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乳姉妹優先の殿下へ。私、次代の聖女に選ばれましたのでお別れです  作者: 九葉(くずは)


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第四話 救貧院の朝

翌朝、王宮の回廊はいつもより人気がなかった。


王妃陛下のお呼びは辰の刻だった。私が回廊の角を曲がった時、向こうから礼装に身を包まれた殿下が歩いていらした。


「セレスティア」


呼び止められて、私は立ち止まり、礼をした。


「ジュリアン殿下。おはようございます」


殿下は私の前まで来られた。昨夜の夜会の頬の赤みは、もう引いていた。けれど、お声にはいつもより一拍、間があった。


「君に頼みがあるんだ」


頼み、という言葉を殿下のお口から聞くのは、七年で初めてだった。いつも、頼みは「君なら分かってくれる」に翻訳されてから、私のところへ届いた。


「何でございましょう」


「明日の救貧院の視察なんだが」


視察の日程は私の手帳にも記されていた。王太子のご名代として王都南の救貧院を訪れ、寄付の差配と新しい施設の見回りをする。例年の務めだった。例年、私が「ご名代として」差配をする務めだった。


「ヴェロニカが、また体調を崩したらしくてね」


殿下のお声がほんの少し早くなった。


「昨夜の夜会で、慣れない場に出てくれたものだから。今朝、薬院に運ばれたよ。それで、明日の視察なんだが」


「殿下」


私は殿下のお言葉を、初めて遮った。


殿下が一瞬、目を見開かれた。私自身も自分の声に驚いた。


「王妃陛下より、今朝、お呼びがございます。お話を伺ってから、お返事を申し上げたく存じます」


殿下は私を見つめられた。それからわずかに頷かれた。


「ああ。そうだな。母上のお話を、聞いてからで」


殿下がもう一度何か言いかけて、やめられた。私の脇を通り過ぎる時、振り返ってこうおっしゃった。


「セレスティア。昨夜はありがとう。差配、見事だった」


「お役目でございます」


殿下はそれきり、もう振り返らずに行かれた。


ご名代を、と昨日までならおっしゃっていただろう言葉を、今朝はおっしゃらなかった。気づいておっしゃらなかったのか、忘れておっしゃらなかったのか、私には分からなかった。



王妃陛下のお部屋で待っていらしたのは、王妃陛下お一人ではなかった。


大司教猊下と枢機卿閣下が、いらした。


朝の光が窓から差し込み、王妃陛下の卓の上にいくつかの書類が置かれていた。私は深く礼をして、勧められた椅子に腰を下ろした。


「セレスティア」


王妃陛下のお声は、昨夜よりいくらか落ち着いておられた。


「今朝、急にお呼び立てしたのは、二つ理由があります」


「はい」


「一つは、ヴェロニカ嬢の昨夜の振る舞いについて。もう一つは、教会から、改めてご紹介すべきお話があるとのことです」


王妃陛下はヴェロニカ様についての話を、簡潔にお進めになった。王宮薬院から取り寄せた体調報告書には、ここ三月、ヴェロニカ様の体調が安定しないこと、特に夜会後に倦怠と微熱を訴えられることが多いことが記されていた。


「したがって、当面、王宮主催の慈善行事への参加は、控えていただきます。これは医師の判断でもあります」


「畏まりました」


「次に」


王妃陛下は大司教猊下のほうに視線を向けられた。


大司教猊下が穏やかに頷かれた。


「公爵令嬢。昨日、教会本部にて、聖女候補としての認証を受けていただきました。本日はその旨を王妃陛下に正式にお伝え申し上げました」


私は王妃陛下のお顔を見た。


驚かれた様子はなかった。


「セレスティア」


「はい」


「あなたが聖女候補として教会に呼ばれることを、私は予想しておりました。完全にではないけれど」


王妃陛下のお声が低くなった。


「七年前の冬、火災の夜、あなたが家を出られたあと、私は侍女に、教会へ駆けつけた人々の名簿を取り寄せさせました。十五歳の婚約者が、夜半に火災現場へ向かったことを、私は知っておきたかったのです」


私は何も言えなかった。


七年前の冬、十五歳の私が、夜会の支度の途中で雪を頭に被って馬車に乗ったあの夜のことを、王妃陛下が見ていらしたとは、知らなかった。


「あの時から、ずっと」


「ずっと、見ておりました。私は王妃ですから、見るしかできない場面が多うございました」


王妃陛下はそうおっしゃってから、わずかに息を整えられた。


「これからは、教会のお務めもおありになる。慈善行事の差配は、これまで通り、あなたにお願いしたい。ただし、王太子のご名代という形式は、本日をもって改めます」


「と、おっしゃいますと」


「あなたご自身のお名前で、差配なさいなさい。王太子のご名代としてではなく」


部屋の空気がわずかに変わった気がした。


枢機卿閣下が、私の少し斜め後ろで、わずかに頷かれた気配があった。気配だけだった。


「畏まりました」


私は深く礼をした。



王妃陛下のお部屋を退出する時、廊下で大司教猊下が私に声をかけてくださった。


「公爵令嬢。明日の救貧院の視察、教会の馬車をご用意申し上げます」


「明日の」


私は息を整えた。


「殿下からは、ヴェロニカ様の代わりにご名代を、と承りかけたのですが」


「王妃陛下より、ただいま、形式の変更について承りました。あなた様ご自身のお名前で行かれるなら、教会の馬車のほうが、よろしいでしょう」


大司教猊下はそれだけおっしゃると、深く礼をして退かれた。


枢機卿閣下が、廊下の少し先で私を待っていらした。


「公爵令嬢。明日の視察、私も同行をお許しいただけますか」


「同行」


「救貧院は教会の管轄でもございます。聖女候補のお務めとしても、ご一緒するのが筋でございます」


私は頷いた。


「お願いいたします」


枢機卿閣下は礼をされ、それから、もう一言、低く付け加えられた。


「公爵令嬢。お疲れでございましょう。明日まで、無理をなさいませぬよう」


私はお礼を返した。


返してから、その言葉をもう一度、自分の中で繰り返した。


お疲れでございましょう。


七年で、誰からも、言われなかった言葉だった。



翌朝、教会の馬車が公爵邸の門の前に止まった。


馭者は教会の修道士で、馬車の屋根には教会の紋章が控えめに彫られていた。馬車の中には、薄い羊毛の膝掛けと、湯気の上がる白磁の水筒が用意されていた。


私が乗り込むと、すでに枢機卿閣下が向かいの席に控えていらした。


「おはようございます、公爵令嬢」


「おはようございます」


私は自分の声が、いつもより少しだけ柔らかいことに、自分で気づいた。気づかないふりをして、膝の上に手を重ねた。


馬車が走り出した。王都南へ向かう道は、朝の市場の往来でわずかに混んでいた。窓の外を、籠を担いだ女たちと、荷を引く驢馬が通り過ぎていく。


「水筒の中身は温い葛湯でございます。お好みで」


枢機卿閣下が白磁の水筒を私の方へ、わずかに押し出された。


「ありがとうございます。後でいただきます」


「私が給仕の真似事をいたしましょう」


枢機卿閣下がご自分の手で水筒の蓋を開けられ、小さな碗に葛湯を注がれた。それから指の腹で碗の縁に触れられた。一秒に満たない仕草だった。確かめてから、私に差し出された。


私はその仕草を二度目に見た。


一度目は教会本部の応接室だった。修道士が控えていたから、彼の作法かと思った。今朝、修道士はいない。それでも彼は同じ仕草をなさった。


あれは、教会の作法ではないのかもしれない。


そう思ってから、その思いをすぐに胸の奥へ畳んだ。畳んでも、しまいきれない布のように、端が少し、はみ出ていた。


「ありがとうございます」


碗を受け取り、口をつけた。葛湯は、ちょうど私の好む温さだった。



王都南の救貧院は、石造りの古い建物だった。


入口の石段は、長年踏まれて、真ん中の段だけがわずかにすり減っていた。私が馬車から降り、その段に靴を載せた時、入口で待っていらした老修道女がにっこりと微笑まれた。


「セレスティア様。いつもの段でございますね」


「マグダレーナ修道女様」


私は深く礼をした。マグダレーナ修道女は七年前から、この救貧院の采配をなさっていた。八十に近いと伺っているが、背筋はまだ伸びていらした。


「公爵令嬢」


私の後ろから枢機卿閣下が馬車を降りられた。


マグダレーナ修道女は枢機卿閣下にも深く礼をされた。それから、私のほうへ、もう一度、視線を戻された。


「セレスティア様。今日はあなた様のお名前で、いらしてくださったと伺いました」


「はい」


「では、こちらへ」


マグダレーナ修道女が、私を救貧院の中へ案内された。



廊下を進むと、寝床の並ぶ広間に出た。


老人たち、母を喪った子供たち、足を悪くした男たち。七年で顔ぶれは変わっていた。けれど、私が顔を知っている者もいた。


「セレスティア様」


寝床の中から、痩せた老婆が手を伸ばされた。


「今日はいらしてくださったのですね」


「アンナお祖母様、お久しぶりでございます」


私はその手を取った。アンナお祖母様の手は骨ばっていて、けれど覚えのある温度だった。三年前、私はこのお祖母様に湿布を貼ったことがあった。


「殿下のご名代として、ですか」


老婆が笑いながら尋ねられた。


「いえ」


私は答えた。


「今日は、私の名で参りました」


老婆はしばらく私を見つめられた。それからゆっくりと頷かれた。


「ようやくでございますね」


ようやく。


その言葉に、私は何も返せなかった。



広間を一回りし、寄付の差配を確認し、新しい寝床の差し入れの確認を終えた後、マグダレーナ修道女に案内された応接室で、私は腰を下ろした。


「セレスティア様」


マグダレーナ修道女が両手を膝の上で重ねられた。


「七年、感謝申し上げてまいりました。今日は、改めて、お礼を申し上げます」


「マグダレーナ修道女様。私の務めは」


「殿下のご名代としてのお務め、と仰せになりますか」


修道女は私の言葉を、優しく遮られた。


「セレスティア様。私たちは修道女でございます。書類の文字は読めても、書類の中の心は読まないのが務めでございます。けれど、書類でない場所で、私たちは心を読みます」


私は浅く息をした。


「殿下のお名前で寄付が届きました。七年で、五百を超える品が、王太子殿下のお名前で。けれどその品をどこに置くか、誰の手に渡すかをお決めになっていたのは、ずっとセレスティア様お一人でございました」


「修道女様、それは」


「申し上げます」


修道女が両手を膝の上で重ね直された。


「私どもはずっと、感謝申し上げる相手を間違えてまいりました。お名前の上では殿下。けれど、私どもの心の中ではずっとセレスティア様。今日、あなた様がご自身のお名前でいらしてくださって、私どもはようやく口に出して感謝を申し上げられるようになりました」


修道女の目元にわずかに皺が深くなった。


「セレスティア様。本日、改めて感謝申し上げます」


「修道女様」


私は問いを一つ呑み込んでから、別のことを尋ねた。


「北の収容所のヤーコブお祖父様は、お変わりございませんか」


「左様でございますね、シスター・ローザに、ヤーコブ様のご様子は便りで届いておりますが、近頃は足の傷がなかなか乾かないとのことでございました。来月、私もお見舞いに参る予定でございます」


私は頷いた。今朝、扉を出る時に父が「セレスティア、北のヤーコブはどうしているのか」と尋ねてくださったのを思い出した。父は私の七年の務めの隅々まで、見ていてくださっていたのだ。


礼を返した。返した礼の角度を、いつもより深くしたかどうか、自分でも分からなかった。


枢機卿閣下が応接室の隅で、お立ちになっていらした。


私が顔を上げた時、彼は窓の外を見ていらした。私と目を合わせない、というよりは、私が修道女の言葉を受け止める時間を、邪魔されないようにしていらした。気配でそれが分かった。



救貧院を出た時には、もう昼を過ぎていた。


帰りの馬車に乗り込もうとした時、枢機卿閣下が馭者の修道士に何かをお伝えになった。修道士が頷き、別の小道へ馬車を回した。


「公爵令嬢、少しだけ別の道を通ってもよろしいでしょうか」


「構いません」


馬車が王都の南の外れの、小さな広場に出た。広場には噴水と、その脇に低い長椅子が一つあった。


「お降りになりますか」


「はい」


私は馬車を降りた。


噴水の水音が聞こえた。広場には人がほとんどいなかった。冬の終わりの陽射しが、長椅子の背を温めていた。


「ここでお休みなさいませ」


枢機卿閣下が長椅子を勧めてくださった。


「公爵令嬢。あなた様は、無理を強いられていらっしゃる」


低い声だった。


「いえ。私はお役目を」


「お役目、と申されますが」


枢機卿閣下が、長椅子のもう一方の端に座られた。私との間に、人が一人座れるだけの距離が空けてあった。


「セレスティア様」


初めて、名前で呼ばれた。


呼吸が一拍止まった。


「お疲れになる権利が、あなた様にはございます」


それだけ、おっしゃった。


私は噴水を見ていた。水の音は、思っていたより低かった。


「私は」


声が出た。自分でも出るとは思っていなかった。


「殿下のご名代として、と何度も呼ばれてまいりました。今日、王妃陛下より、自分の名前で行きなさい、とお許しをいただきました。けれど、長く呼ばれた名前を、急に外す方法を、私は知らないのです」


枢機卿閣下は頷かれた。何もおっしゃらず、ただ頷かれた。


「ご名代、という名前のほうが、私には楽でございました。私の名前で何かを成すことは」


私はそこで言葉を止めた。


止めた言葉の続きを、枢機卿閣下は待っていらした。急かされなかった。続きを言わなくても、それでよろしいというお顔でいらした。


私は続きを言わなかった。


噴水の水音だけが、しばらく二人の間にあった。



公爵邸の門の前で馬車を降りた。


枢機卿閣下が馬車の中から礼をなさった。私も礼を返した。


「明日、教会本部より、改めてお父上宛にご挨拶の書簡が届きます」


「畏まりました」


「公爵令嬢。今日のお務め、お疲れさまでございました」


「ありがとうございます」


馬車がゆっくりと去っていった。


私は門の前で、馬車の影が消えるまで立っていた。



玄関にマルタが待っていた。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


「ただいま、マルタ」


「お父上が書斎にてお待ちでございます」


書斎に向かった。父は暖炉の前の椅子におられた。机の上に一通の正式書簡が置かれていた。


封蝋は銀ではなく、深い緑だった。


教会本部からの父宛の書簡。


「セレスティア」


父は書簡を私の方へ、わずかに押し出された。


「読んでみなさい」


私は便箋を取り上げた。


本文は短かった。エルムハルト公爵殿下宛、と冒頭にあった。本日、公爵令嬢セレスティア様におかれましては、王都南救貧院の差配をご自身のお名前にて滞りなくお務めになられました、と続いた。教会本部は改めて、その七年の御功績に感謝申し上げます、と。


そして、こう続いていた。近日中に、聖女候補としてのお務めに関する正式なご相談を、改めて公爵殿下宛に申し入れます。ご令嬢のお時間を、教会のお務めのために、どれほどお分け頂けるか。ご検討のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。


枢機卿アロイス・フォン・リンデンベルク。


私は便箋を机の上に静かに戻した。


父は暖炉の火を見ていらした。


「セレスティア」


「はい、お父様」


「お前は、もう七年、十分に務めた」


父のお声はいつもより低かった。


「ただ、私はお前との約束を、まだ守らねばならん。お前が望むまで、私は介入しない。私はそう、お前に誓った。十六年、私はその約束を守ってきた」


「お父様」


「だから、聞かせてくれ」


父はようやく、私のほうへ顔を向けられた。


暖炉の火が父の頬を照らしていた。父の目は、私が見たことのない深さで、私を見ておられた。


「お前は、何を望むのだ」


私は答えなかった。


すぐには答えられなかった。


ただ机の上の便箋を、もう一度見た。


枢機卿アロイス・フォン・リンデンベルク。


その署名の上で、銀の粉が便箋の縁にわずかに散っていた。封を切った時に落ちた、銀蝋の細片だった。


私はその細片を指で払わなかった。


しばらく見ていた。


「お父様」


「うん」


「明日、もう一度、考えてもよろしいでしょうか」


「もちろんだ」


父はそれきり、何もおっしゃらなかった。


私は書斎を退出した。


廊下で、マルタが私の上着を受け取ってくれた。マルタは私の顔を見て何も言わなかった。それから、ほんの少しだけ首を傾けてこうおっしゃった。


「お嬢様。今夜のお食事は、温かいものをご用意いたしました」


「ありがとう、マルタ」


私室に戻り、寝台の脇に座った。


机の上に、銀の細片がまだわずかに散っていた。先ほどの便箋の縁から零れたものだった。


私はその粒を指で払わなかった。


しばらく見ていた。


七年で初めて、誰かが私に「お疲れでございましょう」と言ってくださった。


その方の名前を、私はもう知っていた。


知っているということを、自分に許すかどうかは、別の話だった。



灯を消す前、私は寝台の脇の小卓に、今日いただいた書簡の写しを置いた。原本は書斎の父の机の上にある。写しは、マルタが私のためにもう用意してくれていた。


写しの上の枢機卿閣下のご署名を、もう一度だけ見た。


それから灯を消した。


天井の梁の影が、暗い中で薄く見えた。


戴冠前儀礼まで、あと二ヶ月と十九日。


その夜、私は噴水の水音を、夢の中でもう一度聞いた。


水の音は、思っていたより低かった。


そして、長椅子のもう一方の端に、誰かが座っていた。


夢の中でも、二人の間には人が一人座れるだけの距離が空けてあった。


その距離が夢の中で、ほんの少しだけ優しかった。

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