第三話 慈善夜会の供物
王宮からの招きは、慈善夜会の差配についての打ち合わせだった。
戴冠前儀礼まで三月。その前哨として、王宮主催の慈善夜会が三日後に大広間で開かれる。例年通り、孤児院と救貧院への寄付を募り、献納の儀を行う。差配は例年通り私が承る。
招きを告げる文官に、私は「承知いたしました」と返した。文官は深く礼をして退いた。父は書斎で何も言わなかった。一度だけ私の顔を見て、それから書類に視線を戻された。それで充分だった。
夜会当日の夕刻、王宮の大広間は銀の燭台が並べられ、磨かれた床に光が落ちていた。
私は早めに来て、献納の品の最終確認をした。盆の数、香炉の置き場、聖別塩の小匙、献納用の銀杯。すべて記憶通りに並んでいる。例年と寸分違わない配置にするのが、私の七年の仕事だった。
「セレスティア様」
声をかけてきたのは、ヴェロニカ様だった。
淡い桃色のドレスに、首には殿下から贈られたのだろう、緋色の宝石の首飾り。価格を口にするのもはばかられる品だった。婚約者である私の首にあるのは、母の形見の真珠。それでよかった。それで、よかったはずだ。
「私もお手伝いするわ」
ヴェロニカ様はそうおっしゃると、献納の盆の周りを覗き込まれた。
「これが聖別塩? 可愛らしい入れ物ね」
「お手を触れぬよう、お願いいたします」
私は短く答えた。ヴェロニカ様は唇を尖らせ、それから笑った。
「冷たい言い方。ねえセレスティア様、供物匣の鍵だけでも、私にお預けにならない? 殿下にね、『私もお手伝いしたのよ』と申し上げたいの」
供物匣の鍵。
献納用の聖別塩、聖油、香木の小片を収めた銀の匣の鍵。鍵の管理は、献納儀礼の責任を負う者に王妃陛下より直接お命じいただいた務めだった。例年、私が直接最後の確認まで持っているものだった。誰かに預けたことはない。
私は扇の縁に視線を落とした。
「殿下のお手伝いとしては、すでに首飾りを身につけていらっしゃることが、何よりの貢献かと存じます」
ヴェロニカ様の顔から、笑みがほんの少し引いた。
「セレスティア様、皮肉でいらっしゃる?」
「いえ。事実を、申し上げております」
私たちのやり取りを、控えていた案内係が見ていた。背後の柱の影で、若い文官が二人、何かを話していたのが、ちょうどそこで止まった。
ヴェロニカ様は扇を開いた。
「鍵だけ。本当に鍵だけよ」
「ヴェロニカ嬢」
低い声がした。
殿下だった。礼装に身を包まれた殿下が、いつのまにかヴェロニカ様の背後に立っていらした。私はすぐに礼をした。
「ジュリアン殿下」
「殿下、聞いてくださって。私もお手伝いをしたいだけなのに、セレスティア様が」
殿下は私のほうをご覧になった。
「セレスティア。彼女がそう言うなら、鍵ぐらい預けてやってくれないか。君なら分かってくれるだろう」
君なら、分かってくれる。
私は扇の縁をわずかに握り直した。
「殿下」
「ん?」
「献納の儀の差配は、王妃陛下より私に直接お命じいただいた務めでございます。鍵の管理も含まれます。預ける場合は、王妃陛下のご許可が必要でございます」
殿下は一瞬、私を見つめられた。
「ああ。そうだったな」
「左様でございます」
殿下は何か言いかけて、やめられた。ヴェロニカ様は唇を結び、それから急に肩を落とされた。
「私、出すぎたことを申しました。お許しになって、セレスティア様。お手伝いしたかっただけなの」
殿下がヴェロニカ様の肩に手を置かれた。
「気にしなくていい。お前は座って待っていなさい。後で僕が、隣で見ていてやろう」
私はその光景を、もう何度目かわからない感情で見た。感情の名前を、つけたくはなかった。
夜会が始まる頃には、広間に客が満ちていた。
王妃陛下が王座に近い席にお着きになる。教会代表として、大司教猊下と、もう一人、枢機卿閣下が最前列の右端にお座りになっていた。
私は息を吸った。
枢機卿閣下は私と目が合うと、わずかに頷かれた。挨拶ではない。それは、もっと別の、控えめな何かだった。私も視線だけで返した。
献納の儀が始まった。
大司教猊下が祭壇代わりの卓の前に立たれ、低い祈祷を始められた。私は卓の傍に控え、合図に合わせて聖別塩の銀杯を運ぶ。手順は頭ではなく、指が覚えていた。
ところが、盆の上に並んだ銀杯が二つあった。
一つは聖別塩の杯。もう一つは、献納後に大司教猊下が清めの所作にお使いになる、調理用の岩塩の杯。普段は離れた場所に置く。
今夜、それが並んで置かれていた。
私の心臓が一度だけ強く打った。
並べたのは誰だ。
視界の隅で、ヴェロニカ様が殿下の隣の席で身を乗り出していらした。彼女の手に、小さな紙片のようなものが握られていた。供物匣の鍵ではない。「お手伝いの覚書」と書かれた、誰かの手書きの紙だった。私の筆跡ではなかった。
あの方は、私が拒んだ鍵の代わりに、別の何かを「お手伝い」になっていたのか。
ヴェロニカ様の指が、卓の上の紙片の指示を辿るように動いていた。「献納の盆に、両方の杯を並べる」と、もしそこに書かれていたのなら。
私には、もう確かめる時間はなかった。
大司教猊下が祈祷の最後の一節に入られた。あと数語で銀杯を受け取られる。聖別塩の杯。本来の杯。
私は扇を一度だけ閉じた。
「公爵令嬢」
声は隣から低く落ちた。
枢機卿閣下が、いつの間にか献納卓のすぐ脇まで来ていらした。動きに音がなかった。私のほかに、誰も彼が立ったことに気づいていなかった。
彼が片手をわずかに動かされた。私の盆の上の二つの杯のうち、岩塩のほうをご自身の手で卓の下に下ろされた。
「失礼いたします、公爵令嬢。聖務の手伝いを」
短く、聞こえるか聞こえないかの声だった。
私は深く礼をした。礼の角度の中で、目だけで「ありがとうございます」と告げた。
枢機卿閣下は私の盆から聖別塩の杯だけを取り、大司教猊下に差し出された。大司教猊下が、それを両手で受け取られた。祈祷の最後の一節が静かに大広間に落ちた。
献納の儀は何事もなく終わった。
ように、見えた。
儀礼が終わり、客たちの歓談が始まった頃、大司教猊下が銀杯を卓に戻された。卓の脇に、もう一つの杯、岩塩の杯が卓の下から戻されてあった。誰が戻したのか、私には見えなかった。けれど戻されてあった。
大司教猊下はその岩塩の杯を、何の説明もなく、一口含まれた。
含まれて、すぐに、銀杯に塩を戻された。
それだけだった。
声は出されなかった。叱責もなかった。猊下のお顔は、儀礼の前と何一つ変わっていなかった。
ただ、銀杯の縁に戻された塩の粒が一つ、落ちずに残っていた。猊下はそれを指で払われなかった。しばらくその粒をご覧になってから、杯を卓に置かれた。
それで、終わりだった。
その瞬間が何だったのか、広間の半分は気づかなかった。気づかないように、教会の御方は所作なさったのだろう。
けれど、気づいた方々がいた。
私の左斜め前、リンドホルム侯爵夫人の扇が最初に閉じた。続いて、その向こうの伯爵夫人。隣のご令嬢。さらにその先。白い羽根が静かに一斉に伏せていった。誰も声を上げなかった。誰も近くにいる者と囁き合わなかった。ただ、扇が伏せただけだった。
殿下のお席の隣で、ヴェロニカ様が不思議そうな顔で広間を見回されていた。何が起きたのか、その方には分かっておられない様子だった。手元の「お手伝いの覚書」は、いつの間にかドレスの隙間に押し込まれていた。
殿下がヴェロニカ様に何か低く尋ねられた。ヴェロニカ様が急に肩を上げ、慌てて首を振られた。
王妃陛下が王座から、息子をご覧になった。
一拍、何もおっしゃらなかった。
それから王妃陛下が、隣に控えていた侍従に短くお声をかけられた。侍従が深く礼をし、殿下のほうへ向かった。
「殿下。王妃陛下が、別室にて、すぐにお話を、と」
殿下が立ち上がられた。ヴェロニカ様も立ち上がろうとされたが、侍従が「ヴェロニカ嬢はここに」と短く制した。ヴェロニカ様は中腰のまま、椅子に戻された。
殿下と王妃陛下が隣の小部屋に入られた。扉が静かに閉まる。
私はその扉を見なかった。
献納卓の脇で、銀杯を片付ける手を、止めずに動かし続けた。
扉の向こうから、一度だけ、殿下のお声が高くなった。それきり、声は止まった。
数分後、殿下が小部屋から戻ってこられた。
頬がわずかに赤くなっていらした。
「公爵令嬢」
枢機卿閣下が、献納卓を片付ける私の傍に、もう一度お立ちになった。
「お疲れさまでございました。差配、見事でいらっしゃいました」
「いえ、私は、何も」
「あなた様が並べていらしたのは、聖別塩の杯一つでございました。私はそれを存じておりました」
私は手を止めた。
存じておりました。
つまり、私の盆の上に並べられた二つの杯のうち、一つが私の意図ではないと、枢機卿閣下は最初から分かっていらしたのだ。
「ご覧になっておられましたか」
私は扇を持ち直しながら尋ねた。
「あなた様が、扇を一度閉じられました。あれは何かを諦められた音でも、決意なさった音でもなく、選んでいらした音でございました。それで、私が出てまいりました」
私は彼の顔を見上げた。
灰色の目は、夜会の燭台の光をわずかに反射していた。
「ありがとうございます」
「お礼を申し上げるべきは、こちらでございます。あなた様が選び続けてくださったことに」
何の話だろう、と一瞬思った。
それから、すぐに分かった。
七年前の夜の話だった。あの夜、雪の中を私が選んだ、十三人の手の話だった。
私は何も言わずに、献納卓の銀杯を布で一つずつ拭いた。
枢機卿閣下は、私が拭き終えるまで、私の斜め後ろの位置で控えていらした。ちょうど燭台の光が私の手元に届くように、ご自身の背で別の灯りを遮ってくださっているのだと、気づいたのは最後の杯を拭き終えた時だった。
夜会の最後、王妃陛下が私を王座のお側へお呼びになった。
「セレスティア」
王妃陛下のお声は、いつもよりわずかに低かった。
「今夜の差配、ご苦労でした」
「もったいないお言葉でございます」
「セレスティア」
王妃陛下はもう一度、私の名前を呼ばれた。
「ヴェロニカ嬢のことは、明日、王宮の薬院から正式な体調報告書を取り寄せます。今後の慈善行事への参加可否を、改めて判じます」
私は深く礼をした。
「王妃陛下のお心遣いに、感謝申し上げます」
「セレスティア」
王妃陛下のお声がもう一段、低くなった。
「あなたを、長く待たせました」
私は顔を上げかけて、上げきれなかった。
「いいえ、王妃陛下」
それしか、言えなかった。
王妃陛下は私の答えに頷かれた。それから視線をご自分のお膝の上に落とされた。一拍、何もおっしゃらなかった。それは、朝会の時の一拍と、同じ長さだった。
公爵邸に戻ったのは夜半を過ぎた頃だった。
馬車から降りると玄関にマルタが立っていた。
「お疲れさまでございました、お嬢様」
「ありがとう、マルタ」
私室に戻り、ドレスを脱いだ。母の形見の真珠を、鏡台の小箱に戻した。緋色の宝石ではない。けれど母の真珠は、私の首の温度にちょうど合うように作られている。それで充分だった。
寝台に腰を下ろした時、机の上に一通の書状が置かれてあった。
王宮の緋色の封蝋。
開くと、王妃陛下のお名前で、明朝、王宮にて改めてお話があると記されていた。差配の労いと今後の儀礼の確認、と短く付されていた。
私は便箋を膝の上に置き、しばらく燭台の灯を見ていた。
献納卓の脇で、燭台の光を遮ってくださっていた背中を思い出した。それから塩の粒一つを、指で払わずに見つめていらした大司教猊下の手を思い出した。
七年、誰も助けてくださらなかった、と昨日、私の中の誰かが言った。
その誰かに、私は今夜こう答えてやりたかった。
今夜は、二人いらした。
それから、王座の上に、もう一人。
灯を消して、寝台に横になった。
天井の梁の影が、暗い中で薄く見えた。
戴冠前儀礼まで、あと二ヶ月と二十数日。
その夜、私は自分の首の真珠が、いつもより少しだけ温かいように感じた。
母の真珠は、私の首の温度に合う。
それは知っていた。
ただ、自分の首が今夜は少し温かいのだと、気づいたのは灯を消したあとだった。




