には参りません」
父の目がわずかに開かれた。
「教会の御許へ参ります。聖女のお務めについて、お返事を申し上げます」
父はしばらく黙っていらした。
それからゆっくりと頷かれた。
「お前が選んだのだな」
「はい、お父様」
「殿下のご名代として、ではなく」
「私の名前で」
父はもう一度頷かれた。
「セレスティア」
「はい」
「お前は」
父が何かを言いかけて、口を閉じられた。
それから暖炉の火を、しばらくご覧になった。
「すまなかった」
父のお声は低かった。
「私はお前との約束を守ってきた。けれど約束を守るために、お前を七年待たせてしまった。父として、それはすまなかった」
私は書斎の入口で立ち止まっていた。
「お父様」
「うん」
「私の選びを、待っていてくださって、ありがとうございました」
父が私のほうへ顔を向けられた。
暖炉の火が父の頬を照らしていた。父の目にわずかに光るものがあった気がしたが、私はそれを見なかったことにした。
七年、見なかったことにしてきた、たくさんのものの代わりに。
その夜、寝台の脇に座って、私は机の上の銀の細片をもう一度見た。
昨夜、便箋の縁から零れた銀の蝋の細片。
私はその粒を指で払わなかった。
集めなかった。
ただ、そこに置いておいた。
灯を消す前、私は自分に小さな声で言った。
「明日、私はお返事を申し上げます」
声に出して、言った。
独りで言った。
けれど独りで、ではなかった気がした。
灯を消した。
天井の梁の影が、暗い中で薄く見えた。
戴冠前儀礼まで、あと二ヶ月と十八日。
王宮からの書簡は、机の上に開いたまま置いてあった。「君ならば、分かってくれる」の一節が、燭台の最後の光にわずかに照らされていた。
私はその一節をもう一度だけ、暗闇の中で心の中で読んだ。
そして、明日、もう一度、読み直しはしないと、自分に決めた。




